著書が出版されたからには
2021年11月5日
ある著名な学者に望外の親切を戴いている。あるいは迷惑をかけている、と言った方が適切かもしれない。その著書や論文も、読むようにと回してくださることがある。そして、どうか「批判」をしてほしいと仰る。畏れ多いことだ。だが私にはその「批判」の意味はよく分かる。その方もちゃんと事あるごとにその意味を説明しているし、カントを少しでも知る者にとり「批判」の意味が分からないはずがない。
それは「非難」などではない。適切に検討し、議論を発するということだ。
素人ではあるが、学問のなんたるかについてのかすかな心得はある。聖書については自分なりの信仰と少しばかりの見解はある。そんな私は、無邪気なことではあるが、その要請には、何らかの形で応えるのが礼儀と解し、思うところを正直に伝えること旨としている。
お忙しいこと限りないその方であるが、そんな私の疑問や意見に対して、しばらくすると丁寧なお答えをくださることが、申し訳なく思うと共に、嬉しいことこの上ない。こちらの誤りを正すのはもちろんであるが、頭から否定するような言い方はなさらない。ただ、一定の根拠を丁寧に示すところは、やはり学的な誠実さであり、ありがたい。そして、ご自身の理解を曲げるようなことをしないのは、流石その道で生きて来られただけのことはあるし、むしろ頼もしい。それでいいと思う。
SNSを見渡すと、著書を出したキリスト教の先生方がいて、それを告知というか、宣伝するのは当然であるが、信徒たちのほうでも、「買いました」というような応答があると、著者のほうでは丁寧に礼を述べている訳で、良い挨拶がそこに見られる。だが、その本から何を学んだか、あるいはその本の中のここが疑問だ、といった書き込みは、まずめったに見出されない。もしかすると外から見えないところでそんなやりとりがあるのかもしれないから決めつけはしないつもりだが、その本から何を教えられ、自分がどう変わったか、そうしたところまで見届けないで、社交辞令でただ「買いました」で終わると、著者にとっては、きっと張り合いのないものだと思ってしまうのではないだろうか。
偉い先生同士では、著書を贈り合うということもあるようだ。そして何々先生ありがとうございます、という書き込みもあるが、その後それを読んだのかどうかさえ、傍から見ると全く分からない。稀に、内容についての書き込みもあるにはあるが、見た目には確実に少ないと思う。これも背後でこっそり交わされているのかもしれないが、周囲の者〜すれば、その本に関する内容の議論や質問などは、ぜひ公開してほしいものである。そしてそれが本の宣伝にもなることは必定だと思う。有意義な対話を、他の者たちにも見せて戴きたい。
私は良い書、意義ある本については、感想文を公開する。それは別に著者に質問するようなものではなく、ただ私の中でどう受け止めたか、自分がどう思わされたか、そして世の中に対してそれがどんな意味をもつのであるか、そんなことを考えた経緯を綴るものである。著者に対して返答を迫るものではない。だから、その方の目には留まる可能性があるものだが、普通にはめったに反応がない。その方が自身の本を宣伝していて、「買いました」などのコメントが並ぶ中に、私がすでに感想文を発表していたときがあって、そのことを書き込みをしたこともあるが、何の反応もなかったということが度々である。
だが先日、ある方が、私の感想文をシェアしたのみならず、それに対して丁寧なコメントをそこそこ長く加えてくださるということがあった。そして、たんに挨拶で済ませるようなことではなく、その問題が教会や社会にとって大切なものだということを改めて強調する言葉が掲げられていた。
これは、めったにないことなので、私は驚いた。私が真摯にその本を受け止めたことに対するリスペクトも感じたし、著者自身、真摯にそれを考えていることを表明してくださった訳で、これは意義ある記事であったのだということをうれしく思った。
もちろん、それで終わったのだったら、ただの挨拶と何も変わらない。せっかく本を出したのだ。著書が出版されたからには、それがどういう変化を世界にもたらすのか、そこへとつながるのでなければ、著者はつまらないだろう。私は、聖書の触媒としてその本が働くことを願っているが、私自身もまた、励まされて歩いて行かなければならない。ひとを生かす言葉に満ちている本は、ひとを、そしてこの私をも生かすものである。生かされていこうという思いを私は与えられたが、それがもっと他の方々にも、百倍の種のごとく拡がってほしいと願うばかりである。