「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

2021年11月1日

パウロは、イエスに出会ったあの回心以前、愛を知っていただろうか。
 
テレビ放映された「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の特別編終版を観た。福岡では放送されなかったテレビ版の一部をコンパクトにまとめたものである。
 
これの劇場版は、京都アニメーション放火殺人事件により上映が難しいとされていたが、事件50日後に、スタッフの生きた証しとして3週間限定で上映されている。事件の前日に完成したという、それだけでも張り詰めた気持ちにさせられる。
 
すでにテレビ版は放映されたので、ネタバレ気味ではあっても、重要点は紹介させて戴くことにする。ヴァイオレット・エヴァーガーデンとは、主人公の女性の名である。ヨーロッパの第一次大戦を思わせるような、だが架空の大陸での戦争から始まる。ヴァイオレットは、女子少年兵として育てられ、人間らしい感情を育む間もなく、「戦闘人形」として恐れられるほどの、優秀な戦闘員であった。
 
だがその戦争において、彼女にヴァイオレットという名をつけたギルベルト少佐と負傷し、気づいたときには彼女は両腕をなくして病院に収容されていた。少佐が最後に言った「あいしてる」という言葉の意味が分からないが、それが自分の中の何かを動かすことを感じていた。
 
腕は優れた義手により、指を自由に動かせるようにはなっていた。ギルベルトの親友の、郵便社の社長をしていたクラウディア中佐が後見人の一人として彼女の世話をする。なお、他の後見人としてエヴァーガーデン家の籍に入れるが、アニメ版ではヴァイオレットは郵便社の屋根裏で暮らしている。
 
最初は郵便物の仕分けをしていた彼女だったが、郵便社で行っていた「自動手記人形(ドール)」の仕事を見た。文字の書けない人の多かった時代、手紙の代筆をする業務を行う。あの「あいしてる」の意味を知りたかった彼女は、この代筆業が人の心を形にするものだと聞いて、ぜひやりたいと言い始める。タイプライターは初めてだと言いながら、戦場でも任務遂行能力の高かった彼女は、見事な技術をマスターする。だが、人の心が分からないために、依頼者の意図を察して心のこもった文書を作成することができず、戦場で交わしたような連絡文しか綴れない。
 
しかし、友人の助けなどがあり、次第に人の心が分かるようになっていき、一人前の自動手記人形としての仕事を始める。人の心を結びつける手紙というものが大切なものに思えてきたのである。こうして、物語は、幾人かの依頼者に基づくエピソードが、次々と加わり、いわばいくらでも物語を長くする準備が整う。至って事務的に、規則どおりに働くヴァイオレット。それは彼女のそもそもの性質ではあった。だが、様々な依頼の件で人の心に触れていくうちに、しだいに人間らしい感情を得ていく。
 
肝腎のギルベルト少佐だが、重症を負い、生死不明である。多くの人は、死んだと理解している。ヴァイオレットは、隠されていたその情報を知り、狂おしい感情に包まれる。
 
そんな中、夢を見る。ギルベルトを探して、最後に記憶に残る場所までたどり着くと、ギルベルトが、彼女が自動手記人形として働いていることを聞いて厳しい声で言う。「散々人を殺してきた者が、手紙で人を結びつけるのか?」
 
彼女は、自分が生きていてよいのか、絶望する。しかし、本当のギルベルトが、生きろと言って自分を危険な場所から最後に遠ざけたことを思い起こし、また、実際に手紙を配達して、手紙を待つ人の喜びを実感する。社長のクラウディアも、彼女を助ける。「あなたのしてきたことは消せないが、いま手紙を書いてきたことも、やはり消せないのだ」と気づかせる。「届かなくてよい手紙などないのだ」という言葉が、彼女の支えになり、歩き始める。
 
見所はまだまだあるのだが、これだけお伝えすれば、私が何を言いたいのか、もうお見通しの方が多いことだろう。
 
私も、ヴァイオレットと同じだったのだということを、痛感したのだ。「あいしてる」という意味が、自分本位のものでしかなく、人を傷つけてばかりであったし、そのことにすら気づいていないような者だった。いわば、私は散々人を殺してきたのだ。戦闘能力が高く、任務遂行にかけてはひとかどの者であった私は、いくらでも人を殺してきたのだ。だから彼女のように、人の感情が分からなかったのも当然であった。
 
その、私のしてきたことは、消せない。だから気づいたときに、絶望した。そこから、聖書に救われた。パウロの手紙が最初に、神の前に連れて行った。それから、十字架にキリストに会った。いくつかの問題点をぶつけたが、聖書の中にそれぞれの答えがあり、キリストから返されてきた。
 
私は想像する。パウロも、そうだったに違いない、と。私はそんなことはなかったが、パウロはもっと凄い才能をもち、エリート出世株だった。旧約聖書に「愛」という語があることは知っていただろうが、イエスに会う前、サウロと称してた時期には、それを自分の理屈でしか知らなかったのだろうと推測する。パウロは、そうした心情を吐露した様子は、少なくとも新約聖書には見られない。だがだからと言って、パウロがキリストと出会って具体的に何がどう見えるようになったのか、それが「ない」というわけではないだろうと思う。自分の病気や、具体的な葛藤についてそんなに詳しく書いてはいないのである。パウロはイエスと出会ってから、愛を初めて、それも真実の愛を、知ったと思うのである。
 
もちろん、これは私の想像に過ぎない。だが物語は、いい。決まった解釈しか許さないものではないだけに、豊かに、人間の思いや心について考えさせ、またぐさりと刺さってくる。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」についても、私の理解は全く的を外しているかもしれない。大好きなファンの方々の思いを裏切っているかもしれない。だから、この作品がどうだというふうには言わないつもりだ。ただ私は、そこに自分自身を見せつけられた気がした、という点だけを大切に胸に懐いた、というわけである。もちろん、いま私が愛の人になったなどとは、口が裂けても言えないし、愛とは何かを新たに知った故に自分にそれができるなどとは、一度も思ったことがないということは、言うまでもないことである。



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