【メッセージ】この永遠の中であなたと
2021年10月31日
(詩編92:1-16)
主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。(詩編92:9)
92:9 主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。
今日はこの言葉にどっぷりと浸かってみたいと考えています。他の訳も少し並べてみます。
しかし、主よ
あなたはとこしえに高きにおられる方。(聖書協会共同訳)
主よ あなたは永遠に いと高き所におられます。(新改訳2017;ただし8節とする)
主よ、あなたはとこしえにいと高き方。(フランシスコ会訳)
ニュアンスは違いますが、それほど大きな差異はないように見受けられます。ここにある言葉は元々は四語。「(しかし)あなた」「高さ(所)」「永遠」「主(ヤハウェ)」の順に並んでいます。邦訳の語の順ではなく、原語のこの順で、いくらか自由に想像の翼を羽ばたかせてみようと思っています。お付き合いください。
1 あなた
ツイッターというSNSがあります。電車が遅れたとき、その情報にかけてありがたいなあと思います。その路線名で調べると、遅れているという呟きがきっとあります。事故であれば現場にいる人からきっとツイートがされています。JRの公式発表よりずっと早く、たぶん信頼できる情報が集まります。
人とのつながりもできますし、なかなか良い交わりができることもあります。他方、報道ではこちらばかり出て来ますが、誹謗中傷が飛び交い、いじめが行われているのも事実です。当人は、悪いことをしているつもりがないのに、人を殺すほどのことが平気でできているというのを怖いと思います。が、その点についてはまた別機会で触れましょう。
その良い交わりと、酷い暴言との違いは、もちろん一目瞭然ですが、「あなた」と向き合っているのは良い交わりのほうのように見えます。暴言は、「おまえ」と呼びかけるようなものが報道されますが、実は、向き合いもせず、「これは」と第三者的に持ち出して酷評するのが殆どなのです。傷つける側も、最近は「おまえ」と書くと犯罪になることが分かってきています。しかし「これは」と批評するならば、ひとつの言論となって言い逃れができることを知っているのです。これに取り憑かれた人も実際に私は知っています。
「あなた」と呼びかける相手がいないとき、人はだんだん歪んでいくことがあります。人は他者から自分がどう見られているか、という関係の中で、初めて自分というものを知る、否初めて自分というものが成り立つのだ、という考察がよくなされています。自己意識は、本当に自分一人しかいないところではありえないのである、と。ツイッターで他人を攻撃している人は、しばしば「あなた」と呼びかける相手をもたないような気がするのですが、どうでしょうか。安全なところから世界を眺めているために、いつしか世界の王のようになった気がして、いわば自分を神としてしまう錯覚に陥っているのではないだろうか、というように見えるのです。
一人暮らしだから「あなた」と呼べる人がいない、と悩む方がいらっしゃるでしょうか。そんなことはありません。仏壇に手を合わせて亡くなった方に「あなた」という態度で向き合って対話をする場合があるでしょう。動物に語りかける気持ちがあってもいいのではないでしょうか。アンネ・フランクは想像を絶する閉鎖的な生活の中で、キティという少女に語りかけていたといいます。「あなた」がいるということは、人が生きていくために欠かせないことだと思えませんか。
2 高さ
日本語と違って、原語では「あなた」の次に来る語は「高さ」でした。新改訳聖書にあったように、「高き所」のことと理解することもできるでしょう。高さというのは、私たちの感覚からすると、良いものであることが普通です。「高低」が喩えのように使われるときには、「高」の方が良いものを指していることでしょう。「高貴」であったり「高位」であったりするのはもちろんですし、「高級」も「至高」も良いことです。
高いものを求めるなら、どうしても空を見上げることになりますか。高い空、そこは昔、神の住まいと考えられていたことでしょう。いわゆる「天」ですが、私たち現代人の感覚とはまた違います。いくつもの層があるように考えられていたのが、イスラエルや多分中東の常識だったのではないでしょうか。
しかし神を除けば、人間の中で高い地位にあるということが、身分の差を生んで来ました。百人一首で高貴な詠み手の絵では、畳のようなものの上にその人が座っているのを見ます。調べると「二畳台」というのだそうです。厚い畳であるとはいえ、ほんの二十数pの高さなのだそうですが、それだけで、身分の差、高貴の度合いを見せつけるに十分だったのでしょう。会社では、役職の名が上位下位を決定づけ、高い方が強いことになっていますが、高い方が強いと言えば、相撲の世界でも、明確にランクが決められているわけですね。柔剣道の段位や、囲碁将棋の段位などもそういうことでしょうか。上座があるし、上手と下手とがあるなど、どうしても私たちは高い低いの違いを作りたがるもののようです。
日本語では特に、尊敬語と謙譲語という区別がいまなお日常にあります。そういう文化なのです。謙譲語は、自分を低くすることによって、相対的に相手を高めるという効果をもつのだといいます。相手の方が、一段上に上がる形になるのです。こうして高く位置したほうが、上位であるということだし、偉い者、尊敬すべき者だということになります。
聖書の世界でも、神は高いところにおられる、という見方をするので同様だと思って差し支えないと思いますが、私たちキリスト者は、上を見上げるとき、そこに目に入るものには、大切な方がいらっしゃいます。イエス・キリストは十字架の上に挙げられたのでした。果たして何が争点か分からないような裁判に巻き込まれて、群衆の圧力により死刑判決へともまれていったのでした。
福音書の、イエスの逮捕から裁判、そして十字架の場面、お読みになったことはありますか。福音書の長い部分を占めており、やはりここを描き、伝えたかったと思われてなりません。もちろん復活も大きな場面ですが、マルコはそこを簡略化しています。私はそこに自分が登場しているということに気づいたとき、人生が変わりました。高い空を見上げるとき、この十字架を見上げることと、どうしても同じことのように思えてしまう気持ちは、ずっと変わらないでいます。
3 永遠
三つ目の言葉は「永遠」です。「永久」と「永遠」とはどう違うか、というような日本語の語感を考えるのも面白いのですが、ここでは日本語の研究をしているわけではありません。こうした概念について、日本人は「とわ」と読み、東京オリンピック2020でも、マスコットの一人にミライトワという名が付けられました。「とわ」は古くは「とば」と書かれていたとのことです。「常とわ」という言葉が元の形であったと考えられています。
思い出すのは、竹取物語のラストシーン。月の使者たちとの応戦空しく、かぐや姫は月に帰って行きました。姫が遺した不老不死の薬も、悲しみの果てに帝は呑むこともなく、処分します。薬を燃やしたその山を「富士の山」と呼び、いまもなおその煙が立ち上っているのだと物語は説いていました。もちろん、「富士」が「不死」をかけていることは明らかでしょうが、不死に対して空しさを覚えるという考え方は、しょせん空しい人生のはかなさや、諸行無常の思想ともつながるのかもしれません。
日本人は、永遠の命など求めてはいないのかもしれません。どうせそういうのはありはしないのだ、という諦観からきているのかもしれませんが、そうしたリアリズムによる前提が、近年変わってきているとも見られています。冷凍保存により、現在治療不可能な病に苦しむ人が、将来治療法が見出されたときに目覚めて治療を行うという発想も現れていますし、他方、人工臓器やロボット技術、そしてAI技術の発展から、いわばサイボーグ的な身体形成をして生き続けることができるのではないか、という考え方もあります。単にそれはすごいという科学的な面ばかりが話題になっているのではありません。そのとき、法律や倫理の変更が促されてしまうのです。いったい、人間としてのアイデンティティは、どこまで保有することになるのか、という問題を考えなければならなくなるかもしれない、というのです。関心のある方は調べてくださり、私にもまた教えてくだされば幸いです。
新約聖書では、イエスの許に、永遠の命を得るにはどうすればよいか、という問いかけが幾度も持ちかけられます。調べると新約聖書の中の43もの節に、「永遠の命」と訳せる言葉が登場しています。しかし、旧約聖書にはこの考えは殆ど登場しません。申命記に一つだけあるこの訳語は、人間の側からではなく、モーセを通じて持ち出された主の宣言の中にあります。
32:40 わたしは手を天に上げて誓う。『わたしの永遠の命にかけて
32:41 きらめく剣を研ぎ、手に裁きを握るとき/わたしは苦しめる者に報復し/わたしを憎む者に報いる。
これでは参考になりません。旧約聖書続編の中にも一つありました。七人の兄弟が次々と殉死していく、世にも残酷な場面です。ついに最後の弟にシリアのアンティオコス王が豚肉を口にしてユダヤ教を棄てよと迫りましたが、毅然とした態度で言い返します。
わたしたち兄弟は、永遠の命のために、つかの間の苦痛を忍び、神の契約の下に倒れたのだ。だがあなたは、神に裁かれ、その高慢さに似合った罰を受けるがいい。(マカバイ二7:36)
同様に「復活」という語も、旧約聖書の中には見出されないに等しいのですが、旧約聖書続編には少し見出されます。どうやら、イエスの登場する時代に近づくときに、この思想が生まれてきたようです。周辺諸国との争いや迫害の中で、そうなったのでしょうか。ファリサイ派がこれを支持し、サドカイ派がこれを認めなかったことは、新約聖書の中にも描かれていてよく知られています。
では、旧約聖書では「永遠の命」は別の形で考えられていたのでしょうか。それとも全くそんなものは思いもよらなかったのでしょうか。
ひとつには、「長く生きる」という言葉でそのようなことが意味されているように見受けられます。十戒の中央のところにあったのが、まずそれでした。
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(出エジプト20:12)
その他は殆どが申命記によるものです。八カ所ある中で、ひとつだけ代表させておきます。
4:40 今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。
永遠の命とは、地上で長く生きることだったのでしょうか。人は眠りにつくのが当然であって、それまで長く生きることが幸せであったということなのでしょうか。旧約聖書からは、人間の幸せについては、そういうことしか出てこない用なのです。
こうした思想については、気長で緻密な研究が必要です。また、人の聖書観がそこに大きく関わってくるような気がします。その人の信仰により、どのように理解していくかという方向性が決まるでしょうし、解釈の仕方がそれに基づいて見つかると思われるからです。
旧約聖書では、肉体は死ななければなりませんでした。新約聖書もその点は殆ど違いはありません。しかし新約聖書では、何かしら霊的あるいは精神的に、死なないところがあるようにも感じられます。こうした点は、聖書とは関係のないところでも、私たちはどこか自然に感じることがあったような気がします。
身近な人が亡くなるというのは、大きなダメージを受けるものです。妻に先立たれた夫は、その後間もなく命尽きることがよくあるという調査結果があります。人間にのしかかる悪い意味でのストレスとしては、配偶者の死が最大級に大きいという研究がありますが、これは特に夫にとり強烈だそうです。夫が先に死んだ場合、妻のほうはその後も長生きをするということが多いとも言われていますが、束縛から逃れて羽を伸ばすとでもいうのでしょうか。いや、これは冗談が過ぎました。
亡くなったような気がしない。そんな思いが、しばらく続くことがあります。家族の死を受け容れられないという心理のほかに、自分の心の中にその人がまだ生きているという感覚をもつこともあろうかと思います。また、そのために、その人のことを忘れないうちには、まだその人は死んでいなくなってしまったのではないのだ、というふうに考える人もいます。誰かに覚えられている限り、その人は死んだのではない、とするのです。ですから、本当に誰からも思い出されなくなったとき、その人は第二の死を迎えるのだ、などというのです。
私の心の中に、その人は生きているんだ。そんなふうに感じたことはありませんか。その時、一種の永遠の命のことが迫ってくるのではないでしょうか。では人ならぬ存在、つまり神を、私たちが心の中に大切に抱いている中で、神は死ぬはずがありません。神は、人が思い続けているだけでも、その命に永遠性があると見ることもできそうです。
確かに、神は、永遠のお方でしょう。人は、そんな神に憧れ、神の永遠を手にしたい、と考えるようになったのかもしれません。
神は永遠。全能の神からして、それは当然のことにようにも思えますが、理屈からすると、少し厄介な問題がそこに混じってきます。神は世界を、いまの言葉で言うと宇宙をつくった。では、この宇宙をつくったそれ以前には、神はどうしていたのでしょう。あるとき気紛れに宇宙をつくることをぽつんと始めたのでしょうか。世界創造以前に神は何をしていたのか。これはなかなかの難問です。古来多くの哲学者や神学者その他が考えてきました。
この困難を抜ける道を人類は見つけました。創造以前の神という捉え方自体がおかしいというのです。神は、この時間をも創造したのですから、神はその時間に制約されるようなことはない、というのです。何かしら一定の時間軸の中のあるときに天地創造がなされたのであれば、神は時間の内に支配された形で創造の業を行ったことになります。そこで、逆転の発想ですが、神はこの時間軸の外に立っていて、時間をも創造したのだ、このように考えることでアポリアから抜け出しました。その思想の深さと広さ、また後のカトリックをはじめキリスト教世界に対する思想的影響力が非常に大きかったために、14世紀に「教会博士」という名を与えられた、アウグスティヌスがそのように説明をしたのです。
そのアウグスティヌスには有名な言葉があります。自伝であるという『告白』の中で、「それでは、時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、誰か問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである」と書いています。時間は私たち人間に完全な形で説明することはできず、また時間を超越することもできないのです。しかし、神にはそれができる。さしあたりそのように考えるよりほかありません。
手塚治虫の「ブラック・ジャック」で、ブラック・ジャックは、恋人・如月恵の命を救うために女性としての臓器を摘出する手術を自ら行うことになります。オペ直前に、くちづけをした後、恵が「これきりなのね……手術が終わったらこの気持ちもかき消えてしまうのね」と言ったとき、ブラック・ジャックは答えます。「いや そうじゃない。この瞬間は永遠なんだ」
終わったら、そんな未来を否定できるのが、この瞬間の永遠性だということ、いえ、下手な説明などする必要はありません。感動的なこの箇所は、私の心に深く刻み込まれていました。それは大切な視点を与えてくれたと思っています。
神は時間を超越している。アウグスティヌスもそのような角度から考えていましたが、時間を超えた存在としての神が、永遠の命を与えるというのが聖書のひとつの大切な信仰です。それは、もはや時間の中に制約されるような形でしか捉えられないような、永遠性に過ぎないものではないのではないでしょうか。神との関係の中にあるとき、もう少し具体的なイメージで言うならば、神と自分との間に関係が築かれて神と結ばれた時、あるいは神と絆ができた時、私たちはその瞬間を永遠と呼ぶことができるような、そんな永遠の命を与えられた、というような考え方ができるような気がするのです。
そうすると、二千年前に十字架に架かったイエス・キリストの死が、いまの自分とどんな関係があるのか、という、よく訊かれる問いにも、答える道がひとつあたえられるのではないでしょうか。二千年という時間の中に神は支配されてしまうような方ではないのです。神は時間外の方ですから、千年も一日のように、という詩編のひとつが思い浮かべられますが、二千年など何の影響もなく、私たちに「いま、ここで」出会ってくださるのであり、関係を築いてくださるのであり、私たちを救うことができるに違いありません。現に多くの人を救っています。そして永遠の命という希望を与えるばかりでなく、「いま、ここで」永遠の命の中に引き入れてくださっているのだ、と受け止めたいと思います。いまも十字架の救いは確かにあります。時間の遠さは全く関係がありません。いつでも、この「いま」が「永遠」になるのです。「この瞬間は永遠なんだ」と私たちも口にしたい。
4 主
いよいよ最後の語、「主」に至りました。文の最初に「あなた」と呼びかけたその相手が「主」であることが明らかになります。ひとは、他者と向き合うことを必要とする、と最初に考えました。誰か他者がいることにより、初めて自分というものも認識できるということに気づくひとときでした。その他者は、この詩において、紛れもなく「主」であるということがはっきりします。
「神」という日本語には元々曖昧なところがあり、力のある者一般についてそう呼ぶことができる、とも見られています。それは日本故のことか、と思われるかもしれませんが、聖書の言語においても、神一般を指すことのできる語はあるわけで、それに比べると、この「主」というのは、その中の唯一なる創造主のことであるということになります。
ややこしいのは、「主人」という地位を示す語も、聖書では「わが主よ」というように、人間相手に用いることがあるのですが、いま見つめている「主」の語は、いわば固有名詞であり、天地万物を創造したあの神ひとりのみを指すものだということです。新改訳聖書では、これらの意味を区別するために、神の名を表す「主」のほうは、フォントをボールド(太字)にして表しています。
これは近年「ヤハウェ」という読み方で知られるようになった、あの神聖な名前であるわけです。ヘブライ語は古くから、子音を中心とした文字の筆記により成り立ち、日本語で漢字の読み仮名をいちいち書かないように、母音を書き記さないままでいたのが通例でした。そこへ母音を小さく記号で書き加えるようになり、より読みやすくなったのですが、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)という十戒の規定のため、本当の名の読み方とは違う母音を振っていました。そのまま正直に読めばそれは「エホバ」のようになりますので、いわゆる文語訳聖書では、「エホバ」と記されていますが、それは本来の神の名の読み方とは違うという研究に基づき、現在では、本来は「ヤハウェ」のようなものであっただろうと考えられています。
詩人は、この特別な主に向かっています。ひとつの信仰告白であると見ることもできそうです。見つめる相手は、この主のみ。主に全身全霊を向けて、うたっていることになります。
旧約の時代、幾人かの選ばれた人々は、神と直接話をしました。神の声を聞き、天使などの形態ではあったでしょうが、神を見ることができました。神を見た者は死ぬとも言われていましたが、神から言葉を受けるため、なんらかの使者が遣わされて出会っていたことが記録されています。もちろん、基本的に神を見るということが一般的であったわけではありません。そしていま私たちも、そのように神を見るということはまず無理だと考えられています。
見えない神なのに、どのようにして神と向き合うのでしょう。私たちのポンコツな霊魂は、どちらを向いて話をすれば、神と対話ができるのでしょう。神を称えるなどと言いますが、どこに向かって称えればよいのでしょうか。
だったら、イエス・キリストがいる。イエス・キリストを通して、神と会える。イエス・キリストによって、神を知ることができる。ここが重要です。
イエス・キリストは神であるのかどうか、古来論争がなされてきました。現実の争いとして人の命が失われるようなこともあり、異端問題も発生しました。けれども、理屈で片付けようとしても、解決はできないと思われます。理屈では唯一正しい説明など、人間にはできないのです。ただ私たちは、イエス・キリストを通してのみ、神を見ることができる、それでよいのではないでしょうか。
さて、こうして詩編92編の中央にある文の、四つの言葉の一つひとつに立ち止まりながら、ここまで来ました。お付き合い、お疲れさまでした。詩の全体を味わうことは、皆様一人ひとりにお委ねいたします。
ただ、この中央というのは、ユダヤ文学でそのまとまりの最も大切に考えられていることを置くことが多いものだということは、よく知られていますけれど、改めてお伝えしておきます。ここを取り上げることには、ひとつの意味があったのだ、ということです。
それから、この前後には、「神に逆らう者」「悪を行う者」「あなたに敵対する者」が居並んでいる点にも触れておきます。こうした者に囲まれてなお、主は「永遠に高くいます方」であると言いたいのです。
そしてもう一つ、この詩の表題のようなところには、「安息日」という言葉が見えます。悪い者に囲まれたような平日を超えて、いま主の日に主を礼拝する場に集った私たち、そして皆様がいるこの日のことです。世知辛い日常からふと抜け出して、私たちは主の日を喜ぶ。このときに、改めて、「あなた・高い・永遠・主」というところに心を向け、この主を称えるところに、どっぷりと浸かっていたいものだと思います。イエス・キリストを通して、神と出会うひとときを大切にして、また一週間を歩んでいきましょう。