「護られなかった者たちへ」

2021年10月30日

妻がどうしても見たいと言ったのは、佐藤健さんの故であったが、ようやく機会ができて、貴重な午後をこの長い映画で満たした。
 
もちろんネタバレは御法度である。映画のストーリーや見所をお伝えするのはよろしくない。ただ、東日本大震災を踏まえた話であること、保健福祉センターが舞台であり、その生活保護というデリケートな事柄について深い問題意識をもたらすこと、これくらいは触れてもよいものと判断する。
 
震災の被災者のことを、離れている私のような者は、気の毒に思ったり、辛いだろうと想像したりするだろう。なにかしたいという気持ちになり、義捐金を送ったり、また教会で祈ったりする。だが、そのことで、日々刻一刻と舐めている辛酸や、過去との葛藤の心などを、見えないようにしてしまっているのではないか。根拠のない「大丈夫」といった言葉で蓋をして、その痛みを知ることを拒んでいるのではないか、という気がしてならないのだ。それは、ホームレス支援をしている方が、家に帰りほっこり布団に入ったときに、「俺は何をしているんだろう」という気持ちになるということと、少しだけ近いかもしれない。少しだけというのは、実際に傷つき悲しんでいる人に直接何かを私がしているわけではないからだ。
 
ちょうど『ウィトゲンシュタインはこう考えた』という、講談社現代新書を読んでいた。言語の問題とひとの生き方とを、在野でとことん考え抜いた、傍から見ると風変わりな哲学者であるが、知る人はどんなに凄い人であるかはご存じのはずである。
 
本書の著者、鬼界彰夫氏の書いている文章を引用する。後期ウィトゲンシュタインが、「痛み」という概念について格闘している様子を整理している。
 
 
ウィトゲンシュタインの新たな理解の出発点は、「私は痛い」という発話は私の感覚の直接的記述などではなく、泣いたりわめいたりする自然的表出の代理である、という考え方である。……「私は痛い」という発話は自分の状態の記述ではなく、表出なのである。……我々は「私は痛い」と言うことにより、自分に注目を集め、自分に問題があることを知らせ、できるならその改善を求めようとするのである。(p322)
 
では、「私は痛い」が痛みの表出であり、訴えであるなら、「彼は痛い」という文は何を意味するのだろうか。同情を意味する、これがウィトゲンシュタインの解答である。……「彼は痛い」と言うことにより我々は彼の行動から痛みを推測したり、行動を記述しているのでなく、彼は改善や援助を必要としているという認識を、「できるなら何とかしてやりたい」という自らの態度で示しているのである。こうした態度のうちに示された認識が「同情」なのである。(p323-324)
 
この新しい「痛み」概念によれば「私は痛い」と「彼は痛い」の違いとは「他者に訴える」ことと「他者に同情する」ことの違いであり、異なる二つの認識の違いではなく、異なる二つの態度の違いなのである。(p324)
 
 
忍耐強さという背景もあるのかもしれないが、被災者は「私は痛い」とはなかなか口にしない場合がある。映画の中のある場面にも重なるものである。他方、東北から離れた地に住む私のような者は、口で簡単に言うことができる。「あの人たちは痛みをもっている」つまり「彼は痛い」と。そこにはすでに、一定の態度が示されていることになると言えるだろう。
 
しかしやはり所詮、その程度のものなのだ。その程度のことで自分が善人になれるわけでは全くないのだ。映画では生活保護制度のジレンマも描かれていたと思うが、私たちにはそれ以上のことが、なかなかできない。それでも、人のつくった制度であるならば、人として、原理原則だけでない運用を、考えていけないかと思い知らされる。そのためには、言動が必要だ。否、まずは言の方だけでもいい。
 
大事なことは、黙っていないこと。声を挙げること。いや、声に出すだけでもいい。ちょうど、私の家族の問題の中で、このことに関係することがあったばかりであった。声に出すことができただけでも、何かが大きく変わるきっかけになることを経験した。
 
このままでよいわけではない。このままいくと、拙いことになる。そんなことに気づいた者が、声を挙げることには、かけがえのない重要さがある。だから私は、日々声を挙げている。その言葉の中に、命があることを、信じている。



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