「正義の天秤」

2021年10月28日

NHKで地味なドラマが始まって、放送終了した。最初から私は注目していて、楽しみにしていた。キリスト教会が重要な舞台になっていると聞いたからだ。
 
原作を知る者ではない。原作には、ギリシア神話の「アイギスの盾」も絡んでいるが、登場人物の焦点がひとつの教会に集まる。教会学校に来ていたという人たちが話の中心にいるためで、主人公のスーパーマン的な鷹野和也もそこを心のよりどころとする。牧師は女性で、山口智子さんが好演していた。
 
テーマは明らかに「正義」である。鷹野和也は、元外科医でもあった。だが、恋人となった女性が弁護士をしていて、手がけていた事件に関して暴漢に襲われ遷延性意識障害になる。医師として彼女の命はなんとか救えたが、犯人へ迫れる訳ではない鷹野は、今度は弁護士となってその復讐を果たそうとする。
 
かつてテレビドラマで福山雅治さんが「ガリレオ」で活躍した事件解決での縁起を彷彿とさせる演出で、亀梨和也さんがクールに、だが最後には苦しみ悩む様をよく伝えてくれた。
 
事件解決の過程については、視聴者から不満もあったようだが、物語に浸る上ではむしろドラマとして味わうほうが適切であるように思われる。なにしろ、テーマは「正義」である。そして、ドラマではこの単語は中心部には取り上げられなかったように思えるが、「ゆるし」がそれと並んで掲げられて然るべきだと感じた。
 
だから、やはり舞台の中心に教会があったのだ。その教義が示されるようなことはないし、神ということも持ち出されることはなかったが、それでもなお、ひとは正義とゆるしについて、人間なりに問い続けなければならないのだ。
 
この「ゆるし」は、元外科医ということとつながり、「治療」という言葉で提示されている。だが、キリスト者は問いかけられるだろう。おまえはゆるせるのか、と。
 
私の場合はそれどころではなかった。私が誰かをゆるすかどうか、そこではなかった。私はゆるされるのだろうか、というところまで連れて行かれたのである。
 
そんなのはイエス・キリストの十字架で赦されていますよ、などと気軽に言わないで戴きたい。そうではないのだ。そうでしょう?
 
キリストを受け容れた。信じた。その時、喜びがあった。そして、自分はいつの間にか偉くなった。世が間違っていると思うようになり、この狂った世の中に、キリストの福音を伝えるのだ、といったような角度で考えるようになった。いえいえ、そんなつもりは微塵もありません、と仰ることができる人は幸いであるか、逆に不幸である。私は、どこかで自分は正しいという態度でひとに接していたことを認めざるをえないのだ。
 
私はいまなおであるが、他人の間違いについてはそれなりに指摘できると考えている。また、ある方面における間違いについては、執拗にその間違いを見逃すことはできないと考えている。だがこのドラマを通して、あることを否定できないところにまで追い詰められたように感じた。それは、その「他人の間違い」というのが、「自分の中にある間違い」であるということだ。つまり、自分の中にある醜いもの、誤っているもの、それを、他人が露わにしているとき、それを攻撃的に見るようになっていた、ということなのである。
 
自分の中の間違いを、他人がやっているとき、そこに私は、それではいけない、という警告を出すことをしていたのだった。だから、その他人の間違いは、確かに間違いなのである。その人が正しいなどとは、やはり言えない。ただそれが、自分にもあるということからくる指摘であるということを、正に突きつけられたということになる。これまでも、暗にそうだろうとは思っていたことなのだが、確実にそうだという迫りに平伏したという次第である。
 
その意味で、「ゆるす」ではなく、私は「ゆるされる」というところに今立っている。もちろんそれは、キリストの赦しが以前は分かっていなかった、などということではない。むしろ、キリストの赦しは、その都度私たちを取り巻いており、導いている、そういうことではないだろうか。以前赦されたからそれで終わり、万歳、ではなく。
 
神は何度でも、ひとを「ゆるされる」という気づきに運んでくれる。天秤は、もちろん法曹の象徴であるのだが、それは微妙なバランスの中で用いられる道具である。独断的な正義で自己義認をし続けることは、そのバランス以前の問題である。キリストの言葉をそんなことのために使ってはいけない。神の前に跪き、ゆるされた罪人だという名札を外すことのないような歩みをしていきたい。私は、他人をゆるされた者とすることはできないから、どうぞ一人ひとりが、神の前に自分を問うような体験から幸せを受けてくださればと願うばかりである。



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