好感の背後を思えば

2021年10月26日

たとえば少年時代に、少年院に行った者もいるくらいの不良仲間に入り、盗みを働いたことがあったとする。こうした経験が人生を狂わすというばかりでなく、その後キリストに立ち帰ったというのならば、これは神の業として、証詞をする時に触れないではおれない出来事となるだろう。洗礼を受ける前に、キセル乗車をしていたことを電鉄会社に告白して、許しを受けた私のような者もいる。駅長さんは渋い口調だったが、もういいから、と言い、実はそうした告白は度々あるのだと教えてくれた。盗みを働いた店にはお詫びの手紙を差し上げたが、こちらからはお返事はなかった。ずいぶんな年月が経っていたので、そのお店がもう存在しなかったのかもしれない。
 
職場でパワハラを、受けたのではなくやっていた側の人が、パワハラが社会問題になったときに自分の罪を示されたのだとすると、これははっきりと、自分がそれをやっていた、と告白することによって、神の前に出るというようにするならば、それを聞いた私たちは、神を賛美し、その人の救いを喜ぶことができるだろう。もちろん、そのハラスメントを受けた人に謝罪するなどの何らかの行動が伴っているべきではあるが、私もまた、人を傷つけたという点で、一人ひとりに頭を下げにまわったということは実際できていないから、その点は大きな顔をすることはできないチンケな者である。ただ、こうしたことを告白しないでは洗礼も、別の教会への入会も、できるはずがなかった。
 
こうしたことを告白すらできず、曖昧にして、ただ単に「信仰告白をしました」というだけの洗礼は、私に言わせてみれば、そしておそらく聖書の基準から考えても、きっと空しい。作文を読むだけだったら、誰にでもできる。もし教会で育ったとか、それに近い環境で教会と関わり続けたような人だったら、聖書や教会の用語は使い慣れていることになるので、それらしい文章はいくらでも作ることができよう。頭でいくらでもそれらしい言葉を使った作文を書くことはできるだろう。もちろん、本人としては書いたときにはそれなりに真実であったとしても、また、聖霊によらなければイエスを主とは告白できないという点も私は否定はしないにしても、それで万事オーケーとはならないのではないだろうか。実際イエス・キリストと出会う経験がないままに、教会員になることは、売り手市場(失礼)のような現状では、よくあることなのかもしれない。
 
但し、それが牧師や伝道者になるきっかけ、つまり献身というものであったのなら、もし自分の罪というものに対してぼやかした光の当て方しかできないとなると、これは残念ながら献身というものではないに違いない。仕事を辞めて神学校に通えば献身という者ではないのである。自分はどういうところから、どのように神と出会い救われたというのか、それが明確でないのならば、いくら恰好だけ取り繕っても、やがて必ずぼろが出るし、錆ついてしまうだろう。これを受け容れてしまう教会は、かなりの確率で、悪い方向に傾いていくことだろう。私は目の前で、そうした牧師・伝道師を現実に何人も見てきた。教会ががたがたになってしまったところもあるし、信仰がずいぶん歪んでしまったところもあるのだ。中には優等生的な経歴をもってはいるが、人格的云々はさておきながらも、信仰体験がないままであることが、見る目のある人には分かるお粗末な人もいた。他方、これは信じている教義に問題があったのだが、聖なる生活を強調し過ぎて強権発動をどんどんするタイプの人が、口では愛だ愛だと言いながら、全く愛のない言動をしているような姿にも出会ったことがある。
 
人間は、どこまでも不完全なものだ。聖人君子をキリスト者に求めるつもりはさらさらない。もしそうだったら、私が真っ先に退場させられるのだから、憐れみの中でそうした場に入れてもらえることには感謝するほかはない。だが、だからと言って、一定の権威をもつ場所でその仕事をしてもらうような場合には、献身について、いやそれどころか救いという基本的な土台のない人が相応しいとは決して考えることはできない。どんな才能があろうと、表向き人当たりがよかろうと、たとえばちょっとした言葉の端々に、人を見下しているからこそ出るようなものがあるかもしれないし(これはその人に牧師などという肩書きがあると、見るほうもバイアスがかかって、そんなつもりで言っているのではないだろう、と自然と弁護するものであるために気づきにくい)、自分の野望を実現させたいという思いしかない中身のなさに気づかせないとする偽装(これは本人がそう気づいていない場合が多く、潜在意識がそうなのだということは、注意深い周囲の者が気づく可能性があるが、実際難しい)を身にまとっているかもしれない。他人が気を使って、牧師には苦労が多いからと忠告してくれたとしても、それでも自分はやる、と立ち上がるのが英雄的であるかのように本人が勘違いすることさえありがちである。自分が中心に位置する世界観をもっている場合には、自分の意志を妨げるものは悪魔だと決めつけるようなことも簡単だ。こういう構造は自分自身が気づいていないという前提があるため、他人が気づくのでなければならないが、気づきにくいし、気づいてもまさかと自分を抑えることが普通であるし、何か言おうにも、他の人が一斉に弁護に回るのが通例であるので、なかなか面と向かっては指摘することができない点が厄介である。
 
そういうお前はなんのために日々こんな不愉快なことを吐くのだ、と迫られそうな気もする。お前には献身のような気持ちはないのか。自分勝手な私は、とてもそんな仕事はできないし、人の命を預かるような立場で振舞うようなことも無理だ。ただ、神の声は聞いている。いまここでそれをあからさまにはしないが、その結果とにかく、聖書から自分が聞き、受けたことを宣伝することで、何かひとを生かすことができるような道しるべでありたいとは願っている。そして、人の好さそうな人間の背後に、隠れた危険性がある可能性だけは、忘却しないでおきたいと自戒している。その人の本性を見抜くことができなかったために、失敗したことがあるからだ。もっと早くその人の正体に気づいていたら、多くの人が傷つかずに済んだのだと思うと、悔やんでも悔やみきれない。もちろん、ひとを信頼するということの大切さと、事実信頼できる人がいるということも、忘れているわけではない。全面的に信頼できる相手は人間の中にはない、というところを外さないでいたいと願うばかりである。



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