本当にそれでいいのか
2021年10月18日
「民主主義」は絶対的な善である。
「分断」は悪である。
本当にそれがすべてなのか。そこから何か間違った道に水が流れていくようなことにはならないか。こうした眼差しで、世を見張ることにも、キリスト者は神から期待されているものだと考えている。
たとえば「民主主義」は、古代ギリシアのプラトンからみれば、衆愚政治であり、人間社会を滅ぼすものと見られていた。もちろん時代背景や政治状況がいまとは異なる。だが、いま私たちが見ている「民主主義」が文句なしの正義であるとすることはできないことは、おそらく誰もが了解していることではないだろうか。政治とは完璧なものしか許されないものではなく、相対的に幸福へと近づくものであれば十分であるということは承知の上で、これを言っている。だからまた、「民主主義」を偶像視してはならない、という点も押さえておきたいのだ。キリスト者や教会の発言の中でも、「民主主義」だから正しい、というような発言が、しばしば見出されるからだ。
「分断」は最近の流行語でもある。それは悪いことだという前提で用いられている。ではそのとき、その発言者は、何を以て良いこととしているのだろうか。人々が皆同じである、という理念だろうか。平等だとか公平だとか、そういうことなのだろうか。つながらねばならないというような強迫観念のように見えることもあるような気がする。いや、立場や考えが違っているのはよいとして、対話が必要だ、ということが言いたいのだろうか。
とりあえず「民主主義」あるいは「分断に反対する」と言っておけば、自分は正しい側にいる、ということを見せつけることができる、そのような前提にしてしまっていないだろうか。それはまるで、「自分は神の側にいる」と宣言して、自分の正義に文句を言わせないでいるような、危険な思想と同じことであるようにも見えないだろうか。
「多様性」を尊重しよう、というのも、同様である。恰もそれを口にすることで、自分には良識があり、正しいことを言うのです、というプラカードを掲げているつもりになっていることが、世の実情であるように見えて仕方がないのだ。キリスト教会でも、「多様性」は一部の流行であるようだが、それを口癖のように何かにつけて言う人が、その人のある考えに対して私が反対意見を言ったときに、そんなことを言うなと威圧的に抑え込もうとしたことが忘れられない。
キリスト教世界でついでに触れルと、「共生」というのも美しく響く言葉である。たとえば障害のある人々と「共生」と実に軽々しく口にする。それを言えば自分は弱者の味方であるという名札になるかのようである。キリスト教のメジャーな歴史が、そうした人々を窮地に追いやってきた歴史ではなかったかどうか、振り返る必要があるのではないか。また、「共生」を掲げる教会が、視覚障害者や聴覚障害者が実際に現れたときに何の対応もできずがっかりさせるということや、またそうした人々が加わるに実に配慮のない礼拝のあり方をしているということは、指摘するまでもないほどの日常的な風景である。障害のある人やその家族などの、痛みについて、簡単に「分かります」などと言ってのけることが「共生」であるように勘違いしている様子が見受けられることも少なくない。
誰もが認める「正しい言葉」にも、本当にそうなのか、という懐疑は必要なのではないだろうか。それはまた、教会の教義や建前などについても、もっと反省されてよいはずだ。いったい教義なるものが必要なのか、聖書のその箇所はその意味しかないのか、そんなことを問い直すことも、私たちに期待されていることなのではないだろうか。
そのような懐疑を持ちながらも、主なる神に対する信頼は全く揺るがないでいる、そこが、信仰なるもののエッセンスである、とは考えられないだろうか。