【メッセージ】分断を超えて

2021年10月17日

(詩編24:1-6)

どのような人が、主の山に上り
聖所に立つことができるのか。(詩編24:3)
 
「あの山さ、僕の父さんのものなんだ」「すごい」「あの川も全部、父さんのさ」「え……」「あの空も、父さんのものなんだよ」「……」
 
これはジョークにもならないものですが、教会学校で話すことのある「つかみ」の一つです。まさに今日受け取る詩編の言葉の意味を子どものために説き明かしたものですね。
 
24:1 【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。
 
世界は主というこの神が創造した。このことは、証明する云々のレベルではありません。聖書はすべからく、これを前提としてスタートしているわけです。お聞きになる方々の中には、それが信じられない、という人もいるかもしれませんが、人間がこの世界を創ったというのはありえないことですから、ここではさしあたり我慢して戴けますか。
 
ただ、それだけでキリスト教とは何かが決まるというものでもないのですね。この詩は、今度はこんなことを言い始めます。
 
24:3 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。
24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。
 
カメラの先に、人間が映し出されました。主の山とは何か。聖所とは何か。あまり細かなことの説明を求めないでください。いまヒットしている楽曲にしても、一つひとつの詩の意味を説明しろと言われたらきっと困るでしょう。
 
ただ、ヒントめいたことになればと思い触れておきますが、たとえば旧約聖書では、神と出会うためには人はしばしば山に向かいました。最も古いイスラエル民族のリーダーであるモーセは、山に一人登って、十戒というイスラエルの基本的な掟の板を神から受け取りました。イエス・キリストも、ひとりになりたくなると、山にこもって祈ったと言われています。
 
聖所というのは、古い幕屋でもそうですが、イスラエルの神殿、つまり神の座として造られた場所に関係しています。神を礼拝する究極の場所を、神殿の中心に用意したわけです。日本の神社でも、祠の中心はいわば聖なるものとして、特別にあつらえてありますね。そこに日本の神々がいる、というような扱いにしているわけで、そこに向かって手を合わせるというようなことをします。それと全く同じではないかとは思いますが、似た構図はあるわけです。
 
いま「特別に」という言葉を使いました。これは「聖」という言葉を理解するときに大切な言葉となります。「聖」という漢字から私たち日本人は、どうしても「きよい」というイメージを強く抱くことでしょう。それももちろん間違ってはいないのですが、「聖」という言葉には、元々「特別扱いをする」考え方が備わっています。もう少しニュアンスを適切に捉えるには、「切り分けて区別する」というふうに考えるとよいかもしれません。それは「神のために他のものと別にとっておく」というふうに理解すると、献げ物や仕える人などに「聖」という概念を用いる意味が、より分かりやすくなるのではないでしょうか。
 
「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか」、この問いは、それはそれでよしとしておきましょう。しかしこの詩は、すぐに続けてその答えを明かします。「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人」名のだそうです。え、それは誰? という気がしませんか。そして、信じる思いで聖書を読み始めたキリスト者が、こういうのを見て絶望的な気持ちになるのです。「私、無理です」と。
 
辛いものです。確かにそこに書いてあるのは、素晴らしい人物像です。宗教を抜きにしても、立派な人格者として憧れるタイプの姿ですが、とても自分はそんな人物ではない、それくらいは分かります。読んでいて恥ずかしくなったり、それは誰のことか、と笑うしかないというくらいならよいのですが、へたに信仰をもってしまうと、そうはしていられません。やばい、自分は神の祝福を得られない、救われないんじゃないか、と不安になるのです。それは、この詩はこれに続いてこんなふうにも言っているからです。
 
24:5 主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる。
 
これは落ち込みます。自分はそんな姿から、程遠いではないか、と。
 
けれども、中には絶望しない人がいます。「これは俺の姿だ」とご機嫌になるタイプです。いるんです、そういう人が。SNSから飛び込んでくる様々な声、私は一つひとつ皆読んでいるわけではないのですが、ふと目に入ってくるものがあります。きっと、あまりに引っかかりが大きいので、目に止まるのでしょう。
 
僕は何でも知っている。僕はこんなにも物知りだ。僕の考えはすべて正しい。僕の気に入らないことを言う人間はバカだ。僕がこう思うのに、世間はそんなことも知らないのか、バカだ。
 
これが自称「キリスト教徒」が毎日呟いている言葉の要点です。信仰ももっておりません。聖書を読んだからもう全部知っている、などとも言っていますが、知識もないばかりか、罪も救いも知りません。聖書の教えに従うつもりは全くなく、教会をかきまわして精神的に破壊して出て行きましたが、自分が被害者だとまた呟いています。
 
新型コロナウイルスについては延々と呟いていますが、嘘の情報ばかりで、自分が正しいと思ったことは正しいのであり、それを知らない人々をバカ呼ばわりし続けています。人の悪口を続けざまに言いますが、自分がそれだという認識をもつことは皆無です。この人は病気なのだろうと思います。信仰の本質とは無関係な、病気です。けれども、デマと誹謗中傷を日々垂れ流しているのは、迷惑な話であるどころか、いま問題になっているような観点からすれば、犯罪の要件をすら満たしています。
 
ありうるのです。このような病的な人間でなくても、キリスト者であっても、危険性と隣り合わせになっています。私も、信仰を与えられて間もなくのころ、キリスト教は正しいという信念が強かったわけで、これを知らずに滅んでいく人を憐れむような眼差しをもっていたことがあったと思います。まことに恥ずかしい話ですが。
 
いえ、信仰をもつということは、このような可能性を少なからず帯びているということにほかなりません。信仰そのものの中に、その要素が潜んでいると思うのです。
 
それは、信仰という事柄の中に、何かしら「線引きをする」という精神的作用が含まれているからです。先ほどご紹介した「聖」という概念が、その「線引きをする」ことであるにほかならないからです。これだけではまだよく見えてこないだろうと思いますので、今日はしばらくこの「聖」ということについて考える機会をもちたいと思います。
 
そもそも私たちが中核に置いているこの「聖書」、「聖」の字がついています。「聖なる書」というと、ファンタジーの世界にも関わりそうですが、聖いというのがいかにも神々しい、美しく輝くものをイメージさせるかもしれません。しかしそんな思いで聖書を開くと、愕然とします。なんて見にくい人間の有様が並んでいるのだ、と。とてもじゃないが、聖なることが書かれているわけではない、それが事実です。原語からしても、ただの「書」というふうであり、より正確に言えば「書かれたもの」というような語となっていますから、「聖」というのは、私たちの付けた思い込みであるのかもしれません。でも、この「聖」は、先にお話ししたように、「分離された」というニュアンスのつきまとう語ですから、何か特別にとっておかれた、別扱いのもの、というふうに、やはり私たちは根柢に据えておきたいものだと思います。
 
ここで私たちは、聖書の文化の正体を探ろうとしているわけではありません。それは無理な話です。ですから、自分は聖書のことを何でも知っている、などと口にするような人がいたら、全く信用する必要はありません。それは無知と妄想からの言葉ですから、気に留める価値はありません。神と人との境界線を勝手に乗り越えるようなことは、聖書と聖書の神が最も忌み嫌うところのものです。
 
しかし、この「カミ」という日本古来の言葉を、聖書の日本語訳として私たちは使っているところには、注意が必要です。それは「上」という漢字にも当てたように、上にある者一般に関わるとされ、あるいは恐るべき者に対してもそう呼ぶようでありました。「お上」という政治的支配層や、「おカミさん」と妻や料理屋の女主人を呼ぶ時にさえ使われる言葉につながります。偉人は死ぬとカミになり祀られることがありますし、生きていても現人神と呼ばれた人もありました。カミと人との境界線は極めて曖昧なのです。いまでも、冴えた言葉を言った者を「カミ」と呼ぶようなことは、ネットでも若いグループでもありきたりのことです。並の人智を越えたものをそう呼ぶからです。
 
この「神」という言葉を聖書の邦訳で用いた背景には、いろいろな研究があります。今でも口にされることがありますが、「真の神」などのように修飾語を加えて、日本古来の「カミ」との区別を設ける方法もありましたが、その他にも、儒教的な響きをもつ訳語もありました。「上帝」とか「天帝」とかいう語が当てられた時期もあったのです。それはかつて中国において同様の問題が起こったときと同様でした。こうした経緯については、関心をもたれましたら、一度目を通されたらよいかと思います。
 
逆に、キリシタンと呼ばれた江戸時代の信者が、最初は「大日」と呼ぼうとしてそれは拙いということになり、結局これを訳さず聞いた原語の響きのままに「でうす」と呼んだのは、ある意味で適切であったのかもしれません。尤も、「でうす」もラテン語ですから「神」と大差ない事情にあったとは思いますが……。それにしても私たちは、日本語のカミをいま用いていることで、もしかすると、何か大きな誤解や思い込みが混じっているという可能性を疑っておくことも大切になるかもしれません。意識的に、「主」という呼び方をしているのもそのことと関係があるのでしょうか。訳語としては、元の語の使い分けを踏襲して「神」と「主」とを区別しているようでもありますし、新改訳聖書では、神の名としての「主」を太字で印刷するという工夫もしています。「主」という語には、神のことではなく、「主人」という意味で用いている場合があるからです。
 
混乱は避けられませんが、ここでは慣例通りに「神」と呼んで続けていくことにします。
 
この神と人との間には、元来連続するつながりは本来ありません。人が神になることもないし、神が人になることもない。神は主人であり、人は僕、率直に言えば奴隷です。神の選びによりイスラエルが立てられ、導かれることとなりました。神は聖なるものとして人を超越した存在であり、神の姿を見ただけでもう人は生きていけないとすら考えられていました。ギリシア神話や日本神話のように、人間くさい神のイメージを、徹底的に排除したのだと言えます。
 
しかし、神は人にこの大自然を与えました。大自然を通じて、その創造者としての神と何らかの意味でつながりを感じることとなります。この世界は主のものだという大前提の元に、イスラエルの詩人は、神を称える詩を生みました。この詩人は、この詩編を続いて読んできておなじみの、あのダビデ王です。波瀾万丈の人生を送りながらも、超人的な魅力というよりは、失敗を重ねる人間としての魅力を伝え、しかしこの主なる神の方をしっかりと見つめ続けていたことで、神から特別待遇を受けたという、恵みの詩人です。ダビデは、自分が王として選ばれ、幾多の苦難の中をくぐり抜け、また失敗を重ねながらも神にずっと守られ祝福されてきたことを痛いほど実感していただろうと思います。このような自分がなんと恵まれていることか。そんなことを考え始めると、神に祝福されるという人は、もっとほかにもいてよいはずだと思ったのではないかと思います。神に祝福される人はどんな人であるのか、歌わないではおれなかったように、私には思われてなりません。
 
「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく欺くものによって誓うことをしない人」、そんな人物に自分もなりたい。私もまた、何の取り柄もなく汚点だらけで、今にしても欠けしかないような人間でありながら、神の言葉により生かされていることを思うと、ダビデが自身のしくじりを噛みしめながら、力の限り神を称える姿が、少しばかり理解できるような気がします。自分をダビデと重ねるというのは恐れ多いことではありますが、同じ人間として、自分に与えられた恵みの大きさに驚くということについては、心が通じるように思えてならないのです。
 
24:5 主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる。
 
それは、決して自分がそういう人間だ、と思って言っているのではなかったはずです。こんな理想的な人になりたい、という願望がそう言わせたのだと思います。あるいは、こんなに優れた人間でもない自分が、なんと神に愛され恵まれているかを心底ありがたく思うならば、こんな自分よりももっと優れた心素直で神に一途な歩みをしている人は、もっともっと神に祝福されて然るべきだ、というように思いたかったのだ、と考えます。
 
ダビデは、神と人との断絶を確かに自覚していたと思います。徹底的に自分は僕だという立場を貫いていたからこそ、神に祝されたというようにも捉えることができるでしょう。過ちを犯し人育てにも失敗しましたが、境界線を超えて神のようになろうというような思いを、心の片隅にさえ生むことはなかったのです。
 
境界線を超えない。この考え方は、神と人との間には大切なことですが、人と人との間の関係に適用すると、問題が起こります。近年は政治的なことに関わりつつ、思想の言葉として「分断」という言葉が大きく取り上げられることが多くなりました。
 
分断とは、元来つながっていたものを、わかれわかれに切ってしまうことです。ひととき親子や世代の「断絶」という語が流行りましたが、もっと社会的な視野におけるそれは「分断」と呼ばれています。これについてはもはやここで語ることはできません。そのために労苦している方々がいる一方で、分断を強める動きというものの勢いは止まることがありません。人と人との間が断ち切られ、互いに無関心でいるというのならともかく、対立が強まり、どこでどのような実力行使と暴力になるか知れません。現に争いとなっているものも多々あります。
 
困ったことに、自分がその分断の線を引いている当事者でありながら、そうだと気づかずに無邪気にその行為を止めないというあり方すら見受けられます。具体的にはもう申しませんが。
 
対立そのものは悪いことではないはずです。意見が対立するのは人間界で当然のことですし、対立するからこそ、新たな発見や進展が見込まれます。それまで互いに気づかなかった新たな次元の解決を見出していく、気づかされるということが期待されます。むしろ、一つの声に全員がなびいていくという景色は、想像するだけで空恐ろしい気がします。かつて人類はそのような歴史をも経験してきました。歴史を学ぶことの意義はひじょうに大きいものがあります。以前の失敗を教訓として、同じ轍を踏まないように警戒することは、不可能ではないからです。
 
かつてペストでヨーロッパの人口は、統計不備ではありながらも、3分の2になったとも言われています。百年前のスペイン風邪は日本でも猛威を振るいました。衛生観念や疫学の知識が進んだ現代では、そのような歴史を踏まえて対処していくことが許されているにも拘わらず、とんでもないデマが飛び交うことを、防ぐことがなかなかできないでいます。人間の性というものは、それほど進歩するものではないようです。
 
元に戻りますが、対立がよくないのではなく、分断が「差別」として現れることに、私たちはもっと気づき、対処していくことが望ましいのではないかと考えます。強者の側が任意に線を引き、分断をつくる。そしてその線の向こう側にいる者たちを排除していく。具合の悪いことに、これがまた、故意にそのようにしているという意識がなく、また自分がその強者の側にいて、分断した差別対象者を勝手につくり、排除しているという事実に気づかない、そして気づこうともしない。この構造が蔓延しているように思われてなりません。この私もそのひとりなのかもしれません。男性が、女性を差別しているという意識に欠けていることは、つくづく痛感します。病気や障害のある人への差別、レイシズム、経済的困窮者への差別なども、自分がしているということに、なかなか気づかないものです。それは気づいた人や当事者たちが、気づかない人々の目が開かれるための発言をくり返すことと、その声を気づいた誰かが拡声していくが必要です。
 
キリスト教会もまた、歴史の中で差別をしてきました。近年、性同一性障害などと呼ばれるようにもなってきた当事者たち、ひとまとめに言うのも憚られますが、LGBTQなどと呼ばれる人々に対して、最も酷い差別をしてきたのは、キリスト教会でした。つい何十年前でも、いえ、今でもなお、彼らを差別し糾弾しているのは、キリスト教会だったのです。それも、聖書を根拠に正義の旗を掲げてきたのです。
 
それだけならまだしも、キリスト教会の中には、自分たちはヒューマニズムを尊重しており、弱者を支えてきました。ずっとあなたたちの味方だったのです。そんないい顔をしているところもあります。これがいちばん質が悪いと思います。
 
日本基督教団が戦争責任についての声明を「告白」という形で発したのは、太平洋戦争後20年以上経ってからのことでした。他の多くの教会にこの意識が浸透するまでには、実に戦後半世紀という時間を必要としたといいます。また、沖縄の教会とヤマトの教会との関係には複雑な歴史があるようですが、沖縄の教会を心理的にも切り離していたことについて、日本バプテスト連盟が公式に謝罪したのは、1998年のことでした。こうした「告白」や「謝罪」は、教義的に言うなれば、「悔い改め」に匹敵するものだと言えると思います。「悔い改め」とは、神に立ち帰ること、また心の転換を意味するような言葉です。ただ悔やむことではなく、そこからどう行動するかが問われていますから、「告白」や「謝罪」が悔い改めのすべてであるとは言えませんが、それでも、それらは悔い改めの重要な要素であるとここでは捉えることにしておきます。
 
それにしても、悔い改めのために、なんと時間がかかっていることでしょう。悔い改めよ、との聖書の言葉を説教に使い、この世の中に発しているはずのキリスト教会が、自身の悔い改めについてはなんと遅いのでしょう。そしていまなお悔い改めもしないままに、あなたの味方なのですなどといういい顔をしようとしているのだとすれば、とんでもないことではないでしょうか。
 
このような分断を自ら広げるようなことのないようにするには、このような悔い改めが必要とされます。自身の罪を認め、方向転換をすることです。そうすることにより、赦しを受けたとし、関係を築き直す道も拓かれることになります。
 
神と人との間にも、この分断があること、それは聖書の常識だと言えました。聖書は初めから、神と人との間に分断があることを前提としていました。聖書は分断から始まっていたのです。このような聖書は、冷たいのでしょうか。私たちが、分断は止めようというかけ声をいま発していることに対して、分断していて構わない、と告げているのでしょうか。
 
根拠のない喩えではありますが、これを十字架を用いて説明する人がいます。まず、十字架の横の木は、天と地とを分けるラインとなり、神と人との明確な境界線を表すものと考えます。神は人を超越しており、曖昧に交わるようなことはありません。人と神とは明確に区別されるという意味です。このとき、神は人間に律法を与え、それを守ることで神の意に適う者と認めようとした、というのが旧約聖書のおよその捉え方ですが、しかしそれでは神と人との間は、ただ分断されただけの関係しかありませんでした。ところが十字架は、この横の木に対して縦に貫く杭があってこその形です。一本の杭が、分けられた神と人との間を貫き、つないだと考えるのです。それは神からの、上からの、痛くて痛くてたまらない贈り物でした。神自らの痛みを伴っての、酷い仕打ちでした。
 
そんなことまでして……いえ、これはもう人間の想像と感情を超えた出来事なのです。境界線を超えたところから、つまり人間の考えの及ばぬ、人間の手出しのできない領域から投げ込まれた杭で、上から下へと向かって地に突き刺さった杭でした。そしてそれは、ただの記号ではありませんでした。地上のすべての人間が目を――そう、ただの目でしかありませんでしたが――釘付けにした、貼り付けの生身の身体でした。
 
地上のすべての人間が見たと言いました。そうです。見たのです。あのときゴルゴタの丘に集まった時の権力者とその部下たち、職務から死刑執行に携わった兵士たち、それからイエスを知るわずかな女性たちと弟子ヨハネ、それから面白いもの見たさの野次馬たち、彼らだけがそれを見たのではなかったのです。私は、見ました。いまイエスを慕う何十億という人々もまた、見たのです。信じていると口にし、教会に集う人は皆、これを見たのです。きっと、事情で教会という組織の開く集会に来ることができない人の中にも、イエスのあの十字架を見た人はたくさんいるはずです。もしかすると、教会生活が長く、自分は何でも知っていると思い込んでいるその人だけが、このイエスの姿を見ていないのかもしれません。ちょうど、あの自称「キリスト教徒」のように。
 
しかし、ただ死んだだけでは、命をもたらすことはできません。歴史の中の特異点であるこの十字架の出来事をもたらした神は、イエスをそのまま死なせはしませんでした。この姿を見た者は生きるのだ、命を得るのだ、ということを示すためにも、イエスを起こしました。いわゆる「復活」です。こうして、イエスにより、隔ての壁は取り払われ、ただイエスという道を通ってのみ、人は神との関係を築くことができる恵みへと導かれたのでした。
 
詩編24編は、問いかけました。「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか」と。潔白で清い心をもつなどと、立派な人がそれであるみたいに、ダビデは答えを用意しました。しかしさらにもう一つ、今日開かれた箇所の最後に、こんな答えをも付け加えていました。
 
24:6 それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。〔セラ
 
「セラ」は謎の言葉です。いわば楽譜の記号のようなもので、たとえばここで間奏が入ったのではないかとか、休符ではないかとかいう研究があります。ここで少し区切ることができるのです。それだけに、ここは、聞く者の心に強く残ることになったと思われます。
 
主を求める人。ダビデは、行いの立派さが決め手とすることはできなかったのです。いまや、主を求めるということは、十字架のイエスの姿を一心に見る人のことだと言えるようになりました。ダビデが神から目を離さなかったように、私たちもまた、十字架のイエスから目を離さずに、主を慕い求めること、見つめつづけること、そこに、神の祝福があるのだ、と歌う歌が、私たちに与えられたのです。この地上のすべてがその手の中にあるという、無限の神の祝福があるのだ、と。



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