栗の香り
2021年10月10日
栗を「ふかす」と私は言う。標準語なら「むす」と言うのだろうか。いや、ここでは「ゆでる」というのが本当かもしれない。栗をもらったというので、妻がそれをふかしてくれた。
半分に切った栗にスプーンをさしいれ、口へ運ぶ。口の中に、栗の香りが拡がる。と、そのとき子どものころの自分に戻ったような気がした。こんなふうに、よく栗を食べていた。
『失われた時を求めて』はさすがにダイジェストでしか読んでいないが、冒頭のシーンは印象的だった。マドレーヌを浸した紅茶の香りにより、たちまち子どものころの記憶がよみがえる。
このように、香りから記憶が呼び起こされる現象を「プルースト効果」と呼ぶことは一般によく知られている。私の経験は、そういうことだった。
栗ご飯というよりも、母はよくこうして栗をふかしてくれた。何度も食べていた記憶があるから、毎年秋に栗が手に入ったら、まずこうして食べさせてくれたのだろうと思う。
無数の食事をつくってくれていたのに、たいていのものは、自分にとりとても当たり前のようになっていて、自分の身体をつくった、どこか空気のような存在として、母の料理は見なされているのかもしれない。元々あまり料理は好きでも得意でもなかったらしい。しかし当時外食というのはかなり特別の場合だけだったような我が家において、母のつくるものが食のすべてと言ってもよかったし、それを美味しいと呼ばずに何を呼ぶのかさえ知らないような私だった。
そんなことを思い出したけれど、それを話して聞かせることはもうできなくなった。心の中で、祈りを通じて伝えてもらえるに違いない、と、目を閉じてその味と香りの中に、しばし佇むのだった。