結婚が決まったというニュース
2021年10月2日
秋篠宮家長女の結婚発表は、決して小さなニュースではない。だが、いつも饒舌なキリスト教の有力者たちから、これについての話題が出てこないように見受けられる。ふだんであれば、こうした大きな話題には、一言居士としてきっと口を出す人々も、沈黙しているように見える。何故なのか。
天皇家について反対的な意見をもっている教派やグループも多々あることを知っている。ここは口を出すべきではないのか。そう言えば普段から、天皇家や一族について世間がざわついても、殆ど声を出さないでいるような気がするのだが、錯覚だろうか。新型コロナウイルスについてはとめどなく声が出ていたし(但しそのために何か手伝おうとか助けようとかいう声は限りなくゼロに近かった)、政治家が言い間違いをしたくらいでも、がんがん責めたり嘲笑したりしていた人々が、この話題には何も言わないのが不思議でならない。奇妙だ。
どなたか理由を解説して戴けたらありがたい。
たんなる黙殺でもないような気がする。話題を知らないはずがないし、思うところがないはずはないのだ。敢えて何も言わないことが批判なのだ、ということなのだろうか。だが他の問題についてなら、何かしら批判や不満をこぼすタイプの人々が、どうして天皇家関係の話題には黙殺こそ批判だなどと言うのか、理解できない。
そんなことを言えば、教会に人が来なくなると考えているのだろうか。反社会的と見られるのが嫌なのだろうか。だが世の人が賛同するような政治的な意見に対しても、そのような教会関係者は大きな声で反対を叫んでいるのだから、私にはその違いが分からない。
では、天皇家が好きであり、支持しているということなのだろうか。だから批判めいたことはこうした時に口に出さないというのだろうか。いや、私の知る限り、天皇制に批判的な教会やグループはたくさんある。人権を理由にすることもあるし、宗教的な背景を強く言う声は、確かにある。
すぐには表明せず、そのうち大々的に声明を出すということなのかもしれない。大きなキリスト教団体は、大きな勢力を前にして、時に正式表明としてきちんとした文書を調えることがある。他のことには強い批判の声を比較的早く出す割には、自らの反省や悔い改めのような声明は、とんと関心がないように出さないように私は思っているが、それはそれとして、今回ももしかすると、キリスト教団体として抗議か何か分からないが、発表をするのかもしれない。どういう内容であるかは分からないが。
実は話題がかなり出ているのかもしれない。偶々私のタイムラインに流れてこないだけなのかもしれない。実際、言及している方もいる。制度的なことや、弱者への眼差しなど考えさせるものでもあるし、私もそうした意見に心を寄せたい。特に、今回の当事者を、あからさまに祝福をするのではないにしても、責めるようなところが少しもないのがよかった。だが、考えが述べられていたのを見ることは稀である。もっといろいろ思うところを教えて戴きたいと思う。
さて、最後になったが、私は、今ここで制度がどうなどというふうなことを持ち出すつもりはない。それをすると、当事者が傷つくことになるからだ。大いに祝福したいと思う。とにもかくにも、当人たちが求め合っている結婚については、祝福以外の何ものもないのではないか。イエスは最初の奇蹟をカナの結婚式で見せたのである。
そして、制度の束縛を離れるのならば、彼女にはキリスト教信仰をもつための自由が与えられたことになるのだから、いっそう喜ばしいと思うのだ。長女は、皇族として初めて国際基督教大学(ICU)を卒業している。前天皇も、戦後キリスト教的な環境で教育を受けているし、思想的にかなり理解はあるはずなのだが、制度上、信仰表明はできないことになっており、信教の自由はなかった。だが、今回の当事者には、その自由がある。
もう変な報道もいらないし、パパラッチもやめてほしい。そう、いま私が怖いのは、ここで明らかになった「群衆心理」である。ちょうど先頃、Eテレの100分de名著という番組で、ル・ボンの『群衆心理』が取り上げられていたが、私は常々、この社会にそれが恐ろしい形で潜んでいることは間違いないと考え、懸念している。アドルフ・ヒトラーがこの本を読んでいたことも番組では指摘していたが、そこでドイツがとてつもないことをやってしまったのを、私たちは学ばなければならないのに、むしろ同じ轍を踏むかのような気配が確かにするのを私は感じている。これを軽視する人々が多いのに比例して、そうなる危険性が高まることも分かっているからである。