原則という語への引っかかり
2021年10月1日
キリスト教会では、礼拝がリモートになったということで、2020年の春は大騒ぎだった。誰もが不測の事態に慌て、実験的にあれこれやってみるというふうであった。さすがカトリックの組織は、一流の映像をそのうち限定だか流してくれ、さすがだと思った。だが、その後いつまでたっても、小企業のようなプロテスタント教会は、素人以下の動画が多く、せめて動画投稿サイトに上げる素人くらい(いや失礼)の質にも及ばなかった。いまなお、スマホを会場に置いて配信しているとなると、本気で動画を配信するつもりはないのだというふうに判断せざるをえない。文字がぼやけようと、様々な物音ががんがん響こうとも、配信する側は気にしないらしい。それを毎週受ける側は、改善する気のない劣悪な環境で、気持ちはもう萎えっぱなしとなっているかもしれないが、気づかれることもないのだろう。
非常事態宣言が解除されると、一斉にまたリモートを止める動きになるところもあるだろう。医療現場あるいは保健業務の現場がもう絶望的な情況であろうと、また亡くなる方が絶えない日々であろうと、お上のお達しで右でも左でも向くような有様は、自ら責任を負うことを放棄した組織の姿勢であるのだろうとしか思えないが、その辺りは教会でも様々のようだ。もちろん、その地域性にも関わるので、画一的に決めることはできない、とも言える。
ところで、こういうネット配信が常態になったとき、奇妙に言葉が飛び交っていた。「原則リモート」という言葉だ。私はどうしても、この言葉になじめなかった。正直、意味が分からなかった。
「原則」という言葉は、例外のない法則をいう。私はそう理解していた。西洋ではその発想が根柢にあるだろうと思う。もろちん、日本での玉虫色の解釈について知らないわけではない。「原則として」と言えば、「例外も大いにある」という意味を含んでいるものと構えるのが日本語での使用法である。だがそれでも、「例外というものがわずかにある」という感覚であったはずだ。「原則、人は右側通行である」などと言う人は一人もいないだろう。
そうなると、「原則リモート」というのは、殆どの人はリモートしか許されない、という意味になる。確かに、説教を語る牧師がリモートとなり、全員がzoomのような形で顔を並べるということになるのは、かなり極端な場合であるだろう。奏楽者も同様に自宅からピアノを弾いて流すとなると、微妙な時差のために、ぐちゃぐちゃな賛美の歌が聞こえてくることになるだろう。だから、牧師や奏楽者はこの場合「例外」扱いとなる。その他の「例外」扱いを受ける人も、非常に限られてくるだろうと思う。私も四角四面ではないから、元来の「原則」は例外がないのだぞ、などとぶつけるつもりはない。
だが「原則リモート」にしては、会場にそこそこの人が集まっている様子があるとすれば、自分の中の感覚が分からなくなってくる。やっぱりむくむくと頭をもたげてくるのは、「原則」や「原理」という言葉である。思い出すのは、ひとつ面白い訳語である。カントの著作ではこの「原則」と「原理」は、別のドイツ語であり、邦訳ではそれぞれこのように訳し分けることが常識となっている。だが、そのカントの著作の英訳においては、「原則」も「原理」も、同じ英語になってしまっているのである。つまり "principle" がどちらにも当てられている。ドイツ語でこの系統は「原理」にあたる。英語では、「原則」というものを表すために「原理」の語を使っているのである。これだと益々、例外の入る余地がなくなるのではないだろうか。科学の原理が例外を認めると、収集がつかなくなるだろう。尤も、所与条件次第では、原理が違ってくることにはなる。ミクロな生活領域ではニュートン物理学が原理として成り立つが、マクロな宇宙規模の説明のためにはその原理は使えない、などというように。
非常事態宣言の解除となると、これまでの「原則リモート」が「リモート推奨」になる、というところもあるらしい。「原則」の意味でさえ分からなかった私は、「推奨」の意味加減となると、もう全く分からない。マイクロソフト社が、Edgeを推奨する、などというのは、私はちっとも気にすることなく無視し続けてChromeを使っているのであるが、他方、セキュリティの設定については、よほど特別なことがない限り推奨には従うのが当たり前だという理解がある。恐らく通達する側の論理としても、「教会が決めないからどうするかは個人で決めてくれ、その代わり何がどうなっても責任は負わない」というふうな意味で、「推奨」という語を使っているのだろうと考える。これならどちらに転んでも、責任を負う必要はなくなるからである。
だが逆に言えば、どちらを選択しても、教会から文句や苦言を言われる必要がなくなる、ということにもなるだろう。権威がなくなった組織は、もはや空気を読む人間だけを相手にしているわけではない、ということになるだろう。
それでも、権威ない者の如くに語る、そこに説教の神髄があるという提唱がなされたのは、もう半世紀も前のことである。イエス・キリストの語りは権威ある者のようであったという。人は、偉そうに上から語らないのがよいということなのかもしれない。何を言いたいのか明確にせず、ぼやけた曖昧な言葉の使い方で責任を回避するあり方も、案外よいことなのかもしれない。