語られる説教
2021年9月24日
このたび、『世界 説教・説教学事典』を手に入れてご機嫌である。以前教会の棚にあるのを見て、いつか欲しいと思っていた。だが如何せん、値段が高い。Amazonの「あとで買う」にずっと入れて、価格を見張っていたが、ふと見ると、定価の4分の1ほどで「中古品・良い」というものが現れた。溜まっていたポイントをここぞとばかりに使うと、CD一枚分で買えるのである。誰かに取られないうちに、と注文した。
届いたものは、「良い」どころではなかった。新品で売られていたとしても誰も文句は言わないだろう。完全にお買い得であった。
毎晩ちびちびと読んでいくことにした。間もなく、「オーラル・コミュニケーションと説教」という項目に、胸が躍った。底には、説教と、文字で書かれたものとの相違が3点に集約されて説明されていた。
・礼拝という共同体のコミュニケーションの出来事の中に話し手と聞き手が実際に存在していること。
・参与する者の間に相互依存関係があること。
・説教は聞かせる前に完成品ではないこと。
これだけでは分かりにくいと思う。最初のものは、礼拝参加者がそこにいて、どう聞くか、そこに重みがあるというのである。人格から人格に語りかけるという事態がそこにあるというのである。誰にでも向けられているような説教は、実は誰に対しても語りかけていない、ということになるわけだ。
次に、説教者自身、会衆席で聴いてくれる人々を必要をするということである。学校の授業でもそうだが、語る者は、聞く者の反応を知り、フィードバックを果たすのでなければならない。ひたすら論理的に展開するものに、聴く者はついていけない。神学論文の作成ばかり訓練されて、口頭のメッセージのために考えを述べる訓練がなされない神学教育には問題があることが指摘されている。
第三は、原稿だけでは説教たるものの価値は不確定だということを言っている。説教の目的が達成されたかどうかは、聴衆がそれを聴いてどうだったか、ということに依存している。説教はそれ自体では、開かれたままなのである。この構造は、文学作品に比されるであろう。
説教者は、神からの権威ある言葉を孤独に語る語り手ではない。人間の共同体のなかに継続している神の働きの中で、共に創造の業に参与している者だと考える必要がある。
ざっと、こうした骨子で、この項目が書かれていた。3つに分けられてはいたが、要するに1つのことであると見てもよいだろう。3つの角度からそれを見た、というふうに捉えて構わないと思う。そしてそれは、私がこれまでも繰り返し語ってきたことと、同じ景色であると言えよう。その意味で、私は胸が躍ったと言ったのである。
新規感染者の減少傾向が見られるとはいえ、リモート推奨のところも少なくない、いまどきの礼拝である。そこでの説教では、対面を前提とするような上の指摘が満たされない条件となっていることがあるだろう。なんとかリモートであっても、またリモート環境にすら加われない人々も多くいる事情であっても、神の言葉がひとを生かして働くことを望みたい。
説教を語る人間は、欠けだらけでもある。中には、人格的に著しく欠陥をもつ人もいる。だが、そこから語られる言葉だけは、人を生かす言葉であってほしいと願う。神の言葉には、できないことはないからである。