同時多発テロから20年
2021年9月20日
2001年9月の、アメリカにおける同時多発テロから20年ということで、この9月はいろいろ話題も広がり、悲しみを新たにする人も多かった。犠牲になった方々のことを思うと、心が苦しくなるのは誰でもそうだろう。
そこで、というのも奇妙だが、お叱りを受けることを覚悟で、「思考」による提言をしてみたい。それは、テロを起こした側が一方的に悪だったのだろうか、という問いである。
本国内を攻撃されたのは、アメリカにとり屈辱でもあっただろう。真珠湾もそうだが、本土からは離れていた。だかこのたびはニューヨークであり、ペンタゴンであった。国難だと焦るのは尤もである。そしてこれに対する報復は正義であるとして、猛然とイスラムたるものを、どうにも全般的に非難した。アフガニスタンに侵攻し、イラク戦争も始めた。対テロ戦争へアメリカは一気になだれ込んだことになる。2021年にそのアフガニスタンから撤退することは、これもひとつの正義であったが、アフガニスタン国内の新たな状況がいま連日報道されている。
いま挙げたのは、テロ後のことであるが、さて、テロ前はどうだったのか。私はそれを適切に説明する知識をもたない。責任ある発言をすることはできない。だから関心のある方は調べて戴きたいし、また教えて戴きたい。
ただ、アメリカのしていたことが、アルカイダには我慢ならなかったために、あれほどのことを起こした、という構図は否めないだろうと思う。すべてアメリカが正義で、アルカイダが獣だったのだ、と決定することは適切ではない、ということだ。
気短に決めて戴きたくはない。私はもちろん、テロを肯定しているのではない。だが、テロとアメリカが名付けたものこそが悪であり、アメリカが始めた戦争は正義である、というような知恵しか、人類はもちえないのであろうか、と省みたいのである。アメリカに敵対する勢力は、人間ではないというのであろうか。
こうなると、ひとの罪性であるとか、原罪であるとか、宗教的あるいは心理的なものに誘うように見えるかもしれないが、そうした背景を含めて、なんとか報復に報復という図式を逃れる道はないものかという考えを、考えて戴きたいのである。
それは、安易な解決を許さないものであろう。人はどうしても一定の答えを得て安心したい生き物であるから、ずばっと言い切るものを欲しがるかもしれないし、そのように言う人を歓迎するかもしれない。しかしそういうものが危険だということは、知恵のある人は適切に指摘している。ル・ボンの『群衆心理』は広く読まれて欲しい本のひとつであるが、知恵はそこかしこに、きっとある。私の好きなスヌーピーを勧める本にもあった。
感情や浅薄な知識が支配する社会は危ない。(『スヌーピーたちのアメリカ』広淵升彦 p32)