【メッセージ】ひとを生かすもの

2021年9月19日

(エゼキエル37:1-14)

わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル37:13)
 
ギュスターヴ・ドレという版画家が19世紀にいました。聖書の挿絵もよく知られています。そこに、このエゼキエル書37章のシーンが描かれている者があります。谷の髑髏だちが起き上がろうとしている、なんとも不気味な絵となっています。おぞましいオカルト映画をも見ているような気がしてきますが、やけに心に残る一枚です。よくぞこんなグロテスクなものが描けたものだと驚きますが、実際聖書に書いてあるものを視覚的に表すと、確かにこのようになるだろうことは、否定しようがありません。
 
土葬の習慣のある文化だと、墓の中はこのようになっており、リアリティがあるのでしょう。火葬だと、このような形で骨が残ることはないので、別の意味で異様な感じを懐くかもしれません。
 
小学生のとき、祖父の死を体験しました。まさに臨終の場に立ち会ったのです。当時は入院して死ぬという人がいまほど多くはありませんでした。春休みに帰省していた、そのときに目の前で亡くなったのです。子どもには酷な場面でした。そして、火葬の現場も経験しました。田舎のことなので、火葬場の煙突から出る煙をしばらく眺め、それから白い骨となった祖父を見ました。
 
年を経て、同じように母を送りました。あの祖父のことが大好きだった母が、同じように旅立っていきました。
 
焼かれた骨は、エゼキエルがいうような「枯れた骨」ではありません。この「枯れた骨」は、それはそれで良い訳なのですが、「乾いた骨」のことです。そもそも骨に生気があるわけがないのですが、乾ききった骨であれば、ただの物体としてしか認識できないようなものとなつており、生命が感じられないものであったと思われます。それは焼かれてこそいませんが、乾燥されて肉がそげ落ちて骨が残るというような葬送をするかの地での文化における、突き詰めた死の姿であったものだろうと想像できます。
 
キリスト教を現代にまで運んできた西洋社会では、土葬が一般的でした。肉体の復活を思うとき、焼くというのは、滅びを表すものでした。それで逆に、異端者や魔女と判定された者については、遺体を焼いて見せしめとした歴史もありました。人間は、一旦憎しみをもつと、どんな残酷なこともできるようです。いえ、実のところそれが残酷だという感情すら失っているものだろうと思います。が、そのことについてはまた機会がありましたらお話ししましょう。
 
預言者エゼキエルは、主に連れ出されて、ある谷に降ろされます。そして、たくさんの骨がそこに捨てられているのを見ます。
 
京都には、鳥辺野という、清水寺の南にある有名な墓地がありますが、他方北西部には、化野という地があります。いわゆる月遅れの盆が、16日の大文字の送り火を以て終わり、京の夏が過ぎていくことになりますが、さらにその一週間後の「地蔵盆」では、子どもたちが中心になり夏を送る行事を営みます。ちょうどその時に重なってですが、この化野の念仏寺で千灯供養が行われます。場所はあの有名な嵯峨野です。徒然草の第七段で、兼好法師が「世はさだめなきこそいみじけれ」と述べたところでも、化野が挙げられていたことを思い起こす方もいらっしゃるだろうと思います。この化野の地は、近世からは火葬場であったそうですが、それ以前は風葬の地でした。あの空海が、死体捨て場であった様子を見て慈悲の思いから、野ざらしの遺骸を集めて供養したのがその念仏寺の始まりだと言われています。所狭しと並べられた石仏の姿から、賽の河原とも称され、広がるその石仏の一つひとつに、ろうそくが灯されるのです。幻想的な風景が広がり、集まった人の心をひとつのところに集めます。私は一度だけ、この風景を見ました。言葉もありませんでした。
 
さすがに千灯供養は骨が並ぶわけではありませんが、あの風景は、このエゼキエルの幻を読んだときに、ふと脳裏に浮かびました。石仏も乾いていますが、エゼキエルの見た骨も、枯れていた、つまり先の説明からすれば、乾いていたのです。
 
主は、「これらの骨は生き返ることができるか」とエゼキエルに問います。エゼキエルは否定的なことを告げる場ではないと自覚しているのか、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えます。主は、お前が宣言せよ、と命令し、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」との言葉をエゼキエルに渡します。いったい、骨が言葉を聞くことができるでしょうか。まともに考えると、不思議な表現です。ならば、当然これは、実物の骨を意味しているのではないことが分かります。乾いた骨は、実のところ、骨ではない他のなにものかを表していることになります。もちろん、それはイスラエル民族のことです。国を滅ぼされ、他国に引き渡され、惨めな思いをして生き恥をさらしているイスラエル民族は、もはや帰る国もなく、地に根を張ることができないままに、恥辱の思いで毎日を過ごしています。命ある輝きなどなく、まさに乾ききって命のない、生ける屍です。だから、彼らはただの骨ではなく、耳をもっています。その耳に向けて、心に向けて、エゼキエルが呼びかけるのです。主の言葉を継げるのです。
 
37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
37:6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 
骨が生き返ることを告げる言葉。そのために主は「霊を吹き込む」と言います。ここは押さえておきたいと思います。「霊」と聞くとかなり神秘的な雰囲気にもなりますが、聖書の世界でそれは具体的には自然界の「風」をも表す言葉ですし、生き物の「息」をも表すことがあることは、聖書をお読みの方にはよく知られていることです。原語は同じなのに、場面によってこれら三つの日本語が訳し分けられていますので、もし意味が理解しにくいなと思ったら、他の日本語を当てはめてみると、その人にとって感じやすくなる場合があります。
 
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
 
人類誕生の感動的なシーンですが、ここで人は「息」をも吹き入れられることによって、「生きる者」となっています。但し、この創世記の箇所での「息」は「ネシャマー」であり、エゼキエルその他一般の「霊」は「ルーアハ」と、異なる語になっています。それでも、これらは全くの別概念だとは普通考えられていないようですから、私たちもこのアダムに生命が与えられたことを、エゼキエルがイメージしているのではないかと考えることは、さほど不当なことではないと思われます。
 
この後エゼキエルは、骨が動き始め、肉が張られていく幻を目の当たりにします。但し、まだそこにあるのは肉体だけであって、「その中に霊はなかった」と言われています。そこで、主によりエゼキエルは、霊が吹き来たり、命のないこれらの肉体に吹きつけるように預言せよと促されます。そうすることによって、「生き返る」のだというのです。
 
ここまで、骨たちは実はまだ霊を受けておりません。エゼキエルの言葉を聞いただけです。エゼキエルが、これから主はこのようするぞ、ということをエゼキエルの口を通して、骨たちが聞いた段階です。このとき、そこにはまだ霊が注入されておりません。これはまるで、肉体が動いていても、それはまだ生き返ったことにはなっていないものと認識されているようなものです。それは、先に考えた、イスラエル民族の復興という背景を重ねることによって、納得できるかもしれません。乾ききった骨の姿ではなくなったとしても、依然としてそこに命ある輝きはないわけです。
 
エゼキエルの預言は第二段階に入ります。最初は形は整っても、魂が入っていないようなものでした。仏作って魂入れずのような状態でした。ところが次に改めて、霊よ吹け、という神の約束を改めて告げます。するとここで初めて、霊が命なき体の中に入ります。神の語ったとおり、彼らは生き返りました。「自分の足で立った」という何気ない表現は重要だと思います。立ち上がることは、イエスの復活の時に使われる言葉とパラレルになっています。つまり、イエスが復活されるというところでは、ギリシア語ではありますが、「起き上がる」という語が使われています。キリスト者からの偏見に過ぎないかもしれませんが、私たちはここに、復活とはどういうことかを重ねて考えることが可能になるのです。また、やはり新約聖書で顕著なのですが、「立ち上がる」という言葉は、ただその場に立ったというだけの現象を伝えるのみならず、そこから行動を起こすということを同時に表していると見なされうるからです。
 
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マタイ9:9)
 
マタイは「従った」と丁寧に補っていますが、このような例はいくら挙げてもきりがないくらいにあって、立ち上がることはそこから行動を起こすこと、この理解は、聖書を読むときに大切な前提であろうと思われます。エゼキエルの預言においても、生き返っただけでなく、彼らは立ち上がって、これから行動を起こすのです。だから、大きな集団となります。およそ集団になるというのは、個々がばらばらでつながりのないものであった場合とは違うことを意味しています。イスラエル民族だと理解したならば、ここからイスラエルは再び国を興すようになっていく有様を描いていると考えられるでしょう。
 
しかし、彼らは絶望しています。
 
37:11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。
 
いくら生かされたとしても、立ち上がったとしても、何の力もない状態なのです。エゼキエルは、そんな民族に対して、さらに預言するように命じられます。こうしてこの箇所は閉じられることになります。
 
37:12 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
37:13 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
37:14 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。
 
もはや「生き返る」という希望だけがここにあるのではありません。彼らは生き返りました。同じように霊を吹き込むにしても、「お前たちは生きる」のです。それは、墓から引き上げるからです。肉体ができても、立ち上がっても、依然としてまだ墓の中にいたのです。まだ墓の中に落ち込んでいるけれども、そこからも主は引き上げます。その時に本当に「生きる」ということになるのです。自分の土地に住まわせてもらえるということで、神の国に招かれることをうっすらと想像しても、さほど誤解にまみれたことにはならないでしょう。もちろんイスラエル民族にとってはそこは約束の地であり、イスラエルの復興であってよいわけですが、新約を経た者にとっては、神の国という名称でそれを思い浮かべることが許されていようかと思います。そのような場所が与えられること、自分には神により確かな場所が与えられているという喜び、私たちはその中に置かれていることを、もっと大きく受け止めて、叫んでよいのではないでしょうか。
 
それから、引き上げて生きたとき、これまでには言われていなかった、大きな変化が与えられます。お気づきになったかと思いますが、ここには二度にわたり、「お前たちは……知るようになる」と言われています。もう一度並べてみましょう。
 
お前たちはわたしが主であることを知るようになる(13)
 
お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる(14)
 
聖書で「知る」という言葉もまた独特のニュアンスをもっていることは、多くの方がもうご存じのことでしょう。知識のことではありません。頭で理解したというだけのときには使わない言葉です。日本語でも「思い知る」という言葉がありますが、体験して痛感することがそこには含まれていようかと思います。聖書でもそのようにして、いえさらに深く強く、霊肉すべてにわたり、全身全霊をもってぶつかり、交わること、自分が大きく変えられるような激しい体験をも示すような勢いでこそ、「知る」という言葉は使われています。
 
えてしてそれは、性的関係において用いられます。男女が出会い、交わるということは、表面的なことではないからです。いえ、それを表面的なことで処理したり、金銭を媒介とする行為にしてしまうからまた、律法でも、娼婦や男娼との交わりが忌み嫌われ、激しい口調で非難されていたと思うのです。
 
ここでも、主と壮絶な出会いをすることが言われているとすると、主との出会いが、本当に彼らを生かすこと、命を与えることを教えてくれているのではないかと考えます。
 
このことは、最初のところにも、実は見越して言われていました。
 
37:6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 
これは最後のところを先取りして告げていたものと思われます。まだ先のことだが、というわけです。そうして、骨がくっつき肉ができてもまだ墓の中にいた時にはそれが実現できないでいたということになります。
 
乾いた骨はつながった。確かに生き返った。しかしまだ、墓の中にいる。私たちはもう少しの間、ここのところに目を向けて、もう少しの間だけ、エゼキエルを通して与えられた言葉を味わってみたいと思います。
 
振り返ります。最初これらの骨は、ただの乾いた骨でした。エゼキエルは主に言われるままに、「主の言葉を聞け」と骨に向かって預言しました。主なる神はこれから霊を吹き込む。するとお前たちは生き返るのだ。そしてお前たちは主を知ることになる。主から聞いた言葉を、右から左へと流したようなものでした。
 
このエゼキエルの声に、骨たちは反応しました。骨は動き始め、近づき、骨組みをつくります。さらに筋肉が現れ、皮膚までもつくられます。普通なら、これで「生き返った」と称しても差し支えないような姿でした。が、これは第一段階に過ぎませんでした。まだ中に霊はありませんでした。
 
主はもう一度改めてエゼキエルに命じます。四方から霊よ吹き来たれ、と。今度は霊がその中に吹き込まれ、確かに彼らは生き返ったことになりました。自分の足で立ち上がり、行動を起こすことができるようになりました。やがて彼らは大きな集団となりました。こうして骨たちが、イスラエル国家の運命とイスラエル民族の悲劇的な状態を表していたということは、確実だろうと思われます。そう、そのことは主自身が明らかにしています。
 
このとき、主はエゼキエルに説き明かしたのです。「これらの骨はイスラエルの全家である」と知らせます。しかし、このときなお骨たちはこんなふうに言っています。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。せっかく生き返ったのに、絶望しているのでしょうか。時間的順序は、預言書の中でも分かりかねる問題でしょうし、ここでも、先に枯れていた状態、あるいは霊が吹き込まれていなかった時の、骨すなわちイスラエルの絶望の情況を指している、というように理解するのが妥当かもしれません。けれども、私はここに、素直にここで言われている順序をも時間的に辿る試みを考えました。と言うより、そのように受け止めました。
 
つまり、こういうことです。骨たちは神の霊に生かされた、それでもなおかつ、骨は枯れた、望みはうせた、滅びるしかない、と口にしている様子を想像したのです。
 
そんなことがありうるでしょうか。私たちの理解する救いというものを考えても、乾ききっていた骨が立ち上がるに至り、神の霊を受けたということで、ひとつの救いを体験したことになっているはずです。救いの喜びを全身で表現していたような時期が、救われた一人ひとりにはあっただろうと思います。世界が、それまでとはまるで違ったふうに見えた時のことを、思い起こしてください。世界はこんなに色鮮やかであったのか、風は優しく、これが真理なのだ、と躍り上がったあの日のことです。
 
そこから、再びあのような絶望の状態を呟くようなことが、あるなどとは、考えたくないように思います。望みはない、滅びるしかない。そんな嘆きに襲われるはずがないではないか、と。
 
神はこの状態の骨たちに、「墓を開く」と言い、「墓から引き上げ」て、約束の「地へ連れて行く」と畳みかけたという流れができました。そう、彼らは墓にいたのです。墓の中に閉じ込められて、出られなかった状態だったからこそ、主がここから墓を開いて引き上げるなどというふうに言ったのだと考えます。
 
ならば、かの絶望の声も、墓の中にいるから、ということでまだありうることだと理解することができるかもしれません。でも、ならば霊が入ってなお絶望したということを、私たちはどのようにして自分たちの中で肯けるように捉えることができるのでしょうか。さらにその後に、もう一度霊を吹き込むような言い方をしていますし、そうしてまた生きると告げています。やはりこれは、同じ一つの出来事を、繰り返し語るような手法なのではないのでしょうか。時間順などではなく、何度も何度も同じ時のことを告げている預言だったのではないのでしょうか。
 
よいのです。そのように理解しても、何の悪いこともありませんし、むしろそのほうが普通なのだろうと思います。けれども私は、この順番に受け止めることもできるように思いました。というより、私の中では、そのような体験を確かにしている、と実感しているのです。
 
信仰の始まったとき、世界がまるで違う彩りで輝いて見えた。自分が救われたという喜びでいっぱいになる。聖書に書いてあることが何でも実行できるような気にもなるし、伝道に燃え、熱心に真面目に生活する。信仰の仲間も与えられて、世間では味わえなかった信頼の関係が築かれる。ああ、なんて教会は素敵なんだろう。
 
けれども、そんな自分が、現実の中で、案外以前の自分と変わっていないことに気づくような気がすることがあります。悪魔がそのように思わせる、とも言います。悪魔は、信仰したばかりの人と、指導者を狙い撃ちにしてくるのだ、というふうに、よく注意が促されます。これが悪魔のせいなのかどうか、それは信仰の問題なのでここで決めつけはしませんが、確かに信仰後間もなく、気持ちが揺らぐということはあるように感じます。
 
急に、輝いていた世界が色あせて見え始める。自分は何も変わっていない。聖書の通りに生きようと願いつつも、そんなことはできるわけがないという思いに襲われてくる。そんなことはない、と否定してみても、現実の自分が見えてくると、悲しく思えてくる。
 
あるいは、こんなこともあるでしょう。それまでつきあってきた仲間たちから、自分が浮いてくるのです。中には、証しをしなきゃ、と構えてなかなかできない自分に苛立つ、あるいは情けなく感じる、などといった人もいますが、逆に、証しをちゃんと仲間にしたとしても、そのことでつきあいが変わってくる、あるいは、そのかつての仲間たちから、それでもクリスチャンなのかと軽蔑されるようなことを言われる。これがまたショックです。証しができなくても、ちゃんとできても、どちらも世間では決して居心地のよいものではなくなるのです。
 
どうでしょうか。信仰のスランプ、などと言って励ますメッセージもありますが、当人は深刻です。長くクリスチャンをもしている人々から自分がどんどん遠のいていくような感覚を覚えるのです。
 
こうして、新米クリスチャンが、墓に留まってしまいます。もちろん新米に限るわけではありませんが、辛い経験をします。それとは逆に、厚かましく自分は偉いと高ぶることのほうが、私は何千倍も非難されるべきだと信じていますが、ともかく弱気になった信仰者は、悲しいものです。真実なるキリストを知っているのです。知っているからこそ、それに値しないような自分を覚えて、たまらなく悲しくなるわけです。
 
そんなことがあるから、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と悲しむ者の気持ちが分かるように、主はエゼキエルに説明した、そのように私は受け止めてみます。そしてそこへ慰めの言葉を贈ります。「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」と。
 
37:13 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
 
さあ、今度こそ、本当に、神と出会うのです。「知る」というのが、聖書で強い意味をもっていることを、今日確認しました。知識のことではありません。頭で理解したというだけのときには使わない言葉です。霊肉すべてにわたり、全身全霊をもってぶつかり、交わること、自分が大きく変えられるような激しい体験をも示す言葉でした。もちろん最初の救いを否定するわけではありません。しかし、信仰生活の中で落ち込むことがあっても、そして自分はなんて駄目なんだと悲しみの中に沈むことがあっても、主を知るようになる、と宣言していたのです。これを信じたいものです。いろいろなことがあっても、神との深い交わりの中に、神との強い関係の中にいることができる、否すでにその関係の中にあるのだよ、神はそのように約束されているのだよ。エゼキエルは、最初骨だった者たちに、そして今は肉もついたとはいえまだ十全ではない者たちに向かって、頼もしい言葉を贈り続けるのでした。
 
「お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」、これは霊が吹き込んだ時でした。いまも、その霊が吹き込もうとしています。主にこの谷から救い出されることをができるはずです。この主の声を聞けばよいのです。あなたが何かをしなければ、というよりも、ただこの声を聞けばいい。主が語ったこと、主がなさったことを、全身全霊で体験するがいい。あなたは、もうひとりではないことに、気づくはずです。



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