医療崩壊の責任は私にもある

2021年9月16日

新型コロナウイルスは世界を大きく変えた。その中で、日本政府はどういうことをしてきたか。対応は、ベストではなかったかもしれない。あのマスクのように、なんだったのだと思うようなものもある。だが、トータルに見て、善処しているのではないか。補助金も各方面に出している。ワクチン接種については、安全性を確認する期間をもって、国民に提供している。もちろん、ワクチンで解決する問題ではないのだが、最低限なすべきことは実行している。やっていないのは、強権発動のロックダウンだけだ。
 
すでに医療現場は限界を超えて活動している。これはもうこれまでもずいぶん伝えてきたし、ここで詳述する必要はないであろう。
 
それなのに、政府の医療政策はでたらめだ、と無責任に発言する人が後を絶たない。私は悲しい。そんなに政府が悪いのだろうか。感染を広めているのは政府ではない。私たちだ。だのに、自宅療養せよというのは政府が悪いとか、ワクチン接種が遅いのは政府が悪いとか、なんでも政府が悪いと言えば自分が正しいかのように振舞う人が多い。
 
医療現場を知っているのだろうか。誰よりも自宅療養などという情況に胸を痛めているのは、危険極まりない現場で限界を超えて働いている医療従事者ではないのだろうか。できないのだ。無理なのだ。それなのに、何かのミスが出たら、病院は何をやっているのだ、少し気をつけたらそんなミスはないだろう、などとまた報道やSNSが叩く。私の目から見て、これだけミスが少なくやれているのは、奇蹟的だと思う。疲労困憊のうえ差別待遇までされている医療従事者や保健職員たちが、天使のように見える。

 
保健所数の減少が、20年ほど前に始まっている。衛生研究所の人員や予算をカットし、医療費全体が削減された。公的病院は整理され、民間病院は経営ぎりぎりでなんとか続けるというような情況を生んだ。病床の減少も30年前から始まっている。
 
あのとき、反対の声を挙げ、抵抗していた人もいたはずだ。その方々を尊敬する。私はそれをしなかった。ということは、現在のこの医療逼迫、あるいは医療崩壊の責任は、私にもある。もし自宅療養で亡くなった人の遺族が、これは人災だ、と責めるのであれば、20年ないし30年前に医療政策改悪に反対しなかった私も、その責めに遭うべきだ。私があのとき保健所は必要だ、病院にはもっと予算を出して助けてくれ、と声を挙げなかったから、いまの事態を招いたのだ。
 
私にはこの意識が片時も離れない。
 
しかし、一方的に、政府の医療政策がこのコロナ禍にあってなっていない、と文句ばかり垂れる人がいる。キリスト教をよく理解しているはずの人が、そんなことを言う。するとまた、偉い先生がそう言うので、そうだそうだ、と群がる信徒が現れる。
 
キリスト教というのは、自分の罪を責めはするが、他人の罪を責めないことからスタートしていなかったのだろうか。自分の罪を見ようともせず、自分では何一つ手を貸そうとはせず、自分の目から見て不満な相手の懸命な努力に対して、無知から悪口をぶつけるようなことは、イエスご自身が強く非難したものではなかったのだろうか。
 
私は悲しい。キリスト教が、崩壊していく。



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