【メッセージ】荒れ果てた地だからこそ

2021年9月12日

(エゼキエル36:33-38)

荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。(エゼキエル36:34)
 
敵に破壊され、壊滅した首都エルサレム。かつての繁栄の欠片も見られません。不思議なことにイスラエルの民は、ここで敵を憎むというような心を燃やしてはいないように見えます。
 
地震による崩壊、津波、土砂崩れ。台風や大雨により洪水被害。自然災害が日本各地を襲います。ハザードマップでは、いつどこで大きな被害が起きてもおかしくないようにも見えます。2021年8月中旬の大雨に不安な思いを懐いていたことは、誰の記憶にも新しいものだろうと思いますし、いまもなおその被害から立ち直ることがてきない方もたくさんいます。まことに口にするだけでも苦しい重い気持ちがするのを否めないのですが、これでも、自然に対して憎しみをぶつけるという人は、あまり聞くことがありません。そう思っている人もいるかもしれませんが、日本人の道徳としては、自然に憎しみをぶつけるということを是とはしないのでしょうか。
 
辛い体験をお持ちの方、まさに今この艱難の中にある方には申し訳ない言葉となっております。あんたに何が分かる、と怒鳴られても仕方のない者が申しております。しょせん他人事だろうが、と言われても何も弁解できるものではありません。私自身は、幼いときに街なかに住んでいたそうで、そのときに洪水に遭ったくらいの体験しかありませんし、その後両親はもう水は嫌だ、と高いところに住まいを替えたという程度のものです。阪神淡路大震災のときには関西にいましたが、直接現地で救援作業をすることはありませんでした。福岡西方沖地震の揺れはイースター礼拝の中で体験しましたが、直接の被害は殆どなく、熊本地震では何度か現地に行って何人かの方の、いくらかでも心の支えになればと願いましたが、何をどうしたとも言えないような者です。
 
しかし、特にその地震の痕というのは、失礼な表現だとは思いますが、エルサレムの都が壊滅したのを見るかの地の人々と、少しは似たものがあったのではないかと想像します。それはもはや、何かを憎むということではどうにもならないことだったのでしょぅか。熱海の土砂崩れは人災ではないかと見られていますが、それとはまた違う、どうしようもないこの事実、そしてそこから再建していかねばならないという思い、でも実際どのようにしてよいか分からない、そんな息苦しい思いで毎日を過ごしていたかもしれない、と思います。
 
エゼキエルの預言は、かの昔のイスラエルの都の復興について言及します。イスラエルは必ず復興する。それは、主なる神自身が、建て直すという約束によるものでした。
 
36:33 主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。
36:34 荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。
 
すると民は、これをエデンの園の再来だと喜ぶと言います。廃墟に城壁ができて、人の住む町になったと喜ぶのです。城壁都市として、荒野の中では、城壁に囲まれた形で、ひとつの都市が形作られることがしばしばでした。まるでお堀のある城郭の中に殿様の住まいがあるかのように、人々は安全のためでしょう、砦のように石垣に囲まれた壁で身の安全を図るのでした。
 
また、このエルサレム再建は、周辺諸国の目にも明らかとなるとも付け加えます。
 
いったい、こんな預言を本当にエゼキエルができたのかどうか、怪しいと考える人もいます。無理もない話です。聖書の記事はしばしばそのように、事後預言というように、すでに起こったことについて、場面を過去のある時に戻して発言させ、神の言葉を受けた預言者が、未来のことを告げたように描いています。それは何も虚偽を以てそうしようと考えたのではないと思います。私たちも歴史物語の中に、後の世はきっと、などと事後預言を交えて言葉を語らせることがあります。それを、歴史的なそんなことを言ったはずがない、などと躍起になって議論することは普通ないはずです。どうして聖書だと、恰も歴史の記録をただまとめた書物であるはずなのにけしからん、などという話が持ち上がってくるのでしょうか。
 
原子爆弾が投下されたとき、この町には数十年にわたり草木も生えるまい、と思った当時の人の不安と絶望は、察するに余りあります。しかし数年後、その町はたくましく再建され、今なお、世界に平和のメッセージを発信する都市となりました。戦後の物語で主人公に、この町もいつかは平和の町として世界に大きな力をもつことができるようになるよ、という台詞を言わせた作家は、そんなありえないことを書いたのはけしからん、と非難されるべきでしょうか。そんなことはないと思います。
 
エゼキエルは、どんな災害や不条理な破壊に遭った町でも、きっと復興できるのだという希望を、私たちに届けてくれないでしょうか。私たちがそのような希望のメッセージとして、エゼキエルの言葉を受け取ることはできないでしょうか。私たち次第で、それはできると思いたいのです。私たちは、復興の希望を懐きたいのです。
 
今日の箇所は短いので、この後、次の言葉を以て、取り上げる言葉を切ることになります。主がこの復興の中心にいること、主がこれをなすこと、イスラエルの人々は増えて祝福されること、廃墟の町も復興するということを述べる野です。
 
36:37 主なる神はこう言われる。わたしは、再びイスラエルの家の願いを受け入れ、彼らのために行う。わたしは彼らの人口を羊の群れのように増やす。
36:38 祭りの時に、エルサレムが聖別された羊で満ち溢れるように、廃虚であった町々は人の群れで満たされる。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」
 
こうして聖書箇所は、最後に「そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」と結ぶことになります。この言葉は、エゼキエル書の中だけでも15回登場する表現です。その中には微妙に表現が異なるものもありますが、主旨はすべて「そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」ということを言おうとしていることに違いはありません。イスラエルの人々が、主を知る日なのです。ご存じの通り、聖書で「知る」という言葉は、近代人が考えるように、考えること・思考を意味するものではありません。もっと体験すること、人格のすべてをぶつけるような交わりがあること、そしてそのように行動することなど、近代人が忘れかけていた大切な営みを意味します。これを「出会う」というような言い方をすることも許されると思います。イスラエルの民は、当然主なる神のことは知っていました。エルサレムはその主のための神殿のあった町なのですから。しかし、「そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」というからには、改めてここで主と人との交わりが生まれる、ということを意味するものではないでしょうか。人は、神と出会って、救いを経験するのです。
 
凡そ聖書を読む場合、その殆どのケースにおいて、聖書の記事の当事者としての自分を見出すはずだと私は考えています。自分が聖書の描く場面に登場している、と読むだろうということです。聖書の物語が他人事ではなくて、自分のための話であり言葉であるという捉え方をするのです。そうでなければ、救いの体験があるとは言えないだろうというほどに思うのです。もちろん、心身の障害を背負う人など、この限りでない人がいることは百も承知です。けれども多くの人の場合、イエス・キリストに救われるというのは、イエス・キリストの物語の中に自分が存在することなしには難しいことではないか、と理解しています。
 
そこで私は、エゼキエル書のこの短い箇所を心に反芻しながら読んだときのことを喘ぎつつお伝えします。私は苦しかった。思い出す、というにはあまりに現在的であるのですが、ここには自分のことが書かれてある、と強く感じたのです。ここで主が説いているのは、はい、私のことです、と息苦しさを覚えながら返答するしかありませんでした。
 
誤解なさらないように。これを、お聞きのどなたにも当てはめようとするつもりはありません。私が痛感した、あるいは痛感したことがある、ということをお伝えするだけです。
 
私は、荒れ果てていました。荒んでいました。表向きは、良い子のようなあり方をしてはいても、残虐な心を持ち合わせ、しかもそれを自ら正当化する理屈だけは持ち合わせていました。何もそれを自慢するつもりはありませんが、そして具体的に綴ることは関係者に迷惑をかけることがあるのと、話がいくらでも長くなることもあって、抽象的に自省をこめて挙げてみることにします。
 
どんなに他人を見下していたか。四角四面に考えるとなると、自分の中の法則に従えない人を愚か者だと判定することになるのです。小学校の時に、先生に対して挨拶をしない態度が「冷たい」と称されたこともありました。しかし自分が説明などしなくても、自分の中の正当な考えは誰にも分かっているはずだという思い込みは消えませんでした。人を騙しても平気であったし、そのために嘘をついても自分なら許されると自己弁明していました。狡賢いという言い方が当てはまるかどうか分かりませんが、何にしても自分が正しくあたりまえなのだと自認していました。不都合なことがあっても、それは世の中のほうが間違っているという結論しか持ち合わせていませんでした。だから、自分の感情でひとを利用することにかけては、なかなかの腕前だったと思います。
 
そんな中で、学ぶことが増えていくと、今度は憤りの対象が拡がります。世界の歴史から、キリスト教がいかに誤ったことをしてきたかに怒りを燃やしました。だんだんと、言われるままに真面目に勉強することが嫌になり、挫折も味わいました。
 
もしかするとこうした経験は、ほかの人にも心当たりがある場合があるかもしれないと思います。このとき怖いのは、本人は、そこに問題があるという意識を全くもつことができない、ということです。自分は正しいという視点しかもてませんから、自分の間違いなど全く考慮に入れることができないのです。
 
しかしこれには、さらに怖いことが待っています。自分の真実の姿に気づいたときです。自分が間違っていた、ということに気づいたとき、筋道立てて考える性質が却って、その自分を否定しにかかります。自分は間違っていた。自分が悪かった。この気づきが、自己否定に一気に向かいます。自分で自分を否定しようとすることは、そのまま突き進めば、自死に至ります。もう少し意志が強ければ、その道を進んでいたかもしれません。
 
私がこの自己否定に陥ったそのときに、あるきっかけで聖書の言葉が私を呼ぶ声を聞きました。そしてなぜか荷物の中に入れて、福岡から持ってきていた、国際ギデオン協会の新約聖書を開いた中で、私はイエス・キリストに出会い、救われました。神の言葉で確かに私は一度魂として死に、それから復活させられたのでした。
 
36:34 荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。
 
自分だけ気づかず、そして他人から見れば私が如何に荒れ果てていたかは分かっていたのでしょう。そんな土地が耕された、その経験は私にとり、新しい人生の始まりでした。しかし、そこからも紆余曲折がありました。出会ったキリスト、見つめていたイエス・キリストの姿には間違いはなかったのですが、それに従おうとする自分自身は、周りから見れば許せないものがあったようです。私の中にも、まだよく分からないものがあったのでした。但し、神は真実です。最初に足を踏み入れた教団が、聖書にそぐわないものであることへ確信を与えてくださり、飛び出していきました。でもそのときに、人生の伴侶を添えられたのが、神のこよなき恵みでもありました。
 
よい教会に導かれましたが、その後私は、教会の醜い姿や、あまりにも問題を孕んだ牧師たちばかりを見ていくことになります。これはさすがに抽象的にも出すべきではない部分がありますから、一つひとつは明かさないことをご容赦ください。
 
私を建て直したのは、確かに主なる神でした。どのように荒れた教会のありさまの中に置かれても、その都度真実に導いてくれたのは、この神でした。それだけは確かです。自分で自分を救うとか、信じられるのは自分だけだとか、それすらも間違いであるということに、ひとは気づきません。私たちは、当事者であるときには気づかないような、救いの大きな謎の中にいるように思います。それは、自分で自分を認識することはできない、という原理に基づいています。
 
よく、「自分を客観視することが大切です」などと言われます。子どもたちにも、そのように教えることがあります。とくにいま、入試の作文対策の授業を担当していますが、自分の書いたものを、他人の目で読み直すということは、必須の訓練です。いやいや、このように私にしても、独り善がりどころか、他人には通じないような言葉を並べているような者が言える台詞ではありません。書く方は、自分の中に前提になっている事柄を踏まえて、このような言い方をすれば自分の言いたいことを言ったことになる、と思い込んでいるわけですが、その前提を知らない聞く側からすると、その言葉の意味は何なのか、どうしてそのようなことが言えるのか、ちんぷんかんぷんであるということがあります。別の前提や背景をもっている人から見ると、同じ言葉でも、違った意味に受け取るということがあるからです。
 
そうです。聖書も、書かれたテクストとしては、基本的に定まっています。写本により相違があるのは分かっていますが、これほど多くの人の手による写本が残っている本としては、特に旧約聖書に関しては、驚くほど一致していると言わざるをえない文書です。しかし、それをいつ、誰が読むかによって、全く違った意味に受け止めてしまうというのは、不思議なことのようですが、当然のことと言えましょう。
 
人それぞれが、別のところに立っており、別の景色を見ています。別の人生を踏まえて今日まで生きてきました。思えば結婚というのは、別々の環境で育ち、別々の時間と空間を生きてきた二人が、別々の価値観をもったままに、同じところで生活をするようになるということなので、そもそも一致して快適に過ごすということなど、できるはずがないわけです。
 
話はずいぶん逸れてしまいましたが、自分を客観的に知るなどということは、自分を見ている自分はどこにいるのだ、という原理的な疑問も含めて、満足のいく形でできる代物ではありません。私たちは、ある程度想像の中で、自分はこう見えるのだろう、と知るしかありません。しかし、それを知るようにできるというのが、聖書の大きな魅力ではないかと私は思っています。
 
聖書には、神という対峙者がいます。果たしてそれを「対峙」と呼んでよいのかどうかなど、議論の余地はありますが、ともかくひとは聖書を通じて、神と向き合うことになります。そして、神は聖書というひとつの場を与えてくれています。過去に神と向き合った人々の記録です。この物語を、他人事として眺めている間には、残念ですが神の救いの恵みはありません。
 
近頃は、ひとたび話題になった映画に対して、評論家が多くなりました。映画を観てすぐに、この映画はこういうところがどうである、風な批評を得意げに行うのです。それを生業にしている映画評論家がそれをするのは仕事なのでよいのでしょうが、一般の素人さんたちが、映画についての講釈と意見を蕩々と述べます。自由に考察し、発言するというのが悪いとは思わないのですが、それを嬉々として述べて映画の欠点を見つけて酷評するような人を見るにつけ、私はその人に問いたくなることがあります。「それであなたは、この映画から何を得ましたか」と。もっと言えば、「あなたはこの映画の中の、誰に自分を重ねましたか」とも聞いてみたい気がします。
 
聖書もそうだと私は常々思っています。聖書を批評するのが趣味のような人がいます。あるいは、聖書を弁明するにしても、聖書を古代文献のひとつとしてしか扱えない人がいます。学者が研究してくれることにより、私たちは多大な恩恵を受けていますから、研究自体が悪いことではないのです。ただ、常に対象物としてしか聖書を扱っていないようであると、それは問題なのです。
 
聖書の中に自分がいるかどうか。ここに、聖書が命となるかどうかの鍵があります。しょせん他人事であるのか、当事者であるのか。
 
エゼキエル書を冷静に読むのも大切。しかしまた、エゼキエル書の中に自分がどう描かれているか、そしてそこにいる神と、自分はどのように接しているのか。その神と自分とが、対面し、出会い、人格的に影響を受けたとき、神との関係がきっとできるでしょう。そこから、自分のキリスト者としての道が始まります。
 
そして、神との関係が成立したその時から、私は人との関係も繋ぎ直されていくことを覚えます。目に映る風景が全く変わります。聞こえてくる音が、全く変わります。世界が全く変わるのです。
 
それは、私が善人になるということではないでしょう。その自惚れが、自分の霊の破滅を一度経験したので、もう懲り懲りです。私は一度主に確かに出会ったものですから、新しい命に生かされています。
 
エゼキエル書の今日お開きした部分の直前に、実はたいへん有名な箇所があります。イスラエルの民を集めて新しい土地に取れるのだという、今日の話の前置きがしてあるところですが、次の句が有名です。
 
36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
 
新しい心、新しい霊を神が直々に与えるといいます。そうして、頑なな石の心を取り除き、柔らかな生きた心を与えるのだ、と神が宣言しているのです。なんとも嬉しい約束ではありませんか。私にはよく分かります。自分が如何に石のような頑なな心を持っていたか、知っています。その当事者でしかない場合には気づかなかったことですが、神の言葉によりそれが砕かれた時に、自分がそれまでそのような者であったことを思い知らされました。
 
「肉の心」とは、新約聖書でパウロが言うような意味ではありません。神から人へという方向の命の流れを、逆に人の欲や求めを原理として、神を利用するような方向で捉えていることが、パウロの言う「肉」だとすれば、ここで言っていることとはまた違う話ということになります。エゼキエルが言う「肉」は「石」に対立するもので、温かな柔らかな心、頑なでない命に満ちた心というような意味だと言えるでしょう。
 
この宣言に続いて、神が今日与えてくれた言葉の数々が並んでいました。お開きしたこのペリコーペを再び読み返すことによって、荒れ果てた自分の姿をもう一度思い起こし、私は神がそのように扱ってくれたということについて、この上ない感謝の思いが改めて浮かび上がりましたし、喜びが溢れてきます。ペリコーペは、最後にどのように結ばれていたでしょうか。見てみましょう。
 
36:38 祭りの時に、エルサレムが聖別された羊で満ち溢れるように、廃虚であった町々は人の群れで満たされる。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。
 
廃墟であった私の心が、人とのつながりの中で回復します。そればかりか、最後の最後に、「わたしが主なる神であることを知るようになる」と言うのです。口調からすると、「彼らは知るだろう、私は主である、と」のような響きです。「知る」には、頭だけの知識ではなく、深い体験的なものを含んでいるとすると、ここにはいま見ると含蓄の深いものを覚えます。これが主の出来事であること、主の言葉がこのようにして実現したこと、しかも私が神と向き合って、聖書という場の中で確かに体験できた主の言葉の真実があるということ、これらをしみじみと噛みしめるのだということになります。
 
あなたの救いは、どうでしたか。また、今からどのようにそれは起こるでしょうか。行き詰まった時代の中で、キリスト教会が喘いでいますが、まるで組織社会の達成目標のようにばかりそれを見なしていても、何の解決にもならないばかりか、却って神から遠ざかる一方であるような気がしてなりません。ここは「荒れ果てた地」「荒れ地と見えていた土地」なのです。私たちは過去をも悔い改めていませんし、私たちは自分は正しいけどね、というような自己義認の塊でいるばかりです。そうではなく、「荒れ果てた地」であるところから再び始めなければならないと考えます。そうするならば、神は建て直すのです。壊れてなどいない、と言い張る者を、神が建て直すことはありません。私たちは「廃墟」なのです。しかし、それを自覚して悔い改めて祈り求めるならば、神は建て直します。回復を与えます。すると、主が「すべての罪から清める日」に、私たちは、自分の向き合っている方が、「主なる神であることを知るようになる」でしょう。それが、聖書の約束なのですから。



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