3年前
2021年9月10日
このまま家にいたら駄目になる。本能的にか、そのように思った。
高校生のとき、目的をなくしていた私は、でたらめな生活を送っていた。逃げてしかいなかったのに、刹那的なものを求めて格好をつけていたのだ。
ひとりでは、何もできないではないか。自己に危機感を覚えたのは、大学入試に失敗したときである。数学的な美しさに憧れていたくせに、自分の人生は数学のようには運ばない。なぜか。その問いが浮かぶフィールドは、数学の中にはなかった。哲学という場所が、それだった。理系から文系へ転向して、だから予備校に通うのも難しいと考え、予備校に払う授業料も惜しんだせいもあったが、「宅浪」に踏み切った。
いまなお「宅浪」はいるのか。検索すると、一割以上いるような声もあった。本当かどうか知らない。
あげく、またも国立大学には認めてもらえず、授業料の比較的安い私立大学に行かせてもらうことにした。もちろん、哲学をするのにはそこは悪い環境ではなく、むしろ京都学派とのつながりもあったので、一人下宿暮らしを始めたら、大学生としては真面目な学びをしていたことになる。当時の京都(卵や牛乳はむしろいまより高かった)で一日の食費が400円という水準を保ち、毎月の収支を母に手紙で報告し続けた。
夏休みと正月には、帰省した。重い本が多いので、宅配便を利用した。新幹線を使ったが、時には夜行バスも利用した。
福岡からまた京都に戻るとき、私の中で、いつもひとつの覚悟を伴っていたのは事実だった。母はだいぶ高齢で私を出産した。小学校の授業参観でも、母は一番の年上であることは明らかだった。だから、これが最後に顔を見た瞬間となるかもしれない、との覚悟を、家の前で別れ際にいつも自分の心の中でもつのだった。
振り返る私に母はあるとき、「大丈夫。死ぬることはないから」と言って私を送り出した。驚いた。心の中を見透かされたのだと思った。子は、親にかなわないとしみじみ知った。
その母について、ほんとうに顔を見た最後が、3年前の今日だった。夜中の電話は、私を狼狽させはしなかったが、ついにその時が来たのだと察した。最初に駆けつけたのは私だった。そして朝まで、共にいた。そこは、礼拝堂も備えられたホスピスだった。禅寺生まれで、棺にも自書の般若心経を入れてもらった母であったが、病院を出るときには、賛美歌で送り出すことができた。奇蹟のようなひとときだった。
このときの様子は、文章に認めている。三人の息子の誕生のときにも、その物語を文章にして保管している。長男には、3年前にそれを見せた。
せっかく与えられた命である。わがままな私をはじかず、ただ見守り、包んでくれていた母の思い、私がキリスト教会に行くようになったとき、何を思っていただろうか。結婚式を教会で挙げたときのことは、母の日記の中に事務的に書かれていただけであるし、そうした信仰的なことについては、遺されたものの中には特に書かれていなかった。書きたくもなかったのかもしれないが、何も遺していないということを、私はただ感謝すべきなのかもしれない。ホスピスでは、聖書を読んで聞かせた。意識もなかったような母の耳にも、届いていることを私は信じている。