自称映画評論家は多いけれど
2021年9月8日
皆が同じテレビ番組を見ていた時代、学校に行くとその話題でもちきりだった。いつしかバラバラになり、他人は他人、と話題がつながらなくなってしまった。それを美しい言葉では「多様性」と言う。ひとの自由や趣味を尊重しているのかもしれない。ずかずかと踏み込むことを避けているのだろう。別にいろいろあっていいじゃん、というのは、互いに傷つきたくない、傷つけたくない、という距離感をも表しているようにも見える。アニメのキャラクターの話す言葉は、仲間同士であってもやけに丁寧なよそよそしい言葉になってしまった。
それでも、「鬼滅の刃」は多くの人が観た。最近では「竜とそばかすの姫」も話題になった。だが、それを観た者同士が何かつながった、というような感じは受けなかった。クラス中で、ドリフの話題や歌番組がそれなりに子どもたちを結びつけていたのとはかなり違うように見える。
意見はSNS上でよく発表できるから、目の前の相手にぶつける必要もなくなった。そして、けっこう大胆な考えを披露することもできるようになった。皆が話題にする映画については、その映画について「おもしろくなかった」と言えば目を惹く。理屈を挙げてその欠点を突けば、映画を細かく観ていると評価されるような具合だ。
私もひとのことは言えない。ドラマチックな映画を観た後、妻に感想を訊かれ、虹の出方が間違っていた、などと言ってずいぶんと叱られたことがある。尤もだ。そんなことはどうでもいいのだ。
映画評論家なら、映画について細かな点を指摘してなんぼの商売であるから、映画の良いところも足りないところも見つけるのが筋だろう。だが、巷には自称映画評論家が多すぎるような気がする。中には、この映画には○○が描かれていない、などと言い始める。2時間程度の長さの中で、あらゆるものを描くということができるとでも思っているのだろうか。今日の中華料理にはマカロニが入っていなかった、と言って何か役立つというのだろうか。
映画の批評をして得意げになっている巷の自称評論家たちには、ほぼ共通した特徴がある。それは、その人が映画の中に入っていっていない、ということだ。
もとより、面白くないから入っていけない、という言い訳もあるだろうが、映画を愉しむというのは、自分もその物語の中の世界に入ってみるからこそ、とは言えないだろうか。小説を読むとき、登場人物に共感したり、その場面に自分がいるような気持ちにならないで、冷たく突き放して窓の向こうの景色をただ眺めているだけで、読んだ気になるだろうか。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』は、そうやってファンタジーの世界にどっぷり浸かる少年がほぼ全編で描かれていたように思うが、そのような読み方が薄れてきたことに対して、エンデは危機感を覚えていたと捉えてはいけないだろうか。
自分だったらどうするか。読書感想文を書くときの一つのルールはこれを述べることであろう。話のあらすじをまとめても感想文にはならない。また、冷静にただ分析した文芸批評だと、やはり目的が違うように思われる。
同じ「聖書」を目の前にして、そして同じように読んでいたとしても、信じられない人は全く信じられないという。私もそうだったから事情は分かる。だから、聖書の言葉が分かるように「霊」が働く、というようなことをキリスト教側では言う。それでも、分からない人にはどのように説明されようと、分からないものは分からない。
聖書の中に、自分の居場所はあるだろうか。
私は、この問いかけだけで、さしあたり方向性は決まるのではないかと考えている。