【メッセージ】群れを養う
2021年9月5日
(エゼキエル34:1-16)
わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。(エゼキエル34:15)
昔、学級委員を担当したことがあります。子どものことですから、要するに教師の使い走りに近いものでしたが、こうした経験は、ひとを動かしたりまとめたりするためにどうすればよいかを感じ取るのに役立ちました。よく、生徒会が生徒の意見を生かすために役立っていないとか、もっと大人にちゃんと主張しろとか、大人目線で正論を言う人がいますが、ひとつの教育課程であることも考慮してよいのではないかと思います。ひとつの箱庭の中で、小さな社会の形成をそれぞれに経験していくことに、第一の意味があるのだ、と。
クラス全員にそっぽを向かれるような学級委員も、どこかの学校にはあるのかもしれませんが、幸い私は、なんとか教師の使い走りを果たしていたと思い出しています。でも本当はどうだったでしょうか。何らかの形で上に立つ者は、自分はそれなりによくやった、と自己評価しがちなもので、実は下の立場から見たら、いけすかない奴だった、と思われていたかもしれません。
たとえば、これは日本の精神風土にも関係しているのでしょうが、政治的リーダーに対しては、悪口を言うのがあたりまえというような空気があるように見受けられます。もちろん悪口ひとつ言えない、唇寒い世の中というのも嫌なものです。憲兵に引っ張って行かれるというような、言論情況はもう御免です。自由に言論が可能な時代というのは、それに比べればなんとありがたいことかと思います。
しかし、自由に発言するというのも、発言したから言うことを聞け、というようなつもりでおりますと、要求が通らないときに憤る人が現れてきます。考えてみれば理不尽なものですが、世の中が自分の思い通りにならないという不満と怒りで、幾多の犯罪も起きています。
それでまた、悪口を言ってもその通りにはならない、というのが常態になってくると、これはこれで弊害があります。ひとつには、言ったってどうにもならないのが分かっていながら発言するということには、真摯な姿勢がなくなり、常にシニカルに批判をすることで自己満足をすることに慣れきってしまうことです。すると、世の中は分かってくれないが、自分は正しい、という思い込みが強くなります。ひとと議論を戦わせると、自分の考えにも至らないところがある点に気づくことがありますが、こうなるとそういうことなく自分の中でシニカルな勝利だけが残るということになるわけです。
もうひとつには、そうやってぶつぶつ呟くことで、まるでお喋りをしていればストレスが発散されるみたいに、悪口を放つだけで終わってしまうということです。つまり、為政者側からすれば、悪口を適当に言わせておけば、ほどよい「ガス抜き」になるということです。しょせん、悪口は言わせておいてもただブンブン羽音がするだけで、言うほうも言ったことでスッキリさせてあげるというわけです。結局選挙になると、それなりの方策がありますから、結果的にちゃんと票だけは手に入れるということができるわけです。言いたい者には言わせておけ、言えばそれで発散できるだろう、しかし選挙で法的に正しく自分たちは政権を続けさせてもらう、ということになります。いま、日本社会はこのようなことになっているように見えます。
世の中を引っ張る政治的なリーダーに、ヒーロー性を期待する国もあります。古代イスラエルはどうだったでしょうか。熱狂的に支持される王もいたようですが、最も繁栄した時代を築いたソロモンにしても、その子の代になると、重い労役に反抗して大多数の部族がエルサレム王朝に背を向けてしまいます。やはり不満はくすぶっていたものと思われます。
ふだんは農民であり、戦争の時だけ兵士となる、という形は日本の戦国時代もそういうことだったのでしょうが、イスラエルの兵たちも、王の戦術が拙かったら、さっさと戦うことをやめて自分の土地に戻って行ったらしい記録もあります。いつの時代も誰でも自分が大切なのですから、自分を守ってくれるリーダーを尊敬はしたでしょうが、そうでないリーダーには従わなかった、というのが自然だったのでしょう。
エゼキエルの時代は、複雑な背景がありました。なにしろ故国は破壊し尽くされ、少しでも有能な人物はこぞって敵国に連れられて行き、奴隷になった、とまでは言えないかもしれませんが、いいように利用され、また肩身の狭い生活を強いられていたと考えられます。エゼキエルはそのような民に、イスラエル古来の神がきっと復興を成し遂げてくださるというビジョンを提供しようとしていたことでしょう。
そのためには、イスラエルのリーダーにどう従うべきか、いったいリーダーたちは適切なことをしていたのか、そこをはっきりさせる必要があります。結論的に言えば、今回エゼキエルは、徹底的にイスラエルのリーダーたちを非難しています。イスラエルをこのようにしてしまったのは、無能なリーダーたちのせいだ、ととことん突きつけます。でもそれは単なる悪口ではなく、もっとその先のダイナミックな世界形成を見定めていますので、ご一緒にその声を聞いていくことにしましょう。
開かれた聖書の箇所を、私は大きく二つに分けて取り扱うことにします。前半は34章の1節から8節まで、後半は9節から16節までです。皆様が読みやすくするために、最初にもうはっきりとさせておきます。これらは全部、主の言葉と言うことに鳴っています。そのうち前半は、「イスラエルの牧者たち」への批判です。彼らが何をしてきたか、何をしなかったのか、を暴露します。後半は、「わたしは」を並べ、主なる神がこれから何をするのか、それを明らかにします。この構造をまず明確にしておきます。そして、一つひとつの表現を細かく取り上げて説明したり、理解しようとしたりすることは諦めて、私たちがここから受け止めたい点を、できるだけ多く取り上げ、共に考えていきたいと願っています。
前半に気持ちを向けましょう。ここは、イスラエルの牧者に対する徹底した批判が並んでいます。イスラエルの王や、恐らく宗教的指導者も含んでいるのだろうと思います。彼らは「自分自身を養う」(2)ばかりです。主は、それは違うと突きつけます。群れ、すなわち一般民衆を養うべきではないのか、と。彼らは自分たちのための衣食住を調え、弱い者を助けることをせず、民衆を圧迫して支配してばかりだったと言います。そうして、弱い民衆は、食い物にされ、まとまることなくちりぢりになったことを主は憐れみます。それぞれの場所で迷い、それを探すリーダーもいません。こんな有様に対して、エゼキエルは、主がこんなことを告げていると言います。牧者、すなわちリーダーたちよ、主の言葉を聞け。おまえたちは、群れを養うことをせず、私腹を肥やしているだけではないか。
旧約聖書をご存じの方は、必ずしもこの通りの歴史ではないことにお気づきだろうと思います。中には、主に仕え、良いとされた王もいました。他方、主に背反した王の中には、政治的には手腕を発揮した王もいたというふうに見られていますが、旧約聖書の評価は厳しく、とにかく主をのみ拝したかどうか、そこで王の評価が決まっています。エゼキエルは、単純に、主に従った王こそ民衆を大切にした王であるような見方をしているように思われます。結局、主に従わなかった王たちの罪の故に、ユダも征服されて、エルサレム神殿が破壊されてしまうことになったのです。
こうしたあたりで、ふと見渡していま目に見えるもののことを考えた人もいるのではないでしょうか。このリーダーは、私たちの目の前には、牧師あるいは執事などのリーダーとしてここにいます。教会によって異なりますが、基本的に日本の教会は、私腹を肥やすようなあくどいことはないだろうと思います。いえ、稀にそうしたことが事件として挙げられることもありましたが、まず殆どは大丈夫でしょう。
そして牧師たちは、よく働いています。教会の存続のために、きりきりと痛む胃を抱えながら、奔走しているものと思われます。特にこの2020年からの新型コロナウイルス感染症の懸念のもとに、教会運営は、未曾有の危機に陥っているものと見られ、まともな伝道ができないばかりか、信徒を引きつけるためにも苦労していることでしょう。新しい人がふらりと教会に来るというような機会も、なくなってしまうとなると、信徒は減る一方で、また経済的に行き詰まる信徒がいるとなると、教会の収入も減少します。いやいや、そのときこそ献金のあること、必要なものは与えられることを信じる信仰があるのだ、と意気込む牧師や教会もあろうかと思います。私はそんなタイプの教会にもともといましたので、きっと悲観するようなことはないでしょう。こうした時にこそ、生かすのが信仰なのであって、人間くさい計算ばかりしている教会は、基本的にもう信仰の世界にいるのではないとして構わないでしょう。
それでも、冷静に牧師を見るとき、信徒である私たちは、牧師に対しては厳しい要求をすることがあります。実際、問題のある牧師も少なくありません。牧師という職業を営んでいても、人間は人間。よく当人は、人間だから欠点もありますよ、などと言いますが、欠点も、というあたり、まだどこか自負があるように思えます。牧師ならではの、陥りやすいことは無数にあるのであって、「完全ではない」という程度の認識をしていること自体が、すでに間違いであることにお気づきでないところに問題があるとも言えます。
信徒は分かっています。しかし敢えて言いませんし、言わないから牧師のほうでは、自分はまあまあよくやっているんだろう、と思い込んでしまう悪循環が働きます。それはおよそ「先生」と呼ばれる職業に共通の罠です。
それで、教会の中で牧師を営んでいるわけではない私たちは、このエゼキエル書に触れて、ついこのようにまた思い込んでしまいます。「ああ、イスラエルの牧者たち、という批判は、キリスト教のリーダーにも同じように当てはまるようにも思えるなぁ」と。それは、決して的を外してはいないのです。その通りなのです。でも、それだけで終わっていたらよくない、というのが、今日の要点の一つとなるでしょう。そのことについては、また後で触れることにします。
後半部分を見ましょう。今度は目立つのは、「わたし」という語です。ここは主なる神がエゼキエルに向けて語っていることであり、それは神の言葉として民衆にも伝えられるべき内容です。その中でしきりに「わたし」が繰り返されます。とにかく主である「わたし」が何事をも行うのです。
わたしが、羊を探し、救い出します。連れだし、土地へ導きます。イスラエルで養います。良い牧草地で養います。憩わせます。公平をもって養います。具体的には、「追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16)と、生き生きとした姿で伝えます。
至らない牧者たち、自分のことばかりしか考えないリーダーたちのことをずっと指摘してきた神は、今度は身を乗り出してくるようにして、「わたし」が羊を助けるのだと宣言しています。もはや人がどうのこうのという次元ではありません。主なる神がこれを実現する、と事ある毎に聖書が語る場面のように、いまや神自らがこれをすると呼びかけます。
そこに繰り返されるのは、「養う」という言葉です。これは、家畜が草を食べるという様子を表します。まさに羊がたっぷり豊かな草を食んでいるという情景が目に浮かびます。そこで詩編23編を思い浮かべた方もきっと多くいらっしゃることでしょう。
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
エゼキエルもこの詩を知っていたのだと想像します。あるいは、このような主と民との関係は、イスラエルの理想として、共通理解であったのだと思います。ここには、神と人間との理想の姿が描かれていると言えるでしょう。エゼキエルの神もまた、このような関係の中に育まれる民を大切にしていたのだろうと考えます。
日本語でも、養うことを「食わせている」というような表現をとることがあります。生活ができることを「食っていける」という言い方で表すことがあります。食べるという行為は、生きることの極めて重要な部分であり、ひとつの象徴となっています。生命活動は、食べることなしには成り立ちません。着るものがなくても生命現象はとりあえず妨げられません。住むところがなくても生きていくことは不可能ではありません。しかし飲食なしには、人間は生命を保持することができないのです。
主は私たちを、食っていけるようにしてくれる。まずは心強い約束です。そこからまた、人によっては、イエス・キリストのことを思い起こす人がいるかもしれません。
わたしは命のパンである。(ヨハネ6:48)
ヨハネの福音書と、他の三つの福音書とは記事の一致が難しいのですが、五千人にパンを与えたエピソードは共通して掲載されています。よほど意味深い奇蹟であったのだろうと思います。ところがこの群衆は、その後もイエスを追い続けます。また食べ物をくれ。イエスは、彼らがパン目当てであることを見抜きます。イエスが与える食べ物というのは、食べてまた腹が減るような食糧としてのパンのことではなかったはずでした。イエスは永遠に食べていく、もっと言えば、ずはり「永遠の命」を与える道を用意していたはずだったのです。とはいえ、現実にパンをもらった群衆には、そんなことは分かりません。イエスは、信じるならばその永遠の命が与えられるのだ、ということを言うために、このように、イエスが「命のパン」であることを明らかに告げたのです。それは、食べてもやがて死ぬようなものではない、永遠に生きるためのパンなのです。イエスは、「イエスの肉を食べる」というような表現を口にします。しかし、当然そんな言葉は馬鹿馬鹿しくてついていけないということで、多くの人が、それも弟子であった者からも大勢が離れ去ります。イエスは、残った十二人の信仰を確認しますが、このとき一人が裏切ることにも言及します。
ヨハネによる福音書の6章を紹介しました。ここで、イエス自身を食べるというような、過激な言い回しも出てきていますが、神が食べさせるということについて、重要な示唆をも私たちは得ることができるのではないか、と思いました。
さて、「わたし」と「養う」が、この聖書箇所の後半で目立つということに触れましたが、もう一つ、これは後半に限らず、前半からも多く登場するのですが、目立つ言葉がありました。それは「群れ」です。イスラエルの民全般を表す言葉です。アッシリアやバビロニアの帝国に踏みにじられて、イスラエルの民は散り散りになります。イスラエルはもう群れとしては成り立たないほどになってしまいます。それ群れを育むことを怠ったのが、イスラエルの牧者たち、すなわち王や祭司たちでした。その群れを飼うべきだったのに、自利ばかりしか目になかったと前半でたっぷりと非難したのでした。
後半では、この群れという言葉は、「わたしの群れ」という言い方で登場しているように見受けられます。
34:11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
34:15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる
どうやら、元のイスラエル民族全員を招こうとしているのではないように見えませんか。明らかに、主の群れという、どこか限定した集団を指しているような言い方になっています。もちろん、これは前半部分にもありました。特に次の箇所です。
34:6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。
34:8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。
ですから、イスラエルの民全体のことだ、と読むのが素直であるのかもしれません。しかし、後半では、「探し出す」営みが確かにあります。散らされたイスラエルの民の中には、確実に「わたしの群れ」と言えるグループが、民全体という意味ではなく、含まれていたように、どうしても読めてしまうのです。必ずしも全員が主の羊なのではない、だが確実に、主の羊はその中にいる、彼らは迷わされ、散らされてしまった、略奪され餌食になろうとしていた、けれども、主はそのような羊を「わたしの群れ」と理解し、そうして、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16)というのです。
ヨハネによる福音書で、奇妙な言い方をしたイエスから離れ去った弟子たちもいましたが、残った弟子たちも今した。
主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。(ヨハネ6:68)
ペトロがこのように言いましたが、このエゼキエルの伝えたメッセージに対して、そこから離れ去ることをせず、このように、他に行くところなどないのです、と叫びたいと願います。
そこで、私たちの足元に戻りたいと思います。私たちは、頼りない牧者、信じてついていくに値しない牧者の存在をここから知りました。すると、思い当たるふしがありました。キリスト教会の牧師たちと言っても、すべてがすべて、信頼のおける人たちばかりではない、ということでした。やはり玉石混淆ですから、無条件で信頼する必要はありません。できるなら信用から入りたいとは思いますが、最後まで信用しきる必要はない、ということです。ただ、牧師のために祈ることは大切です。悪魔はこうした立場の人をなんとか仲間に引き入れようと巧妙に策を巡らせます。罠を一番仕掛けるのは、牧師だと思われます。そこへ防御となるのは、多くの祈りです。神の憐れみを求め、助けを願う祈りです。これは大切なことです。
そして私たち信徒としても、物事の悪さについて、責任をそうした牧者ばかりに押しつけることは、厳に慎まなければなりません。私たちが当事者意識を失い、客観的に判断し始めたら要注意です。インターネットの世の中になってからいっそう、ひとは窓から世界を眺めているような気分になり、世界を一言で批評できるような「偉い人」になっていっているような気がします。自分が批評しているその世界の中に自分が確かにいて、自分がその世界を作っているのだ、少なくとも参加しているのだという意識が欠落していくとき、私たちは無責任に世界を批評する「偉い人」になります。牧師に対しても、自分がそこにいる教会、そしてその教会の中で自分がどこにいて、何をしているか、そこに目を向けることを忘れてしまい、一方的に牧師を非難するようなことは、実のところ愚の骨頂です。福音書を知らず、救いを知らない、名前だけの信徒が、これを実際やらかします。
私たちは、このイスラエルの牧者を見下すようなことをしてはなりません。彼らは、曲がりなりにも、イスラエルを統治したのです。並々ならぬ犠牲を払い、その才能と立場を活かして、時間を割いて政治と宗教のために働いたのです。それは、あのファリサイ派や律法学者もそうでした。彼らは模範的な生活を営んでいたのです。立派な生き方をしていたのです。イエスが批判したから、とんでもない悪人だ、などと考えてはいけないと思うのです。そんな立派な生き方をしていたエリートたちですら、いや、彼らだからこそ、神の恵みを見失ったのだとすれば、私たちが、神の憐れみに感謝して涙していた頃から、いつしか教会組織の責任をもつようになるなどして、人を使うような立場になり、クリスチャンとしてのキャリアを積んでいったとき、私たちはどこにいるのでしょう。立派な生活をしており、自分たちは神に奉仕していると自負していた、あのファリサイ派や律法学者の立場に、最も近いところにいるのではないでしょうか。この視点を常にもつ必要があります。
エゼキエルに与えられた主からの言葉、それは、ここでは決して幻想によるものではありませんでした。理性ではっきり聞いています。そこでは、イスラエルの上に立つ人々の虚像が暴かれました。私たちもまた、「偉い人」になってしまったときに、陥りやすい罠でした。しかし、人が人を救うのではなく、「わたし」である主こそが、主体となって人を救うのだという宣言を今日聞きました。それも、迷い散り散りになっていた羊を探し出すように、主自らが探し出し、導くと言うのです。そして、「養う」というキーワードを受け取りました。そこに私たちは、命そのものを見ました。イエス・キリストが告げていた「永遠の命」に匹敵するものを感じることができると捉えました。それは、元のイスラエルの民全員かどうかは不明のようでした。しかし「わたしの群れ」と呼んでくれた人々、恐らくは私たちとしては、イエス・キリストを信じその救いを受け容れた者たちのことだと受け止めておくのがさしあたり適切ではないかと思うのですが、そんな主の名の下に集められる「群れ」に、確かに救いを、そして命を与えるのだというメッセージを受けた、そのようにエゼキエル書を読む機会を与えられました。
あなたの教会の牧師が、この恵みの中に留まる人であるように、祈りましょう。自分本位のことにしがみつかず、人を信頼すること、人に信頼されることを大切に扱う人であるように、祈りましょう。牧師もまた、それに気づきましょう。そうでないと、信頼のもてない羊飼いにいつまでも従っていくほど、羊たちは何も考えないわけではないのですから。