感染症と子どもたち、そして……

2021年9月2日

新学期は近年、8月中に入るようになってきていたが、今年は9月からという動きも多い。そして子どもたちがキャリアになり、あるいは陽性反応が出るというケースが多々見られる、新型コロナウイルスの新しい種類が、この学校再開への懸念を強くしているのは周知の通りである。新規感染者の四人に一人が10代以下だという情報も耳にした。
 
子どもたちを集団の中に送り出すことを恐れる親も多いだろう。同時に、その子どもから親へと感染が広まることを恐れているというのも本音だろう。かといって休ませて家に置くわけにもゆかない場合があることは、去年の春に経験している。こうすればよい、という定番の方法がないのが実情であろう。
 
中にはとんでもない大人がいて、自分はワクチンを接種したからマスクなしででもどこにでも行ってよい、と勘違いしている人がある。わざとだとは思うが、そのような声をまき散らして、デマを拡散している犯罪と呼んでもよいようなことを平気でしている悪人もいる。子どもたちの処遇についての意見も、自分の意見こそ唯一正しい、などと吠えている声がネット上に見えることで、社会を破壊するようなことになりはしないかと案じている。
 
これで万全という方策は一つもない。子どもたちは幸い、重症化が少ないことで、命が守られることを願っているが、差別や恐怖の蔓延も心配される。しかし受験生もいることだし、学校がなんとか機能しないかというのは、多くの人の願いでもあろう。
 
最初の時には、訳の分からないパニックであった。あの全国休校という措置は確かにオーバーであった。あのときの感染者数と今の感染者数とは比較にならないが、なんとか感染症についての知識も増してきたが故に、ただ怯えるだけではない対処法を人類は会得してきた。万全ではないが、ただ怖がっていた時期とはやはり異なる。学校という場は、なんとか開かれてほしいとは思う。
 
そのためには学校関係者の多忙を理解してもらうことにもなる。しかし、医療現場の多忙に比べるとまだずいぶんと可能領域にあるとも言える。要は、感染者が出たときに学校の責任をへたに問わないことである。関係者は、この「責任」の文字に弱い。何かあったら責任を追及される、これが怖いのであって、そこで折り合いがつけば、善処できる構えの人は必ず増えることだろう。4日たてば全国の千人に一人の感染者が増加する現状である。この「責任」騒ぎを抑えれば、動きが違ってくるのではないだろうか。
 
現に、医療現場での感染については、もうやむなしという目で見ることができる雰囲気が社会に現れてきているように感じる。災害状況だとも野戦病院だとも言われ始めたが、言われた時点ですでに相当にそうなっていると認識すべきであろう。むしろよくぞここまで従事者がやってくれている、としか誰もが言いようがなくなっているのだ。医療も保健も、もう限界を超えている。感染患者の入院すらない、町外れの小さな医院でも、陽性反応を調べる検査を受け持っているところでは、多忙続きでどんなミスが出てくるか分からない現状である。通常の医療業務に加えて、その検査、それからワクチン接種の予約電話、たまらない。どうして政府は、この予約業務を一般の医院にさせるのか、神経が分からない。医療従事者を殺すつもりなのかと憤っている。医療現場を知らない為政者の医療政策は、次には患者を受け容れない病院名を公表するなどという、責任を押しつける暴力すら正当化しようとしているという。酔っ払った者が周囲を破壊するのと同じ風景を見ている観がある。
 
子どもたちの話に戻る。ただでさえ、この時季には登校したくないといったメンタル面の問題が非常に多いと言われている。そこへきて、この感染症の事態である。子どもたちは、よく耐えていると褒めてあげたい。大人の言うことをよく聞き、嫌なことも我慢しているし、手洗いなども熱心にしているのは、普通の大人たちではなく、子どもたちである。ショッピングセンターに入るときに消毒をもうしなくなった大人が如何に多いか、私はよく観察している。トイレで手を洗わず出て行く男性も頻繁に見る。その手で次に女性と握手でもするのかと思うと、鳥肌が立つ。衛生観念は、付け焼き刃ではだめのようだ。子どもたちはその点、基本を学校で学んでいる。まだ、きちんとできる素地がある。よく頑張っている。
 
こうなってくると感染そのものを否定することも、非難することもできないのが実情である。子どもたちの間での感染ばかりを攻撃するのはやめようではないか。現在は少なくとも、それはどこかで、つきあっていかなければならない運命なのだ。子どもたちはよくやっている。大人がだらしなく、我慢できないとか厭きたとか呟いているのを棚に上げて、子どもたちをどうするか、など権威的に決めようとするのは、全くお門違いであると言えよう。むしろ子どもたちの姿に学べ、と言いたい。
 
学校生活が、適切に営まれていくことを願う。むしろ改めるべきは、大人のほうである、というところか考えをスタートしたいと考える。



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