「じっぷん」の一言からの連想

2021年8月31日

「残り、じっぷん」。テスト監督のときに宣言すると、子どもたちの間で「じっぷん……」という声がいくつか重なって聞こえてきた。夏期講習は、初めて塾に来るような子がいる。ふだんから来ている子は、私がいつもそう言うので慣れているが、そうでないとどうやら変に聞こえるようなのだ。
 
言うまでもなく、「10分」は「じっぷん」と読む。日本語で「じゅっ」という漢字の読み方はない。「十戒」も「じっかい」である。
 
近年は、あまりにも間違いが多いので「じゅっぷん」も許容されるようにはなってきているが、だからといって、本来の「じっぷん」を誤りとすることは、ありえないだろう。ただ、子どもたちはその本来の「じっぷん」を聞く機会が少なかったのだろう、それを間違いだと言いたくなるようである。
 
いや、子どもたちばかりではない。気になって検索してみると、こんな親の質問があった。「小学生の子どもが、学校で『じっぷん』と聞いたという。それは聞き違いではないかと尋ねたが、そんなことはないと答える。ほんとうに学校でそんなことを教えるのだろうか」と真顔で尋ねている。これが複数見つかった。
 
もちろん先生は正しく教えているし、その子は正しく受け止めている。つまりは親世代がこうなのだ。
 
よく言う。言葉は生き物であるから、変化する、と。主旨は理解するが、残念ながら言葉が生きているのではない。言霊信仰をもつ人はそうお思いかもしれないが、言葉はひとの思考とコミュニケーションの中で作られ、変化する。新しい言葉を否定はしないし、古来の意味を保持すべきだ、と頑固に主張するわけではない。いま褐色の秋の虫を見て「きりぎりす」とは呼ばないし、病院で「看護婦」という言葉を使うことはないだろう。言葉には、その時々の人々の考え方や社会制度などが形成理由にもなっているから、差別的な用語を使うことが適切であるとも思えない。
 
いまの社会や思考がどうであるかということと関わりの深い事情がそこにはある。だから、「犬も歩けば棒に当たる」がラッキーな意味に使われることは、すでにポピュラーにもなっているし、「全然」の後に否定の語を使わないことも違和感が少なくなってきている。尤も百年ばかり遡ると、「全然〜ない」というべきだという共通理解は殆どなかったようでもあるから、決してこれらは、「正しい」という基準で捉えているのではないということになるだろう。
 
英語でも、19世紀の英文を読むためには、そこらの辞書では対応できないし、トムとジェリーでも、そのような古い英語を使うキャラクターの話を聞いて、その文字通りの様子を想像してギャグにしているものがあったと思う。なかなかいいところを突いている。
 
言葉はひとの思考そのものでもあるから、価値観についても同様に思い込んでいる場合がある。明治期の離婚率の高さは、古き良き家庭像を看板に掲げる主義の人には信じられないだろう。「嫁して三年、子なきは去る」という言葉を知る人も少なくなっているのではないか。保守党では、家族観が崩壊するなどと言って、結婚制度や家庭のあり方に思い込んだ理想像を日本の伝統だとする決めつけがよく見られるが、江戸時代に遡ればそんな思い込みは吹っ飛んでしまい、何が伝統であるとするのかは極めて恣意的であるということに、気づいていない場合が多い。
 
古くから伝わるものがそのままでよいとは限らない。何が「古い」のかも定めようがない。キリスト教なら初代教会のやり方が古いのだし、新約聖書に反映されている姿がまさに「古い」のであり「伝統」でもあると見られうるが、それをいま文字通り同じに再現すべきだとする人は稀である。
 
教会音楽はオルガンに限る、などと口にする人は、たんに自分の経験を懐かしんでいるだけであろう。もちろんオルガンは、古代ギリシアに期限をもつ、古い楽器のひとつである。しかし教会に使われ始めたのは千年余り前のことであろう。しかし賛美の歌は、イエス自身も歌っているのだから、イエスがオルガンで歌ったとは考えられない。
 
思い込みは、他人が多く口にすることで増幅される。デマゴーグが噂話となって広まっていくことについては、時に残虐な事態をもたらす。関東大震災のときに、名高い人物が、その報道を用いて虐殺に加担していたという話も有名である。いまでいうなら、SNSがこうしたデマを広めるスピードも規模も桁違いの影響力をもつものであろう。新型コロナウイルスに関してはそのデマに、影響力の強い人も簡単に引っかかってデマを拡散さえしている。ワクチンについては、様々な事情の人がいることはもちろんその通りなのだが、事情のない人までもが何かしらデマまがいの情報に振り回されている様子も散見される。
 
自分で考えることを「哲学する」と表することがある。その意味では、「哲学する」ことの却って少ない世の中になっているように見受けられる。尤も、万人に「哲学する」ことが向いているかどうかはまた別である。だからなおさら、オピニオンリーダーたる立場にある人は、責任があるとも言える。名の通った「先生」の意見には、簡単に多くの「羊たち」が靡いていくのだ。人は、事象そのものについて注目し、判断しようとはしない。いくら私が事象そのものへ注意を促しても、それを顧みる人はいない。しかし名の知れた人や愛想のよい人の言葉には、いとも簡単に同調しておき、自分では物事を考えようとはしないものなのだ。それは、分かっている限りの人類の文化史の中では、ずっと続いている、ありふれたことなのである。今さら何が変わるというほどのものでもあるまい。ただ、現代の人間の力は、加速度的に世界を破滅させることが可能なようにすらなってきている。あなたもそれに加担しているのではないか。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります