【メッセージ】神の正義について
2021年8月22日
(エゼキエル18:21-32)
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)
「悪いやつめ。秩序を乱すとはもってのほか。正義に従え。おまえのような奴に、この正義の力を思い知らせてやる」
こうして「正義の味方」は悪者をやっつけます。そう、昔「正義の味方」という言葉がありました。この言葉の中の「の」とは一体何なのでしょうね。「正義が自分の味方だ」と、主格であるのでしょうか。いや、普通に考えて、「正義」というものが何か擬人的に存在して、自分はつねにそのサイドにいる者だ、という宣言なのでしょうか。どちらにしても、「自分は正しい」ということを宣言していることには違いありません。
2021年夏に公開された映画「竜とそばかすの姫」を観ました。もちろんネタバレはしませんが、その中の一つの印象的な流れの中に、この「正義の味方」が出てくるのですね。反抗的で孤独な竜に対して、「成敗」をしようとするわけです。映画では、それがとても嫌らしいように描かれていて、小さな子どもが観たとしても、むしろこの正義の味方が悪い奴であるように感じられたことでしょう。
R指定のないこの映画、小さい子どもが観たら、しかし混乱しなかったかと懸念します。なにしろ、悪者はやっつけなければなりません。アンパンマンのように、優しくやっつけるというのであっても、とにかく悪は滅びなければならないのですから、「俺は正義だ」と自慢するキャラクターは、小さなお友だちの心にどう響いたか、心配です。
ウルトラマンシリーズも、昔は比較的単純に、怪獣を退治するという図式でした。初代ウルトラマンの次に放映されたウルトラセブンは、人間の内の罪をえぐるような描き方をしたので、子どもたちには不評だったと言われ、次からは再び勧善懲悪に戻りました。しかし、いわゆる平成のウルトラマンの半ばにおいて(ウルトラマンコスモスあたりから)、ただ怪獣を殺せばよいという世界観が止揚されていったことは有名です。
「正義」と自ら名乗る者が正義なのではない。これは小さな子どもを混乱させかねません。しかし子どもは成長するにつれ、「自称正義」が怪しいものであることに、次第に気づいていきます。ただ、大人になっても、この幻想から抜けられない人は、けっこういるように私は思います。昔から「天誅」などと言って、自ら敵を成敗する者がよくいました。「クーデター」と呼ばれる者の中には、しばしばこのタイプが見られるような気もします。
そもそも「戦争」というものも、互いに「自分が正義だ」と主張する国どうしがぶつかったことにほかなりません。それぞれの「自称正義」のなれの果てが、虐殺であり、原爆なのでした。そしてしばしば、戦争に勝った方が、次の世代の「正義」となるのでした。
エゼキエル書を読んでいます。今回はその「正義」あるいは「正しさ」という言葉が頻回見られます。ただ、その正義についての神の見解が、単純ではなく、交錯しているところが、味わいたいポイントです。
エルサレムは主に背を向け、神を信じなかったことで、バビロンに捕囚されます。エゼキエルはその理由を、徹底的に、主への信仰の裏切りに求めます。しかしそこで、主からエゼキエルに降りてきた言葉を記録します。それは、エゼキエル書を特色づけるひとつの思想でした。それは「罪を犯した者、その人が死ぬ」(18:4)という単純な命題です。当たり前ではないか、というふうにお思いの人もいるかもしれませんが、イスラエルの律法とこれまでの歴史は、しばしば、ある者の罪が、その子孫に及ぶという形をとっていました。
『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である』と。(民数記14:18)
この、一種呪いのような神の言葉は、イスラエルの民に精神的圧迫を加えていたと思われます。しかし、私たちは旧約聖書を注意深く読めば、律法は必ずしも、罪を子孫に負わせるというふうに決めつけていたのではないことも知ります。
彼は国を掌握すると、父ヨアシュ王を殺害した家臣たちを殺した。しかし、モーセの書、律法に記されているところに従い、その子供たちは殺さなかった。主がこう命じておられるからである。「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。」(歴代誌下25:3-4;列王記下14:6もほぼ同じ)
これは、申命記24:16の規定でしたから、ある意味でバリバリの律法です。ただ、この申命記自体が、時代的にバビロン捕囚を経ての遅い時期であると考えられていること、それを引いた歴代誌も同様であることを考えると、時期的にはエゼキエルともつながってきます。イスラエルは、どうやら親の因果を子に報いさせる考えから、変化してきたように見受けられます。
そして、実は出エジプト記においても、子孫に問うと告げる一方で、神は祝福をも準備していたことを私たちは知ります。
あなたはそれら(=偶像)に向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト20:5-6)
祝福は永遠にというふうに見えます。罪については三代か四代くらいで留まるようなので少し安心しますが、たとえばイスラエルの宗教改革を行った王イエフに対して、主は直接このように言葉を与えています。
「あなたはわたしの目にかなう正しいことをよく成し遂げ、わたしの心にあった事をことごとくアハブの家に対して行った。それゆえあなたの子孫は四代にわたってイスラエルの王座につく。」(列王記下10:30)
祝福を与えていますが、四代止まりという例もあるのですね。それに比べると、ダビデ王に対しては主は特別に目をかけているように見えます。
しかし、主はその僕ダビデのゆえに、ユダを滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えずともし火を与えると約束されたからである。(列王記下8:19)
このことはさらに、申命記の中でもはっきり口に出している言葉があります。
あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。(申命記7:9-10)
おや。お気づきになりましたか。千代にわたる長い祝福がありましたが、それに対して、主を否定する者には「めいめいに服いて滅ぼされる」と言っています。これはエゼキエルの精神につながる考え方です。これもやはり、申命記が、時期的にずっと後の時代のものであることによるのかもしれません。エゼキエル書は、こうした微妙な思想の変化の中で捉えることにより、イスラエルの宗教思想の意味を読み取るテキストになりうるような記がします。
エゼキエルもまた、確かにそのような考えを主から受けたと言っていました。「それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う」(19)とこれを否定していますから、どうやらイスラエルの律法学者は、民数記にあったような、親の罪を子に問うということが律法の規定を重視していたように見られます。そしてエゼキエルは、これに対して、「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない」(20)言っています。
いくらそれまで神に従わず神に背を向けていた悪人であったとしても、主の「掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」(20)、とするのです。それは、神が悪人の死を喜ばないからであり、悪から善に立ち帰って生きるほうがよほど嬉しいからです。
やはり対比が見事です。その逆の例をもエゼキエルは指摘します。いくらそれまで正しいとされていた人であっても、不正を行い悪いことをするのなら、それまでの正義については主は全く気にすることなく、「彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ」(24)と言い渡すのです。それは、個人的な罪責を問うという、エゼキエルの思想、そして恐らく現代にまでつながるような考え方を意味していると思われます。
イスラエルの祭司や偉い立場の人々も黙ってはいなかったようです。いやいや、そんな考えは間違っている。ちゃんと律法に書いてある。親の罪を子は背負うのだ。そんなふうにエゼキエルに対しても論戦をぶつけてきていたのではないでしょうか。それでもエゼキエルは、怯まず、元々が正しいとか悪人だとかいうことに関係がない、と主張しています。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い起こした人がいるかもしれません。極悪人のカンダタが生涯にただ一度、蜘蛛を殺さなかったことから、お釈迦様は、極楽から地獄に蜘蛛の糸を垂らします。これで救済の可能性を拓いたのでしたが、この後はネタバレをしませんので、まだお読みでない方からいたらどうぞお楽しみに。カンダタは、一つの命を無意味に殺さなかったことから、命への道を与えられました。それまで散々人殺しを重ねていたのに、です。このモチーフは、ラーゲルレーヴが『キリスト伝説集』の中に類似の設定を以て小さな物語を書くなど、各地の民話などにも似たものが見られるそうですから、近代人の考えの中に、ひとつの共通な思いというものがあるのかもしれません。
18:28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。
これは慰めです。まことに私たちキリスト者は、この経験をしてきました。していないキリスト者はいません。「背き」というのは、悪しき行為の一つひとつを意味するというよりも、神と反対の方向を見ていることを指すと考えられます。私たちは、神の呼び声に応え、振り向いて、立ち帰ることで、神との関係を築くことができるようになります。それが救いということの要件です。そして、命を与えられたということで、「必ず生きる」のこの言葉が、ここで現実になることを知ります。
エゼキエルは、個人の道徳をここで説こうとしているのではないはずです。イスラエルの政治や宗教の中心にいる者たちが、罪からの立ち帰りを無意味化するような規定を人々に脅しのようにかけて制圧している図式を、徹底的に批判しているわけです。誰でも、神に反抗していたこれまでのことを改めて、神に向き直り、これから神に従い神の命ずる愛と幸福のための行為に勤しむならば、死なない、生きる、そう励ましています。これまでの背きを投げ捨てよ。ここから新しく生きるのだ。死ぬな。
18:32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル18:32)
もしこれが本当に神の本心であるとしたら、大きなニュースです。神は、人を滅ぼして喜ぶサディスティックな存在のように見られることがありますが、そうではないというのです。これは、聖書の中でも特によく知られる次のフレーズからも感じ取ることができるかもしれません。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
但し、ヨハネは必ずしも「全員が救われる」というふうに考えていないことは、この後の福音書を辿っていくと分かります。また、ペトロの手紙二にも次のような言葉があります。
ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(ペトロ二3:9)
これも、一見滅びる者がないと言っているかのように読めるかもしれませんが、神が時を遅らせて待っていることの表現であり、この手紙そのものが、厳しい裁きと滅びを告げていますから、聖書は、1カ所だけを開いて自分の都合に合わせて決めつけることには用心しなければなりません。
さて、ここでエゼキエルは、「正しい人」と「悪人」とを対比させていました。これはさしあたり見た目出そうであるとか、これまでにそうであったとか、そういうふうに読むしかありません。それぞれが、さあここからどうする、と言われたときに、不正を行ってしまえば、それまでの「正しい人」という看板は何の意味もなくなる、としているのであり、逆に「悪人」も、ここから正しく生き直せばもはや死ぬことはない、というように言っていたのでした。
こうなると、ややこしいというか、いったい何が正しいのであり、何が悪いのであるか、分からなくなります。たとえばイエスは、ファリサイ派や律法学者に対して、あれほど非難し、呪いをかけるほどの悪口をぶつけ続けました。そのとき当のファリサイ派や律法学者たちは、それをどのように聞いていたでしょうか。
「自分は正しい者だ」と考えていたほかに、可能性があるでしょうか。ひとは怒るとき、自分の正しさを確信しています。自分は正しくて、相手が悪い。この図式を思い描くことなしには、ひとは怒りません。自分のしていることが何か社会的に、また人道的に悪だという知識が合ったとしても、それでもこの場合は違う、と考えています。あるいは例外だと考えています。それでも自分が怒る「正当な理由」があるということを必ず信じています。
俺は確かに法を犯す。だが、そうしないと食っていけない。そうしないと誰それを助けられない。奴のほうがもっと悪いのだ。理由はいくらでも説明できます。後付けさえできます。「だって……」という表現は子どもっぽいかもしれませんが、いつでもどこでも、私たちは怒るとき、「だって……」の言葉を用意しています。
ひとは、自分を正当化する理由を常時考えています。違いますでしょうか。何をするにも、誰に対するときにも、街を歩くときにも、「自分は正しい」という鎧を着ていないでしょうか。それは先ほど申しましたように、社会的に悪とされることをしていたとしても、自分にはそれをする十分な理由がある、というカードを胸に忍ばせながら、やっているのです。
いったい、インターネット上で、この「自分は正しい」が、どれほど溢れているか、特にSNSを利用したり、そのような投稿や声を見ることがあったりする人には、よくお分かりのことでしょう。ここで一つひとつ挙げるようなことはやりますまい。やる必要もないでしょう。
要点は、誰も「自分が正しい」と考えているのであり、「自分が正しくない」などとは考えていない、ということです。あのファリサイ派もそうだし、私も、あなたも、そうです。しかしイエスは、ファリサイ派を徹底的に非難しました。
そのファリサイ派は、客観的に見て、正しくないことをしていたでしょうか。新約聖書をご存じの方は、今日この点を厳しく顧みてみてください。確かに、イエスはファリサイ派を非難しました。弱い者を虐げるとか、見下しているとか、威張っているとか、イエスの言葉をそのまま繰り返すようにして、ファリサイ派のよくない点を指摘することはできるでしょう。けれども、自分で自分を正しいと認めるということは責めないとして、ファリサイ派のしていたことは、文句なしに律法を守る、正しい生き方をしていたのではなかったでしょうか。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:20)
ファリサイ派や律法学者は、「義」だったのです。正義だったのです。正しいことをしていることを、イエス自身認めているのです。そう、その「正しい」という言葉の背景にある内容や現実について、イエスはある意味で当時の常識的な捉え方に対して異議を唱え、革命をもたらしたのです。ですから、そのイエスの革命の結果を受け継いでいる私たちからすれば、ファリサイ派たちの行為は非難する対象となるのですが、当時の道徳と法の理解の基準に従えば、彼らは正しかったのです。彼らは正しいことをしていたし、自分が正しい、というふうにも考えていた。ただイエスの愛や憐れみが、それとは別の視点から投げかけられたというに過ぎないのです。
こうして、私たちは再び最初の問いかけに戻ってきました。「悪いやつめ。秩序を乱すとはもってのほか。正義に従え。おまえのような奴に、この正義の力を思い知らせてやる」と、「正義の味方」が悪を滅ぼす図式。「竜とそばかすの姫」で、嫌みな「正義」を見せつけられたときには、「自分は正義だ」と主張することが「正しくない」とさすがに感じますが、しかし当の自分は、「自分が正しい」ところからは一歩も抜け出していないのであり、かの映画の中の「正義の味方」も、終始、自分こそが正しいと信じて疑っていなかったのでした。
私たちは、「自称正義」というものが、他人である時には気づくけれども、自分自身が「自称正義」をしているに過ぎないということには気づかない。この悲しい性質を持っています。だから、このエゼキエル書にあるような、錯綜した事態が起きてしまうのだと睨んでみましょう。
そうなると、ここにあるように、「正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ」(24)ということだらけにならないでしょうか。そうです。ここでエゼキエルに与えられた神の二つの対比、つまり「正しい人が正しくないことをする」と「悪人だが正しいことをする」という対比は、決して対等では無かったのです。著しくバランスを欠いた形で、圧倒的に前者、つまり「自分は正しいと思い込んでいる人が、ずばり正しくない見本なのである」ということのほうが大多数である、という認識をする必要があると考えます。
「だって……」と、すぐさま、また例外を考えた人がいたら、まさに自らそのことを証明しているようなものとなります。人間はどこまでも自分が可愛く、自分だけは違うというふうに考えたい者なのです。そしてだからこそ神は、そういう人間こそが罪を体現していると指摘しているのだと思います。このような人間の性というようなところから、逃れる術はないのでしょうか。どこまでも人間は、自分の罪から離れる機会を失ってしまっているのでしょうか。
ひとつの道があります。ここから救われるには、「私は悪人だ」から出発するほかない、そこに気づくことです。待てよ、キリストを信じたらもはや罪は赦されて、悪人だなどと呼ばれることがなくなるのではないか、とお思いの人がいるかもしれません。ある意味ではその通りです。しかし、信じたから「私は正しい」の枠の中にずっぽりと入り、しかもそのために神の折り紙付きで、自分こそ正しいが故にあいつこそ間違っている、との態度を振りまいている人が、実は多くないでしょう。SNSを垣間見ると、自称キリスト教徒が、そうした醜態を晒していることが分かります。自分のことは少しも顧みることなく、他人に暴言を吐き、誹謗中傷を繰り返す人がいます。それもえてして、牧師や執事経験者、また聖書に対する知識の深い人にそれが目立ちます。また、政府の悪口を書けば自分が正しい者であることを証明できるかのように勘違いしている投稿も、いくらでもあります。
新型コロナウイルス感染症が拡大しています。止めどなく、とも言えます。この中で教会は、世間で少し流行っていたころには、医療従事者のために、などと祈っていました。SNSでもそうでした。しかし、その声は世間の流行の終息とともに、教会関係者からも消えていきました。教会の祈りのリストにも、全く載らなくなりました。その上で、ワクチン接種が遅れると政府を非難し、感染者の自宅療養の方針が出されると、政府は命を軽視するのかと非難します。キリスト教会が、です。いったい、誰がワクチンを接種するのか、誰が感染者の治療をするのか、そのために医療現場が、従来の何倍の仕事を強いられているか、考えもしません。ワクチンが廃棄されるという報道に怒りをぶつけますが、この特殊なワクチンの保管と、6人という枠をつくるために、かなり厄介な技術を伴うバイアルの作成に、どれほどの神経を使い、業務に追われているか、考えたことがないのだと思われます。政府の方策が万全だとは申しませんが、現場はもう限界を超えて営んでおり、医療は傍からは見えないかもしれませんが、ある意味でもう崩壊しているが故に、方針が出されました。それに対して「正義」を口先でだけ教会や指導者は唱えますが、自分では何一つ重荷を負うことをしません。コロナ禍で苦しむ飲食店経営者や従事者、患者やその家族、医療従事者や保健所職員の方々のことなど、全く頭にはないような態度で、誰それは嘘つきだとか誰それは無責任だとか、安全なところから呟くことがしばしばです。そのうちの誰かを実際に助けようと動いている気配は全くありません。「私は悪人だ」という思いが消滅しているからです。これは、イエスの言葉のどこかで聞いたことがあることだと思います。敢えて申しませんが。
さて、私たちはやはり今は、エゼキエル書から神の言葉を聞くことに再び徹しましょう。そのことで、こうした偽預言者たちとは異なる、神の僕としての姿勢を与えられることを願いましょう。慰めと希望の言葉が唇から出ていくようになるために、神の言葉を受けることにしましょう。今日開かれた箇所から、心に残る言葉を戴きましょう。
私たちは、自分を悪人だと知るところにまで来ました。そうすれば、罪がもう行く手を阻むことはありません。その上で、神は私たちに支えとなる言葉を投げかけます。
18:31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
18:32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
あなたは死んではならない。神は誰の死をも望まないし、喜びはしないのだ。だから、立ち帰って、生きよ。これが慰めの命令でした。
「私は正しい」と言える存在があるとすれば、それは人間ではないでしょう。あるとすれば、神のみです。神の正義を信じるのが、キリスト者にほかなりません。神の正義を信頼することができるかどうか、それが、神を信じるということです。
とんでもない。この世界には不正義が溢れている。しかも「私は正義だ」と自称する者が如何に不純で誤っているか、ここまでも痛いほど見せつけられていたではありませんか。神に対して文句を言いたくなる人もいることでしょう。ええ、よいのです。「神よどうして」と問うことが不信仰なのではありません。なぜならそれは神の方を向いているからです。神に向き合うことなく、「自分が正しい」の思いにいつの間にか囚われていること、大切な中核がすり替えられたことに気づかず、神の方を見ることなく自分の正義だけで世界を構築していくこと、それが不信仰そのものなのです。それが、エゼキエルを通して、ここで糾弾されている考え方であり、誤った知識人たちなのです。
だから、「自分は悪人である」をもう一度根柢に据えませんか。そしてそのどん底からキリストが救ってくださったあの時に見た地平がもう一度見えるように、頭を垂れ、祈りませんか。その祈りが、誰のために祈るとよいのか、教えてくれるはずです。そして、そこから、キリストが声をかけてくれると思うのです。答えをくださると思うのです。「おまえは死んではならない」と、そして「生きよ」と。神の言葉は、現実になる力をもっています。「生きよ」という言葉を受け容れたならば、あなたは確実に「生きる」のです。