流されないために聖書を

2021年8月21日

流されたくない。自分の道を進みたい。若者でなくても、そんな願いを懐くことがあるだろう。いやいや、世の流れに乗ることこそ人生だよ、と嘯く大人もいることだろうが、そうでないタイプの人に聖書をお薦めする、という主旨の拙文である。
 
まず言いたいことは、いま止まっているようなことでも、一度何かが動き始めたら、大多数が一気にそちらに流れていくだろう、ということ。人々の考えが、Aという意見がいま強いとする。しかし、何らかのきっかけで、Aを全否定してBに移ることが懸念される、ということである。
 
それまでゴミなど置かれなかった場所でも、塀の上にひとつ空き缶が置かれたら、次々と空き缶が置かれていく現象。そのため、迷惑なゴミを放置せず、すぐさま片付けるべし。こうしたコツを話した人がいる。
 
多くの人は、自分が先頭となってあることを始める勇気はないものだ。ひとりで何かをしたとき、それが叩かれたときには全責任を自分が負うことになるからだ。しかし、誰か他人がそれをしていたら、それと同じことを平気でできるようになる。だって、あの人がそうしていたから。言い訳ができる。2,3人でもしていたら、もう「みんな」していたから、と言うようになる。
 
こうして、本当に「みんな」がするようになる。
 
声高に叫ぶ人の意見の陰に隠れていれば、自分は責任を負うことはない。なにしろ「みんな」そう言っている、という言い訳が立つ。もちろん、全員ではない。イスラエルのすべての民が受け容れた、というような聖書の表現と同じである。
 
エスカレーターで歩かないように、と駅は近年強くアピールするようになった。私もかつて歩いていたから、自分を正しく見せようとするつもりはない。ただ、そのうち次第に、歩くのは危険だと感じるようになった。そう感じている人は少なくなかっただろうと思う。だがこのように建前だけでも、エスカレーターは歩いてはならない、ということが常識化し始めていても、福岡では人は見事に左側に並ぶ。歩く人がいてはならないはずなのに、その人の道を塞ぐようなことは、敢えてしないことにしているのだと思う。
 
しかし、歩く人がいてはならないのであるなら、私は堂々と空いた右側に立つことにしている。世からすれば嫌な奴だろう。エスカレーターの重量バランスからしても、左側に人が並ぶのはよろしくないとも思うが、なんといっても、他の人を危険な目に遭わせることを防ぐのが目的である。後ろから舌打ちされたこともある。狭い間をすり抜けるように強引に歩いていく人や、わざとカバンをぶつけてくる人もいる。だが、時と共に、人はエスカレーターを歩かないようになってきた。最近は、簡単に抜けられるときにも、案外人は立ち止まっておとなしく乗るようになった。
 
だが、一人が歩き始めると、様相は変わる。それまで止まっていた人が、一人歩く者が出て来たとき、それに追随して歩き始めるのである。自分がまず歩くのはかなわないが、誰かが歩いていたら、言い訳ができるのである。「みんな」歩いているのだから。
 
こうして、誰かが歩いたとたんに、次々と歩いていく人が現れるのを見るたびに、私はこの世の中に対して恐怖を覚えるのだ。
 
戦争は悪だ。戦争をしてはならない。こんな声が世間には、さしあたり強い。被爆地での、腹の底から絞り出すような声もあれば、自分の正義を示すために挙げているような声もある。問題は後者である。ひとたび戦争になると、彼らはどう言い始めるのだろうか。「みんな」と同じようにすべきだ、とならないだろうか。
 
性的マイノリティが悪とされていて、法にも触れるような時代には、彼らを糾弾するのが正義だった。それが「みんな」がそれを認めるようになり、逆に問題視するような声を出すと、暴言として扱うようになった。キリスト教会までが、いまは多くそのマイノリティの味方をしている。彼らを罪に定めていたのは、キリスト教会だったはずである。いったい、悔い改めたのだろうか。いつの間にか「みんな」の流れに乗って、自らの正義を示すようにすり替わっていったような気がしてならない。だったら、また逆の風が吹いてきたら、弱い立場の人を痛めつけるようにならない保証はないのではないか。自らの確信するところから、その人のすることを「罪」と判断したら、もう無条件に悪だと裁くことを、現にやっているのだから。偶々世間に善と認められることに乗っかっているから、いかにも教会は良心の塊のような顔をしているけれども、逆に言えば、世間が悪と認めうるようなことについては、徹底的に悪だと叩いている。政府の悪口を言えば、自分が正義であるかのような錯覚は、誰しもが陥ってしまうのである。
 
本当のキリスト教は、違うだろう。世がどのようであっても、神との関係の中で問い、また主張する。それが信じるということである。人に流される、世に流される、それで自分を見失い、探す、そんな悩みがあるのは、若者の特権であったこともあるが、いまはそんな制限はないだろうと思う。確かなものを知りたい、動かされないような土台がほしい、そう願う人は、組織的な教会の顔色をうかがう必要はない。聖書に目を向け、神の声を聞くようにしよう。自分は弱いと思う人は、その弱さを抱いたまま、聖書に問いかけよう。そして、そこから語りかけられるものに耳を澄まそう。それが祈りとなる。祈ろう。
 
そのとき、自分の狭い器で理解できたことを真理だと思え、などと言っているのではない。自分の理解ではきっと足りないという思いであってよい。ただ、聖書はあなたに、力をくれる。弱さの中に、強さを知る。行き詰まった心が、開かれていく。望みが滅びていたところに、喜びの希望が生まれてくる。死にかけていた魂が、生き生きと輝き始める。そんな読み方ができたのなら、きっと大丈夫だ。



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