政治の悪口でなく医療崩壊の現実のために

2021年8月18日

医療が崩壊している。もちろん、大都市においてだが、中小都市でも、その分医療機関が少ないから、崩壊している可能性が高い。沖縄がそのよくない例だ。  
まだ崩壊していないじゃないか、そんなニュースはないし、とお思いの方は、間違っている。報道されたときには、もうどうしようもなく社会が壊れた時なのである。まだ懸命に、医療従事者や保健所職員が限界を超えて耐え忍んでいるだけのことである。
 
そこでもの申すのは、政治家を小馬鹿にしたり、安易に非難したりしている人々のことだ。
 
しつこく繰り返すが、他人を非難したところで、自分が正義になるわけではない。ただ、人は無意識のうちにでも、自分を正義と見なす心理がある。そこでまた、他人を非難することになるが、そのときしばしば、「その人を悪者にする声がなんらかの形で優勢であること」が、一番の問題である。むしろ、少数者として大勢に対して批判をすることが、望ましい場合が多い。そうでなく、なんとなくその声を乗っけていくことが正義のように見える、そうした声にどんどん同調していくところに、危険性が含まれると言っているのである。「いじめ」というものでもあるし、優勢に乗っかり、自分を隠すことで益々吠えるようになり、社会的に取り返しのつかないところにまでその声を正義の声として響かせることになるからである。かつて戦争を起こす時の国家が、ほぼそういう精神的情況に陥っていたのではないか、と推測する。
 
政治家を小馬鹿にする。一見筋の通った批判のように見えなくもないが、安全なところからまるで虎の陰から悪口を叫ぶ狐のように、自分は正義だという自負だけで、悪口を並べているというケースが少なからずある。
 
自宅療養を基本にするなど、国民を守れないのか。無責任じゃないか。医療を充実させろ。――そう、尤もに聞こえるような非難である。だが、ご存じないだけのことなのだ。そんな医療がもはやできないから、自宅療養しかもう道がないのだ。
 
知的に優れた若者と話をしているとき、もう非常事態宣言にも慣れた、というような言葉が聞かれた。政治に対して不信感しかもてないのである。これは私にはショックであったが、いまこうなっているのだ、と痛感した。
 
安易に政治家の悪口をSNSに発信している方々。とくにキリスト者と名乗っている方に申し上げる。この若者の不信は、あなたが生んだのだ。キリスト者であるならば、そのように言ってよい意味はお分かりだろうと思う。
 
あんな政治家の言うことなど聞かなくていい、と若者は、いい大人が口々に言っているのを聞いている。決して、大人が正しくて、ただ若者だけが、反抗して路上で飲んでいるのではない。大人が、政治への不信を若者に教え、なんだそういうものなのか、と思わせているのである。そして実際、そのいい大人が、政治不信の故に会食を繰り返しているのではないだろうか。
 
不信感は、社会の崩壊の大きな要因である。これは別の意味で私も強く最近感じているが、それはともかく、カントがあれほど嘘を決して認めようとしなかったのは、それが信頼関係を破壊するからだというひとつの哲学は、こういうところで生きてくるようである。
 
政治家に問題がないのではない。ただ、今はそれへの不信感を増すようなことをすべき時ではない。政治家に不満があるならば、次の選挙でなんとでもできるではないか。いまは「生きるか死ぬか」の場面なのである。自分の身の回りは大丈夫のようだ、との思いで、ずいぶんとお気楽にしている方が多いように見受けるが、いまこの瞬間にも、医療機関は崩壊寸前の堤を手で一晩中塞いでいる少年の塊であるし、疲弊した保健所職員たちが、まさに命がけで、法に基づいた命を救うための処遇をつもりだしてくれているのである。
 
これを知らないから、彼らへの祈りのひとつも聞かれず、今日もまた政治家の悪口を言い、自分は正義であるかのように振舞う。政治家の言うことなど聞く必要がない、と宣伝しており、そういう社会をつくっている。罪なことではないか。
 
福山雅治さんは、平日毎日ラジオのレギュラー番組をもっており、休日もまた別のラジオ番組がある。全部を聞いているわけではないが、聞いたときに毎度、その口から聞く言葉がある。「私たちのために働き続けている医療従事者の皆さん、エッセンシャルワーカーの皆さんに感謝します」と毎日繰り返しているのだ。これは大きなことである。もちろん、彼が原爆というものを背負っており、自然写真家として命を見つめていることと無関係ではないと私は感じるが、私はこれをひとつの「祈り」として受け止めたいし、キリスト教会が全く見失っている「祈り」をこんなにも世の中に広げているものとして感動している。
 
SNSで医療と社会を崩壊させることにせっせと務めるのをやめて、その代わりに祈りの声を挙げて戴きたい。映画「竜とそばかすの姫」で感動的なクライマックスの歌声は、世界中から歌声エキストラを集めたものだという。厚みのある響きはもちろんのこと、そこには全世界の人の願いが重なっていたというところに、さらに感動を呼ぶ意味がある。
 
但し、そうする前に、キリスト者であれば、することがあるはずである。キリスト者ならば知らない人はいないこと。その上で、人を助ける声と祈りを挙げてほしいと願う。



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