【メッセージ】アイドルに夢中
2021年8月8日
(エゼキエル8:1-18)
わたしが見ていると、人の有様のような姿があるではないか。その腰のように見えるところから下は火であり、腰から上は琥珀金の輝きのように光輝に満ちた有様をしていた。(エゼキエル8:2)
「アイドル」と聞いて、誰のことを思い浮かべますか。年代や好みが反映されそうですね。アンケートをとってみたい気がしますが、男性アイドルだと、御三家あたりから新御三家などと言っても、もう相当年配になりますでしょう。女性アイドルだと、80年代あたりのメンバーが出てくるでしょうか。その頃のアイドルが、いまかなり芸能界でも目立って活躍している一面があって、不思議な気がします。その頃画期的な出来事が遭って、「おニャン子クラブ」ができましたね。「モー娘。」などのハロプロ系も当然ありますが、「おニャン子クラブ」はなにせその後、同じ秋元康プロデュースで「AKB」をはじめ48や46などのグループを生み、いまなお席巻しています。この「AKB」グループは、「会いに行けるアイドル」という触れ込みが新鮮でした。それまでのアイドルが、どこか雲の上にいるのを見守るような感じがあったのを、握手会というコンセプトで、ずいぶん違ったイメージをアイドルなるものにもたせることに成功したとも言えるでしょうか。
いやはや、このアイドルだけで何時間でも話が盛り上がるかもしれませんね。誰にとっても、何か「アイドル」と呼べるような「スター」がいるのではないでしょうか。別に、高倉健でもいいし、原節子でもいいのです。吉永小百合などはいまなお映画の主演をこなしますし、松田聖子が来年還暦を迎えるなども、信じられない人がいるかもしれません。
私が最初に行った教会は、皆様が想像する普通の教会ではなく、かなり変わった団体だったのですが、そこの牧師の娘が、実は聖子ちゃんが好きなのに、その教団にいると「アイドルを好きになってはいけないの」と説明していたことを思い出します。世俗的なものに関わると、聖なるものでなくなる、というふうな教えなのです。そんなバカな、と仰る人もいるでしょうが、半世紀前のプロテスタント教会は概ね、そうでした。古い信仰の本を見ていると、そうした類いのことがたくさん書かれています。
しかし今でも、やや抵抗があるかもしれない理由があります。「アイドル」という言葉は英語に基づきますが、その意味が「偶像」である点が、教会からすると、引っかかるところなのかもしれません。崇拝される偶像となると、聖書からすれば全くけしからんということになります。今日はその「偶像」がテーマの箇所ですので、「アイドル」というドアから入ることにしました。
聖書の世界では、「偶像」はまさにけしからんことです。神は霊ですから、それを象ったものを拝むことになると、神でないものを神として信仰するということになるからです。これは、特に旧約聖書では徹底的に教育されます。幾度も幾度も、偶像問題がイスラエルにつきまとい、律法でもしつこく追及されています。ということは、それだけ偶像に心が流れていくということを意味しているとも言えるでしょう。先ほどの「アイドル」にもその傾向がありましたように。
偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ19:4)
あなたたちは偶像を造ってはならない。彫像、石柱、あるいは石像を国内に建てて、それを拝んではならない。わたしはあなたたちの神、主だからである。(レビ26:1)
使われている言葉として「偶像」が最初に登場するのは、レビ記でした。簡潔ですが、イスラエルの偶像への姿勢がよく規定されていると思います。そして意外なことですが、旧約聖書には、多くの「偶像」への言及がなされている中で、「偶像を拝んではならない」ふうな命令は、ここのほかは殆どないのです。たとえば、イスラエルの長老たちが主の御心を問うためにエゼキエルのもとに来たとき、エゼキエルは次のような返答をしています。
わたしはまた、彼らに言った。『おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である』と。(エゼキエル20:7)
新約聖書では、パウロが、偶像に供えられた肉に関してコリントの教会に詳しく書き送っています(コリント一8章)が、偶像そのものについて、それを礼拝してはいけないということも言っています。
わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。(コリント一10:14)
それから、ヨハネの手紙第一の終わりの部分では、永遠の命をずっと述べてきたかと思うと、突然のように次の言葉で結ばれます。
子たちよ、偶像を避けなさい。(ヨハネ一5:21)
いろいろ持ち出してきましたが、探してもこれくらいしか見当たらないのです。偶像を礼拝してはいけない、という命令に少しでも近いものを探したのですが、これくらいです。
しかし、ストーリーを語る際に「偶像」をどうしたこうしたという話はたくさんあります。そんな中で、お伽噺のような表現もあります。預言者サムエルのとき、ペリシテ人の逆襲で師匠の祭司エリが死んだのですが、その際神の箱がペリシテ人に奪われてしまいました。ペリシテ人は、意気揚々と十戒の板などが入った神の箱を自分たちのところに持ち帰ります。そして、自分たちの神の像、つまりイスラエルからすれば偶像なのですが、ダゴンの神像のある神殿に運び入れました。
5:2 ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。
5:3 翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。
5:4 その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。
5:5 そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。
5:6 主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。
さすがにペリシテ人の内輪の者が自分たちの神像を倒したり切り刻んだりはしないでしょうから、聖書は、これはイスラエルの神の業であると暗示しているのだと思われます。物語は、これに懲りてペリシテ人が、厄介なこの神の箱を自分たちの場所のあちこちに盥回しにすることになりますが、その都度災いが起こりましたので、ついに神の箱をイスラエルに返すこととなります。
カトリック教会が礼拝で用いる「旧約聖書続編」という部分があります。13ほどの文書が加えられた聖書が、「新共同訳聖書」と「聖書協会共同訳」とにおいては、日本聖書協会から販売されています。プロテスタント教会では礼拝には用いないので、信徒の方は殆どお買い求めにはならないだろうと思いますが、私は必ずこれの付いたものを求めます。西洋文化の歴史の中で、たとえば絵や音楽などの芸術作品の中には、この旧約聖書続編の中から題材を得ているものも少なくありませんし、文学作品を味わうにも、これらについて知っておかないと、意味が分からなくなる場合がいくらでもあるからです。また、イエスの言葉の中には、この旧約聖書続編の中にある文書から引用しているのではないかと思われるようなものもいろいろ見つかります。なんだ、この意味なのか、と教えられることもあります。当時聖書という形で編纂ができていたとは思えませんが、神の言葉として受け取られ扱われていたとなると、これはとても自然なことだと言えるでしょう。そしてこの旧約聖書続編はなんと言っても、面白い。知恵の言葉のほかにいくつもの物語がありますが、イスラエルの歴史を教えてくれるものもあれば、物語として純粋に面白いものもあります。
そのひとつに、「ベルと竜」と呼ばれる文書があります。話題の映画「竜とそばかすの姫」も、竜とベルが登場しますが、それとは残念ながら関係がありません。この「ベルと竜」は「ダニエル書補遺」と言われるまとまりの中にある3つの物語の1つです。さすがに全文引用することはできませんから、機会があればぜひ全文味わって戴きたいと思います。「ベル」と「竜」は別のお話ですが、特にその「ベル」というペルシアの偶像について、滑稽な話が載せられています。ダニエルがベル神を礼拝しないために王が咎めますと、ダニエルはそれは偶像で生きていないからだと答えます。王は、ベル神が毎日ごちそうを飲み食いしているのを知らないのかと責めますので、ダニエルは笑って、それを否定します。そこで、供えた大量の飲食物が翌日には消えるという現象のからくりを、ダニエルが見事に暴くという物語です。
こうした物語においては、偶像なるものが完全に揶揄されています。くだらない、というふうに扱われていて、ユダヤ人たちの自負が窺えます。
偶像についての辛辣な批判とくれば、イザヤ書を思い起こします。ねちねちと偶像なるもののくだらなさが皮肉により面白おかしく語られています。木を切ってきて像を造り神殿に置くが、その木は、燃料に使った残りのものだというのです。
残りの木で神を、自分のための偶像を造り
ひれ伏して拝み、祈って言う。
「お救いください、あなたはわたしの神」と。(イザヤ44:17)
さあ、今日のエゼキエルはというと、捕囚先の土地でのイスラエル人の居留地でしょうか、そこでユダの長老たちと共にいるときに、突然幻を見せられます。この幻については聖書をすでにお読み戴きました。ずいぶんと不思議なものをエゼキエルは見せられていましたが、いまはその要点だけをまとめた形で振り返ることに致しましょう。とにかくこのときエゼキエルは、目を背けたくなるような、偶像崇拝の姿を見せつけられることになります。
まず、エゼキエルは人のような姿を見ます。その人の力で、エゼキエルはエルサレムに運ばれます。そうして次々と見せられたのは、次の五つと見てよいと思われます。
1 北に面する内側の門の入り口・激怒を招く像
2 目を上げた北の方・激怒を招く像
3 庭の入り口・壁の穴を穿つと入り口。邪悪で忌まわしいことと長老たちの偶像崇拝
4 北に面した門の入り口・女たちとタンムズ神
5 神殿の中庭・聖所の入り口にいた太陽を拝む人
三つ目のものは少し込み入った描写がありますが、テクストをお読みくだされば殆どそれだけの事です。これらの記述を一つひとつお読みして、その意味を調べたり考えたりすることにも有意義な学びはあるだろうと思います。
もしそうすると、私たちはどんな気持ちになっているでしょうか。ここにある偶像については、「激怒を招く像」や「地を這うものと獣の憎むべき像」など「偶像」という言葉を使って表現しているのもありますが、後半では「タンムズ神」や「太陽」というように、拝んでいるものが具体的に記されています。バビロンの神でありましょうか、タンムズ神というものを拝むわけにはいきません。「太陽」というのはエジプトかギリシアを背景としているのでしょうか。そもそも長老たちが闇の中で偶像を拝むような事態はどうだろうかという気もしますが、ここで確認しておかなければならないのは、この幻がエルサレムを舞台としている、ということです。エゼキエルは幻の中に包まれているのかどうか知りませんが、エルサレムへと運ばれたのでした。これらはエルサレムにおける背信行為だったのです。かつてソロモンの名の下に栄えに栄えた選民イスラエルの都、エルサレム。そのソロモンにしてすでに国が傾く基礎ができてしまっていたことを含めて、信仰という点ではなんと空しいこととなった首都エルサレムではないでしょうか。
凡そ信じられないことだと思いませんか。なんと人間は脆くも偶像を拝むものなのでしょう。あるいは、旧約聖書を読む度に、イスラエルの民は本当にバカではないだろうか、という気がしてきませんか。列王の時代などは特に、その時の王次第で国民は簡単に偶像に流れていきます。神に愛され導かれたのを忘れるなんて、と私たちは非難したくなるかもしれないし、なんと不信仰で情けない人々なのだ、と軽蔑の眼差しさえ注ぐかもしれません。そんな気になりませんか。
その眼差しは、私たちの身の回りにも向くでしょう。キリスト教会の説教に、しばしばこのようなものがありました。――偶像礼拝はいけません。神社で手を合わせるのは偶像礼拝です。仏像のようにはっきりした偶像でなくても、神ならぬものを拝んでいるのです。拝んでいる先にある祠に収めているものは、しばしば石であったり、木であったりします。そんなものが神でしょうか。考えられません。木や石を拝んでいるなど、よくぞそんなことができるものです。石を信じていることなど、あり得ないのです。
年配の方は、この類の説教を聞いたことがおありだと思います。あるいは、いま聞いて「正にその通り」と膝を叩いた人がいたかもしれません。キリスト教は、偶像礼拝を嫌います。物を拝んでも、そんなものは神ではない、と言います。ただ、カトリック教会に磔刑像やマリア像があって、恰もそれを拝んでいるように見えることを気にする人がいるかもしれません。もちろんカトリックでもその像を拝んでいるはずがありません。その像の向こうにいる神に向けて祈ることしかあり得ないのです。
だとすると、神社の祠にある木や石、あるいは鏡でもよいのですが、そうした物そのものを、柏手を叩いて拝んでいるのだ、というのもどうやら怪しくなってきます。神社信仰の人の反応はもちろんそうです。石を拝むはずがないじゃありませんか。それを通して、見えない神に祈っているのですよ。そのように説明されたら、私たちがしばしば思い込んでいる「偶像礼拝」という非難が、肩透かしをくってしまいます。
仏像が木や石や金属でできている場合、その物質に向けて祈るということをしていれば、確かに偶像礼拝に違いないでしょう。けれども、そんなものは象徴に過ぎないから、見えない仏様に祈願しているのですよ、と説明されたら、それを「偶像礼拝」と呼ぶ理由はどこにあるのでしょう。とにかくキリスト教だけが真理であり、ありとあらゆる他の信仰を非難することが許されているのだ、などという特権を発動するのでしょうか。
私たちが「偶像礼拝」と呼ぶものについて、いま一度振り返ってみる必要があるような気がしてなりません。
そもそも「偶像」なるものがあるわけではないのです。そこにあるのは「像」です。しかしそれに向かって人間が、それを神の姿であると考えたり、拝む対象としたりしたとき、その像は「偶像」になります。つまり、私たちの側の態度によって、その物体は「偶像」と呼ばれるものに変わるのです。もちろん、真摯にそれを拝んでいる当人が、それを「偶像」と見なすのではありません。その様子を見て、それは神でもないのに、神であるかのように拝んでいる、と傍から見て考えた人が、それを「偶像」だと決めつけるだけです。ずいぶんと複雑な構造があるのですね。それ事態は偶像にはならず、それを崇拝する人も偶像だとは考えず、それを崇拝している人を見た時に、別の人がそれを偶像と呼ぶ、ということです。その意味で、「偶像」とは「偶像礼拝」と同じところのものを指している、とも考えられます。
こういうわけで、ここで「偶像」という言葉を使っているのは神と預言者エゼキエルの立場からのみであって、批判されているイスラエルの人々としては、そうは思っていないということになります。やっている当事者には、それが「偶像」だと分からないという構造があるのです。
それはたとえば、「いじめ」というものは、それをやっている本人にはその意識がない、ということと似ています。そして「罪」というものについても、当人にはその意識がない、ということになります。だから、その「罪」に気づいたとき、救いの一歩が始まります。その罪を赦されるためのイエス・キリストとの出会いが待ち受けていると言えるからです。
それで、「偶像」がどうして自分では気づかないか、その謎について考えるためのヒントとして、高校の教科書にも載っている、ともフランシス・ベーコンの主張に耳を傾けてみようと思います。
フランシス・ベーコンは、16世紀から17世紀にかけて活躍した、イギリス経験論の哲学者です。「知は力なり」の言葉を覚えておいでの方もいるでしょう。実験や観察のような経験を重視し、そこから法則を知るという方向で知識を得るべきだとしたのですが、しかし実験や観察によっても、人間には元来錯誤に陥りやすい要因があることを弁えていました。それが偏見や先入観を生むというのです。その要因を、ラテン語で「偶像」を意味する「イドラ」という語を用い、例示してみたのでした。この「イドラ」が英語読みで「アイドル」となったのです。
1 種族のイドラ
2 洞窟のイドラ
3 市場のイドラ
4 劇場のイドラ
簡単にこれらに触れておきましょう。人間という種族に免れない性質としての「種族のイドラ」は、錯覚をイメージして概ねよろしいかと思います。「洞窟のイドラ」は、井の中の蛙を想像してみましょう。その人の性格や性質、あるいは受けた教育や環境、また各自の人生経験により、自分の狭い視野からしか世界を見ることができません。個人的に偏見や思い込みをする事情というのがあるものです。
市場は、人間のコミュニケーションと交流がなされる場です。ベーコンは、おもに言葉を想定しているようです。言葉の使い方により生まれる偏見や、噂のようなものに動かされる様子も含んでいるのが「市場のイドラ」です。最後に「劇場のイドラ」は、誤った学説がありうることや、逆に劇場的な場から下りてくる権威のある説の前には無条件でそれを信頼してしまい、偏見となっていくことが考えられます。かつての教会が地動説を認めず、アリストテレスが重い物体ほど速く落ちるとしたことを真理としていたこともそれでしょうか。その教会の掲げた説をただ信じるのが当たり前だった時代が合ったわけです。
でも、教会の言うことを信じるのは当然だ、それが信仰だ、というふうに考えませんか。中世までのヨーロッパ社会では、そうだったかもしれません。なにせ文字が読める人自体が少ない。そして写本に基づく聖書は、教会にひとつあるかどうかのような貴重品。信者とされる住民も、学術的なラテン語の読める特別な教養のある司祭が語る聖書の話を聞くことでしか、聖書の内容を知る機会がなかったわけです。となると、その説に異を唱えるなどいうことは基本的にできないわけです。何か反論したとしても、聖書を読んだこともない者の主張が通るはずがありません。
しかし、グーテンベルクの印刷術がヨーロッパを変えました。もちろん当初は相当貴重だったには違いないのですが、それでも聖書というものが教会の外に出ました。一度堰を切った水は周囲を水浸しにするでしょう。ルターの自国語訳の聖書が人々に知られるようになると、聖書の様々な解釈が可能になっていきます。教会の権威の低下とどちらが先かどうかなどは問う必要もないくらいに、聖書のいろいろな理解が生まれて、キリスト教会が支配する世の中は、分裂していくことになります。
元に戻りましょう。ベーコンが挙げた四つの「イドラ」ですが、それぞれ、人間の本姓の問題、個人的な性格や経験の問題、言葉を見聞きすることからくる問題、そして権威に従ってしまう問題、こうしたふうに理解することもできます。人間は頑固なことに、こうしたことから一度思い込んだことは、もうそれだけで真理だと確信するようになり、自分が正しいと決めてしまうものです。このように言うと、思い当たる方もいるでしょう。私たちは、なんと頑ななのでしょう。
「頑な」といえば、出エジプト記のときの、イスラエルの民が思い出されます。
主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。(出エジプト32:9)
でもそれよりも、それに先だって、モーセたちをエジプトからなかなか出そうとしなかった、エジプトの王の方が「頑な」だと思うかもしれませんね。そのように語られる場面は出エジプト記にたくさんあるのですが、とりあえず一つ引用すると、たとえばこうです。
ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった。主がモーセを通して仰せになったとおりである。(出エジプト9:35)
「頑な」、つまり「頑固」というわけで、新改訳聖書では「うなじのこわい」というふうにも訳されていました。「こわい」は恐怖ではなくて、「強い」と書きますね。首を縦に振ることもないほどに固くなっているわけです。
クリスチャンとしては、このようなエジプトの王を、バカじゃないかという目で見ます。なんでモーセの不思議な業によってエジプトがめちゃくちゃになっていくのに、イスラエルの民を去らせることを拒むのか。その拙さがある意味で分かっているのにやめられない、そこに頑固さがあるのかもしれませんが、さて、私たちはファラオを見下すことができるのでしょうか。
地球環境が急速に悪化しています。少なくとも、将来的に非常にまずい事態になるという報告が多数寄せられています。未来の子孫に対する罪という、新たな概念まで生まれ、倫理的な観点からも環境の改善は必要だという理論が多くなっています。
けれども、私たちは環境破壊を止められません。ポリ袋程度の節約で環境保全やエネルギー問題に貢献しているつもりだというような安心感をもっているつもりでしょうか。枯渇することが懸念される有限な資源としての石油の事情を知っているのに、大量の石油消費を止めようとしないではありませんか。私たちは、あのファラオと、まるっきり同じなのではないでしょうか。エジプトにいなごを送り込むと言われて、王の家臣までもがたまらなくなって王に訴えます。
ファラオの家臣が王に進言した。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」(出エジプト10:7)
心ある思想家が、また環境問題のためにストライキをする高校生や若者たちが、環境問題を訴えます。「地球が滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」それでも、私たちは便利な生活を譲ろうとしません。一部の優越者が、大多数の貧困者を顧みず、贅沢を止めずに地球を滅ぼそうとしている、そんな見方をしたとき、私たちはファラオ以下であることに気づかされます。いえ、それまでそんなことには気づいていないという人がきっと多かっただろうと思います。自分では分からないのです。気づかないのです。何かが見えないようにしてしまっているのです。何かが偶像になっているのです。それは人間の本性のせいでしょうか。たんなる個人的な視野のせいでしょうか。言葉の問題でしょうか。何かの権威に利用されているからでしょうか。とにかく、私たちの認識と判断は、殆ど偶像を信じているだけではないでしょうか。神ならぬものを神として信じ込んでしまうというのは、恐らく私たちが考えていたよりも、もっと身近な、あるいは私たちがすでにその中に包まれているような、強い情況であったかもしれない、そう警戒しなければならないと思うのです。
時に、偶像は自分自身であるかもしれません。もし、キリスト者である故に自分は正しい、そんなふうに前提してしまっていたとしたら、この自身ですら偶像にします。自分には気づかないのです。木や石を拝むなんてバカだ、と見下している私たちこそ、自分を崇拝して拝んでいる、とんでもない偶像礼拝者であったかもしれないのです。このことに、気づくべきです。気づかなければ、救いがありません。
こんな私たち人間は、かなりどうしようもない存在です。エゼキエルは偶像にまみれた姿を見せられた後に、神からもう愛想を尽かされたかのように、厳しい結論を突きつけられます。
8:17 彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。
8:18 わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない。」
どうでしょうか。最初に聖書をお読みしたとき、これらの言葉は、完全に自分ではない他人や、他の宗教の人のように、イメージしていませんでしたか。それは今も同じですか。同じであれば、私のメッセージが狂っていただけで、間違っていたか、または、私のメッセージが無力であったか、そうしたものではないかと思います。今は違う見方をして戴きたいのです。この偶像礼拝者は、自分のことだ、と。
これで終われば、このメッセージには救いがありません。希望を投げかけておく義務が私にはあります。そうです。もう一度、イエス・キリストの十字架の前に出ましょう。こんな愚かな人間のために、イエスは救いの切り札としてこの世に来られたのです。そしてまさに私たちの、いえ私のこの手によって、その十字架につけられた方なのでした。どうしようもない罪の状態の私を、救うことができるのはこの方だけです。そのような信仰の基本、信仰の第一歩に、今日戻ってもよいと思うのです。キリストはそのような救いを今ももたらすように、十字架の姿を私たちに見せてくださっているのです。見えますか。惨めな自身を抱えながら十字架を見上げた、いつかの信仰に、戻ってもよいのです。いえ、戻らなければならないのです。