一人ひとりが考えることの意味
2021年8月5日
印刷術の発明は、文化を大きく変えた。精神文化に与えた変化は限りなく大きい。最初に印刷が試みられたのは聖書であると言われている。それはそれは力のこもった、見事な装丁のものであったらしく、高価なものに違いなかったが、それでも、写本をつくるよりは遙かに聖書の文章が知られるようになるだけの効果をもっていた。やがてコストダウンできるようになると、聖書そのものが広まるのは加速度的に速くなった。
さらにルターのように、自国語に訳すと、ラテン語が読めるという特権的な階級のみの秘密文書ではなくなり、一人ひとりが聖書の言葉に、自分の意志で触れることができるようになった。それまでは、教会で司祭などが話すものを聞くしかなかったのだ。
だからそれまでは、一定の権威の下に、言われるがままに信じるしかなかった。カトリックは教義的にも統一を建前としていたから、公会議に基づく理解が末端にまで行き渡っていたと概ね考えることができる。もちろん現場現場ではいろいろあったかもしれないが、その統率については、それなりにしっかりしていたのではないかと思われる。
それが、聖書の本文が巷に出て行くようになると、解釈の差というものが現れてくる。特にルネッサンスを経て、人間理性への賛歌が正当化される世情の中で、聖書の言葉が目の当たりに出てくると、聞いていた意味とは違う野ではないか、私はこう思う、という声が出てくることは必定であった。特にプロテスタントの登場は、聖書のみ、という合言葉が、万人祭司の考えと合体すると、一人ひとりが聖書を解釈する可能性を是とする世界を作り出すことになった。だが、それはやがて、諸説混交の情況を生み、意見がまとまないばかりか、分断された世界を作り出してしまったというようにも見える。キリスト教の思想だけがそれを作り出したというのもまた傲慢だろうけれども、少なからず影響を与えたことは間違いない。
だったら、やはり統一的な信仰の基準があったほうがよかったのだろうか。個人個人が思想をもつように、信仰をもそれぞれが独自に出すということを避けるべきだったのだろうか。いくらそんなことを考えてみても、世界はもう動き出してしまった。世界の歴史はもうこのようにセットされてしまった。現実がこのようなものとして、現にここにあるようになってしまった。現にある歴史は、必然のもとに否定できない唯一の現実となっている。
人間がいくら知恵を誇り、世界の原理を究明したなどと豪語してみても、人間同士の争いをなくすことはできない。そして、自然を支配したかのように思いなしているとしても、たとえば地震や津波、あるいは火山の爆発といった自然災害により、街が一日で滅び、国がやがて滅びるということが実際にあった。他方また、疫病も人々をいわば不条理に死に追い込んだ。
人は知恵を寄せた。大切なのは命だ、と叫んだ。それは「いじめ」により死者が現れたときにも、必ず繰り返される報道である。学校現場では命の教育をすると宣言し、社会でも命こそ宝である、とその時には合唱が起こる。被害者の家族は、もう二度とこんな事件が起きないように、と祈りのような言葉を発するが、起きないという結果には決してならない。
まるで政府が、飲食店を目の敵にしていじめているようにも見えるのは、錯覚だろうか。何か悪者がいなければ人々は納得しないため、スケープゴートとされたかのような、一般の飲食店。風評被害は、自然現象により起こる災害ではない。風評は、みんなで立てれば怖くない。
そんな中、ワクチン信仰がいま最も信徒数を増やしている新興宗教である。この教団は、まさに「見えない教会」を形成している。信仰はえてして、その教義を十分調べたり研究したりしないままにもつものだ。それが直ちに悪いとは言わないが、教義や信仰箇条を聖典から固めておく過程を全く欠いていると、自分の信じ方の思い込みによって、どんどん元来の信仰からずれていくことがしばしばある。聖書を読まないで自分のイメージだけで聖書の思想を知り尽くしたかのようにふるまう愚かな人もいるが、その人は、誤った信仰の考えかたを人々にばらまくようになることからしても、甚だ迷惑である。
ワクチンについて何も知らないままにただ信仰している熱狂主義がいま世間を取り巻いている。これは実に怖い。様々な理由でワクチン接種に反対する考えをもつ人がいる。しかしこうした人を「黙らせろ」「こんな奴はバカだ」などと、狂信は過激になってもいく。これは自称キリスト教徒が実際に言っていることである。
知識はいまは公開されているので、容易に学ぶことができる。ワクチン信仰の適切な教義は知って戴くとよい。Q&Aでもいい。免疫のしくみと、今回の新型コロナウイルスのためのワクチンのしくみを知らないと、デマに動かされてしまいかねない。聖書も、各人が手にすることがなかった時代には、偉い人の意見に庶民は従うしかなかった。
いろいろなことに薄っぺらく触れてきた。しかしそれぞれの問題は、深めなければならないことばかりだと思う。人間は、いかに簡単に、何かを信じてしまうものか、ということへの警鐘であった。ワクチンに限らず、声高に叫ぶ声に、あるいは半ば暴力的な意見に、いとも簡単に同調してしまうのが、私たちのもつ危険性だ。それは責任は他人にあると思い込んでしまいがちな状態であるが、同調した以上、傍観しているような立場の者にも重大な責任が伴う。
「目を覚ましていなさい」というのは、こうしたことをも懸念する警告であると理解したい。それと同時に、聖書のここが信じられない、とお悩みの方も、その慎重さは非常に大切な思案であると思う、そのようにエールとさせて戴きたい。