感染しても自宅療養を……
2021年8月5日
ファラオの家臣が王に進言した。
「……エジプトが滅びかかっているのが、
まだお分かりになりませんか。」(出エジプト10:7)
正義を思う心、惻隠の情からだということは分かる。だが、感染しても自宅療養を、という方針を出した政府に対して、ただ一方的な非難しかできないというのは、あまりに現場を知らなさすぎる。
医療現場と保健業務は、すべてとは言わないが、一定の箇所で確実に、崩壊している。ファラオが、エジプトの崩壊に気づいていなかったように、自らの正義を確信する信仰者は、この医療現場を知らない。もはや自宅待機のほかは、ありえない現場が大都市部などを中心に、いくらでもあるのだ。田舎町の小さな医院でも、もう屋外テントはごった返している。冬のテントも寒くてたまらなかったが、夏のテントが暑くて酷いという現実に改めて襲われたまま、医療従事者は、業務が何倍にも膨れ上がったままに連日働いている。メンタル面まで考えると、すでに限界を超えていると言うべきだろう。こういう中へ、急拡大した感染者を招き入れる余裕など、全くないのである。そのためまた、感染症とは関係のない重病患者、また事故等による傷病者も、入る病院がない、あるいは治療ができない、そうした有様である。こうした方々のためにも、祈ることしかできないが、神の助けをいつも求めているばかりである。
なお、これをオリンピックのせいにしたがる人もいる。オリンピックの現場は相当頑張っているとしか言いようがない。少なくともオリンピック現場が感染拡大の要因になっているというデータは指摘しづらいのではないか。それでも、オリンピックのせいで人々の気が緩んだ、などとどうしてもオリンピックが憎いと主張するのは、恰も男性による性犯罪の原因を女性になすりつけるような発想をしていないか、省みる必要があるのではないだろうか。
ワクチンは2回目ではなお抑えられないと考え始めた国もあるようだ。いずれ世界的に、さらに接種を重ねていく動きになっていくだろう。さしあたり接種された現ワクチンにより、重症化がいくらかでも防げているとすると、効果がないわけではないと言えそうだが、今後どうなるか分からない。亡くなる方が減少したかのようにも一時見えたにしても、予断を許さない。
なんだかんだ言っても、病院は結局なんとかしてくれる。こんな都市伝説が安易に信じられているのかもしれない。それは、もうない。甘えてはいられない情況になってしまったのだ。要らないから、と保健所を減らしたり、病院も淘汰されてよいと競争させたりしてきたことも、いまとなってはこの逼迫と崩壊の見事な原因となっているのだが、そのことを今とやかく言っている暇はない。現場は、生きるか死ぬかなのだ。
確かに、不安を煽ることばかり言うのもよろしくない。だが、こういう不安の時だからこそ、自らの正義を振りまこうとはするものの、実のところ誰かの魂や命を助ける動きを一向にしないような教会であってよいはずがない。教会の予算や、信徒の信仰の保持は、もちろん疎かにしてはならないことだろう。だが、もはや医療従事者や保健業務その他に携わる人たちやその機関のための祈りも忘れてしまった教会や教会関係者は、いったい何のためにこの世に置かれているのか、私は理解できない。それは本当にキリストの体なのだろうか。一部の国や地域を除いては、迫害の嵐の中で、隠れて怯えていた時代でもないだろうに、特にこの日本ではそうだろうに、この生命と生活の危機の中で、聖書が人を生かすのだということがもっと言えるのではないか。そして、生活と、時に生命を擲って職務を続ける医療従事者などのために、祈り、またその負担を増さないような愛ある行動をとることから始めるというのが、教会の道ではないのだろうか。それと正反対の道ではなく。