竜とそばかすの姫
2021年7月30日
映画「竜とそばかすの姫」を見た。有名になった作品への奇妙な称賛と、その逆のこきおろしなどに関わるのはごめんなので、制作者には失礼かもしれないが、非常に個人的な視点からのみ、少し触れる。「少し」というのは、いわゆるネタバレを起こしてはいけないということを意味する。
ヒロインの、バーチャル空間での名は「ベル」である。これで「ベルと竜」が私の頭に思い浮かばないはずがない。ヒロインの名を知ったときに、私が最初に思ったのがそれである。旧約聖書続編の、ダニエル書補遺は昔から芸術家にインスピレーションを与え続けてきたが、「ベルと竜」は、どこか戯画的でもあり、「スザンナと長老たち」よりは絵画にはなりにくかったかもしれない。そのあらすじはここではご紹介しないので、ぜひ本文をお読み戴きたい。なんとも愉快な、どこかスッキリするような、「面白い」お話である。
さて、「竜とそばかすの姫」は、どうもその「ベルと竜」とは関係がないようだ。むしろ「美女と野獣」のオマージュであることは、明らかにされているから言ってよいだろう。設定から構図から、それを意識していることは、物語をご存じの方には言うまでもないことだろう。「ベル」はフランス語で「美しい」意味をもち、主人公の日本名とリンクしてくる。
話の筋や展開に触れずに、観た人にだけしか通じない書き方をしてしまうかもしれないことをお許しください。
いろいろ考えさせられることがあった。必ずしもただ一つのテーマというだけではなく、本筋のテーマに加えて、それに関する多彩な側面が描かれていたのではないかと思う。たとえば「正義」とは何か。物語ではそれのいやらしさが、誰にでも分かる形でしつこく表されていた。とくに、子どもたちの声を封じる「正義」、そしてその正義の根拠となる「ルール」というものが、いったい何であるのかを考えさせられるように思えた。それに対する「美」というものだが、この「美」は審美的なものに限らず、心の美しさというところを意味するのであろうが、「善」という領域と重なって現れるものであったのではないかとも思われた。
それからやはり「心の傷」という問題は大きかった。主人公や竜のもつ傷は、どうすれば癒やされるのか。何かしら問題が解決されるということによるのではない。ここから前向きになれるのかどうか、そのために何が必要なのか、それは人それぞれ答えが違うのだろうけれど、その幾つかの可能性を示すことはできたのではないだろうか。
「信頼」ということについても考えさせられる。心を開かない人間のほうが、世間的には責められることだろう。何を考えているか分からないということで、気味悪がられるのが当然である。しかし、心を開かないで楽しんでいるはずがない。目の前にいるその相手を、信頼できないから、そうするしかないのだ。
そして私にとりきつかったのは、「助ける」という連呼だった。これはかなりくどく繰り返された。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(ヨハネ一3:18)という聖書の言葉は、キリスト者の心に深く刺さっているはずである。だが、「助ける」ということが、口先だけのものだということは、当事者だからこそ指摘できるはずのことなのであるが、それが現実には伝わらない。そして善人気取りの方が、自分たちは助けているのだ、と自己満足しているというのが、世界の「助ける」構図となっている。「共に生きる」とか「寄り添う」とかいうスローガンに酔い痴れ、自分たちは善いことをしている、と自認するだけとなってしまうのだ。私はだから安易にそのような言葉を使わない主義にしているが、だからといって、この批判を免れているわけではないと常々思っている。それがスクリーンから突きつけられると、苦しかった。
ネット上の仮想空間が舞台となる。だから、安全なところにいながら目立つ他者を攻撃する無数の声というものも、様々な場面で印象的だった。自ら嘘をまとい、しばしば「正義」の一員として、特定の者を排除したり、傷つける言葉の刃を振り回している様子が何度も描かれていたが、これはもはや仮想ではなく、日々の現実そのものであったのが、なんだか恐ろしかった。
ほかにも、自己犠牲とは何か、支えるというのはどういうことか、注目点はたくさんあった。それぞれのキャラクターにおいて、考察点があるのだろう。誰の身になって観るかも、様々あって面白いのではないだろうか。
だが、上に挙げたいくつかの点を私がここで取り上げた理由は、もう読者はお分かりのことではないかと思われる。これらは、「キリスト教会」が担う働きであり、期待される分野についての概念であるということである。そして、「キリスト教会」は、(その殆どにおいて)これらのまるで反対を現実にやっているのではないかとということである。ここは、胸に手を当ててよくお考え戴きたい。
それはもちろん、私のことでもある。だが、お読みのキリスト者の、あなたのことでもある。
最後に、本作品がいつから制作され始めたのか知らないが、3年に一作を提供している細田守監督とスタジオ地図からすると、一年前からということはあり得ないだろう。何が言いたいかと言うと、このコロナ禍だからこそ、のテーマや描き方もあったように見受けられたということだ。もしかすると製作途中で、それを含めて考えたり、どこかで方向性を変えたりしたのかもしれない。離れた人に会いたい気持ちが切ないほど伝わってくるもので、個人的にも心の琴線に触れるものがあった。もちろん、それは監督自身が母親を亡くしたことの思いが盛り込まれているのは確かなのだろうが、新型コロナウイルスの力の下で動けない私たちが、自分たち本位の正義を振りかざす一方、人を信頼することから益々遠ざかり、また誰かを助けるなどと口先だけでカッコいいことを言いながらも、実は逆効果になることを平気でやるエゴを露わにするなどを日常としてしまっていることと、つながるような捉え方をしてもよいのではないか、と私は考えていた。