オリンピック開会式

2021年7月24日

見てしまった。概ね見ようとは思っていたが、最後までずっと見る予定ではなかったのに。
 
賛否両論あるだろうし、医療現場の厳しさを思うと、何もないほうがよかったとも思う。しかし、反対者も注意しなければならない。いま感染者が増えているのは、オリンピック関係によるものではないということに。感染拡大はオリンピックのせいだ、などと言うのは明らかにおかしい。この連休に人が動いているのは、そのせいではないはずだ。こうした人の動きは、これまでのことを思うと異常なほどだった。
 
政府がちゃんとやらないから増えるんだよ、というような声は、私にはわがままとしか聞こえないことがある。残念だが、新規感染者の人数は来週後半にはぐっと増えると予想される。医療崩壊などと言われても実際崩壊していないじゃないか、という甘えも強く感じる。現実にはある意味で崩壊しているのだが、それが本当に目に見えて現れたら、もう収集がつかなくなる。実際にそうならないと、分からないのだろう。
 
そのことはこれ以上とやかく言うまい。問題は開会式のことだ。評論家ではないし、訳知りということでもない。特別な肩入れをしているとも、むやみに反抗しているとも違う立場は、双方から非難を受けるかもしれない。それでも思うことはある。
 
恐らくアートに関心のない方には、何を遊んでいるのかとしか見えなかっただろう。巨額の金と手間暇をかければできるアートというのは、激しく贅沢なことだが、とにかくここまでできるのだというアートの世界を見せてもらった。毎週「日曜美術館」を見るようになって、素人ながらも少しアートを見る目を養ってきたから、美感的想像力は少しは働くようになってきたのだ。
 
それほど金をかけていない場面においてだが、エッセンシャルワーカーや医療従事者へのリスペクトを随所で感じた。また、被災者への思いも伝わってきた。アスリートの苦労を自分のこととして感じ取る委員長の感極まったスピーチは、立場上まずいだろうとは思ったが、感情をもつ人間として、私は受け容れた。もちろん、情にほだされるという意味ではない。また、始まったからには応援しよう、というような考えでもない。むしろそこには、「仕方がない」ふうな、引きずられるものを覚えて危険だとさえ思う。それは逆に言えば、それまでオリンピックに反対だと良い、揶揄さえしていた人が、いざ始まるともう声を発しなくなるのと同じことでもある。反対の主張をもつならば、延々と反対の声を挙げ、その根拠を世に示せばよいのであるが、そんなことはしない。となると、長いものに巻かれやすい精神を暴露してしまっているとも言える。これが実は一番危ないタイプであるが、見る限り、キリスト者にかなりいる。私は、狡いかもしれないが、反対だとか賛成だとか、一面的な結論を出したことはなかった。今にしてもそのどちらだと問われると困るのだが、少なくとも開会式で見せてもらったそのつながろうというそのスピリットや姿勢、そして文字通り懸命な人たちのためのリスペクトは受け容れたのだ。
 
肌の色が違うことで、同じような立場の人が差別を受けて命を奪われることに抗議を表明できる、また心の扱いのために自分の考えをはっきり言うことのできたアスリートが聖火のアンカーを務めたこと。そこへつないだ人々が、被災という疵を背負って生まれた子どもたち、身体機能の違いや不自由を覚える人であったことも、オリンピックのモットーに付け加えた「together」に沿うものだったと思う。
 
そして医療従事者が聖火をつないだ。コロナ禍による多大な影響と犠牲者への黙祷などを含めた異例の開会式であったが、医師と看護師が聖火をもつ意義というものは、世界への強いアピールにもなったはずだ。医療従事者へのリスペクトが熱く伝わってきた。
 
こういうと、そう思わせるのが政治の魂胆であって、医療従事者を利用して自分たちを正当化しているだけだから騙されるな、などと言う人が必ず現れる。どうぞご自由に考えてもらったらいい。ただ、日本の街の混雑は呆れる程度で報道するが、選手団の入場を密だと非難する姿勢には、よそ者を受け容れないこの国の精神的背景を見るような気がして悲しくなる。旅人を受け容れることを旨とする中東文化とは対局にあり、自分から遠い立場の人間は信用できないのではないか。感染対策をとる飲食店を虐げる制度に問題を覚えるならば、もっと別の発想があってもよいような気がする。
 
世の終わりには「愛が冷える」とキリストは断言している。何も政治家の言いなりになろうとは思わない。だが医療従事者のために祈ることを揶揄するような人の言いなりには、絶対になろうとは思わない。とくに犠牲を払う人々のための祈りや声をもつことなしに、自分は安全なところにいながらオリンピックを否定することで自分は正義だと宣伝したい、教会関係者がいるとしたら、私はその人を信用することはない。
 
祈るのは教会の特権だと勘違いしているキリスト教会がある。だが私は知っている。多くの教会から、医療従事者のための祈りが忘れ去られていることを。教会から命がなくなっているのだ。まだ冷えるくらいのほうがよかった。
 
巨額を投じた催しではあるが、それが訴えていることが世界にアピールされたら、その額も受け容れたいと思う。伝えているものは、私たちが受け止めて、私たちがまた発していくべきものなのだと考える。その意味では、聖火リレーは終わったのではなく、私たち一人ひとりにまたトーチが渡されたのだと理解したい。


※字幕の内容は知らないけれども、手話通訳が画面になかったのは、なんとかならなかったかな、とは思っています。



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