命の説教論
2021年7月18日
説教論が時折出版されている。売れるのだろうかと案じるが、キリスト教会で説教をするための大切なアドバイスだ。実のところ、説教により教会かが建ちもすれば倒れもする、という声もあるように、説教は礼拝の核心であり、また生命線であるとも言える。
それはプロテスタント教会には顕著である。聖書主義である立場からして、その礼拝の中心は説教にあると考えられている場合が多いからだ。カトリックでも、近年良い説教がなされている。そういう原稿や内容も本になっているし、あるいは動画などで公開されている場合もあるので、触れる機会があればプロテスタントの人も覗いてみるとよいだろう。
説教とは、という質問は、人生とは、と訊くようなものでもあるので、いろいろなタイプの説教論があるだろうと思う。語る者にとり、何よりそれは必要である。親切なものは、神学校の授業の内容なのだろうか、一週間の過ごし方として、資料集めや黙想の必要など、具体的なノウハウを教えてくれるものがある。初心者がまず欲しいのはそういうものであるだろう。
もう少しレベルが上がると、説教の心構えを改めて教えるものがある。少し話し慣れると忘れてしまいそうな、あるいは実際に語り始めて初めて気づくような事柄が鋭く指摘されている。あるいは著者が神学者である場合、その神学の奥義のような部分を踏まえた作品のような説教論もある。波長が合わないと入り込めない場合があるかもしれないが、ともかく奥が深いと唸るようなことも多い。もうスポルジョンは古いし時代に合わないかもしれないが、どうしてどうして、私は大いに学べると信頼している。ボンヘッファーやボーレン、バルトにしても、教えられることばかりで、どうのこうのと言える立場ではない。
この辺りのものは、信仰生活のためにも役立つことがあり、語りはしない信徒が読んでもためになることがある。私はむしろ、読む機会があったら読んだほうがよいと思う。語る者の労苦も分かるし、どのように聞けばよいのか、に気づかされることもある。語るノウハウでない故に、聞く側にとっても意義深いものとなりうるのだ。
日本における説教という点では、やはり「説教塾」の挙げている声は、どうしても知っておきたいものである。加藤常昭氏の支配下にあるような集まりではあるし、当初はどうしてもドイツ系の説教論が中心をなしていたと思うが、次の世代が率いるような形になってからは、アメリカ系の説教、たとえば帰納的な説教というものの良さが強調されている。リシャーやクラドックの本はなかなか入手できないものもあり、もっと市場に出ればと願っている。また、その塾生の説教が集められて書物になっているというのも、頭でっかちにならずにとてもよい。
その他、古今東西の説教が、けっこうなハードカバーの本となって出ていることがある。海外のもの、しかも時代を異とする説教は、ふだん馴染んでいるものとはだいぶ違う印象があるが、多くのことを学ぶことができ、何よりも信仰の先輩たちが、そうした説教で命を受けていたということを思うと、背筋がピンと張る。先輩方が受験した大学の過去問を目の前にするような緊張感が走るものである。
キリスト教系の雑誌の特集にもなることがある。単行本としても、説教がテーマとなっているものもある。説教には、テクストをどう説き明かすかという観点と、説教者がいまここで何を伝えるかという解釈をする観点と、ジレンマがあるとも言われる。現実に適用できるように語れば、元来のテクストの言おうとしていることを曲げてしまう虞がある。逆に、テクストに忠実に研究成果を説き明かしただけでは、それがいまの私たちにどう関係するか、それが見えてこない。お勉強会でした、で終わりとなる。
その問題を解決しようともがくのは、誠実な姿勢だと思うし、それはそれで尊いものである。だが、そこに終始している議論は、どうやら大事なものを忘れているような気がしてならない。説教が、語るもののみにより構成されるという思い込みがそこにあるのではないか。会衆、つまり聞く者と共につくられていくのが説教ではないのか、ということである。
つまり、それは礼拝の核心だと言った。礼拝はもちろん、神を神として向き合うことである。礼拝のプログラムは、神からのものと、人からのものとが交互に繰り返される構成になっていると言われる。だから説教もまた、神からのものとなるべきであるし、たとえば神の言葉が出来事になるものだ、とも言われる。そのために、語る者の言葉が極めて重要になるのであり、それ故にどう語るか、何を語るか、そうしたことに神経質になるのも、もちろん分かる。しかし、そもそもその語ることですら、自分の持ち原稿を一方的に語るのとは違うのである。聞く人々と共に、言葉は生きて働くのである。
会衆を無視して話すことは、ありえない。生徒の顔を見ずに語り続ける授業が考えられないのと同様である。会衆の反応に、用意した原稿の言葉を替える、言い方を工夫する、繰り返し説明する、そうした臨機応変の話し方を、しない人はいないであろう。だとすると、それはもうすでに、聞く者とともに、説教がつくられているということの証左である。語る者が自分本位に決めたことだけを語っているのではないのである。
語る者が任意に語ることを切り分けているのではない。聞く者と共に、創造されていくのが説教なのである。新しい歌を主に向かって歌うことであり、そこにあるのは新しい創造なのである。説教論の中には、このことを弁えているものも、現実にある。が、残念ながら多くのものが、この視点を欠いている。教師の授業ガイドが、語るほうの都合だけで一方的に書かれてあることがあるが、それだと現場で役立たないことは、経験者はお分かりだろう。マニュアル通りに事は運ばない。思惑通りに進むものではない。しかし、生徒の反応を踏まえて予定が変化したところで、最後には語る教師が予想もしなかったような実りを経験して授業が終わったとき、そこに本当に生きた授業があった、と感動することはあるだろう。
そこには、生徒を生かすものがあったし、語る者をも生かすものがあったということになる。そう、説教もまた、聞く者を生かすものであるはずだし、語る者をも生かすものであるはずなのである。聖書の言葉が命をもたらすもの、人を生かすものであるというのは、礼拝という場面においては、そのような形で現実となるものなのではないだろうか。
礼拝説教は、聞く人の罪をも指摘する。そして、そこに命を与える神あるいはイエス・キリストを共に知る。そのようにして、礼拝説教は、人を生かす。思い思いに聖書を読んでいてもなかなか気づかされないような、か細い声を聞く耳をもつ場面が構成され、一人ひとりがその経験をする。その結果、また一週間、世知辛く労苦に満ちた世での生活を耐えられる力を受け、歩み出す勇気を与えられる。そのとき、神の言葉がひとつの現実になる、つまり神の言葉が真に神の言葉であったことが証しされる。
礼拝で語られる言葉は、いのちのことばであるはずである。