語る仕事の基礎

2021年7月14日

経験のない先生(小中学校の教師)のひとつの特徴は、子どもたちのほうを見ていない点にある。
 
確かに、自分がどのように教えるとよいのか、そこにまずは不安がある。どう教えたら善いのか、そのための準備がまず気になるはずである。そして教職課程でも、授業計画でも、またそうしたアドバイスを伝える本や雑誌でも、どう教えればよいのか、そこに主眼がある。
 
導入を考え、展開を構成し、結論を印象づける。どのように話せばその演目ができるかどうか、それがまず大変であることは、よく理解できる。
 
だが、それで終始するのが、まさに初心者であること暴露する。子どもたちは、新しい先生に興味津々であるから、きっとよく聞くだろう。先生の方を見ている。先生は、子どもたちの視線を感じる。ああ、こんなにも子どもたちは自分の授業を真剣に聞いてくれるのか、うれしい、そんな感動すら覚えるかもしれない。
 
だが、様子見は最初の方だけである。どんな先生だか分かってきたら、子どもたちの関心は、授業の内容そのものに向かう。そして、この先生に対して、何人かの子どもを除いては、授業が分からない、というふうに思い始めるようになる。
 
どこに問題があるか、お分かりだろうか。
 
この先生は、自分の語ることに気を配りすぎた。いや、それは大切なのである。だが、授業は、原稿を読み上げてそれを学生がそのままノートに書いていく講義ではない(昔はそういう大学教授が少なからずいた)。
 
私に言わせるならば、授業の現場は、会場が一体になるライブ会場である。ミュージシャンの歌を聞くために観客はライブに集まるのではない。トークが楽しいコンサートは人気だというが、たとえトークの技術がどうであっても、観客はコンサートを楽しみにする。それは、ミュージシャンが観客の反応を受け止めて演奏をするからだ。観客もまた、ステージを創るのである。
 
さらに言えば、このときミュージシャンは、自分の演奏がうまくできるかどうか、だけを考えているのではない。観客が、自分たちの演奏を、どのように感じているか、それを第一に考えているはずである。いま観客は何を求めているのか。いまの演奏で、トークで、観客の心はどうなっているのか。どんな感情が会場の中にあるか。あのぶすっとした顔の人はこの曲でどういう気持ちになっただろうか。その心の中身を、直感的に受け止めながら、コンサートを創っていく。こうして、ミュージシャンと観客とが、共に充実した時間を共有していくことになる。
 
落語家も、そのようなことを話していたことがある。笑わない客に落ち込みもするが、その客を笑わせるにはどうしたらよいか考えることもあるという。その日の空気のようなものも気にする。この前の演者は誰であったか。そのとき客はどうであったか。そんなことも影響する。まさに空気そのものとして、天候や湿度なども気にするのだという。
 
教室には、様々な子どもがいる。理解の早い子もいれば、遅い子もいる。その方面の話が好きな子もいれば、興味のあまりない子もいる。原稿を棒読みするようなタイプの授業をするのだとしたら、それは、聞き手の状態を全く気にせず、分かる子だけ分かったらいい、自分は間違いのないことを語り続けるのだ、というだけの授業になる。これはもはや授業ではない。講演会なども、一方的に語っているようでありながら、実は会場の雰囲気を取り入れながら、互いに講演会を創るというあり方をしているはずだ。そうでないと、講演者はもう二度と会場に呼ばれないだろう。
 
教師が、まさかその棒読み状態であるということは、もちろんありえない。だが、自分の語る授業内容にいまひとつ自信がなかったり、自分が実は理解が浅かったりすると、話すほうに気持ちが集まってしまい、聞くほうがどんなふうに聞いていたか、全く考えることなく話し続けるという可能性は、十分にある。経験が浅いというのは、そのようなものなのだ。ある意味では仕方がないことだから、そういう先生を私は批判しているのではない。応援しているのである。あなたの気にすべきことは、授業内容ではなくて、聞く子の心がいまどうなっているかを知ろうとすることだ、ということが言いたいのである。
 
そのためには、その子の心の中には、どういう話の順番で入っていけばよいのか、その段取りも大事である。より広い概念から、次第に狭い概念に向かい、知るべきポイントへ迫っていくような話の順番というものがあるだろう。逆に、まずピンポイントで重要点を伝えておいて、次第に概念を広く扱うようになって、既知の概念と結びつくような順番で話すとよいこともある。類比を巧みに持ち出して、新しい考え方をその子に納得させていく場合もあるだろう。
 
いずれにしても、聞く側の心にどう入っていくか、聞く側がどのように先生の話すことを理解していくのか、そこにこそライブの現場では、関心をもつべきなのである。そのためには、子どもたちの顔を見るということは、基本中の基本である。いまのは伝わらなかったな、というのは、顔を見ていれば簡単に分かる。関心をもてなくなっているのも、態度で分かる。聞いていないようでありながら、ちゃんと聞いている子についても、慣れれば分かる。全員を画一的に同じような輝く眼差しにすることは難しいが、少人数のクラスだとそれはさほど難しくない。先生が面白い話をして笑わせるというのも、実は子どもたちの心を開かせて、こちらに気持ちを向けさせるためにするのであって、ただ楽しませて自分を好きにさせようなどというためではないのである。心の引き出しに、いまから話すことを整理して置き入れることができる、そのための準備なのである。
 
人の前で語るということについては、類似の情況にあると言える。先ほどの講演者もそうだ。ビジネスの会議でのプレゼンテーションだと、利益のためという目的があるからずいぶんシビアかもしれないが、半沢直樹は、まさに会場の人の心をどう掴むかという見本のようなドラマ(物語)であったような気がする。
 
そして、牧師である。若い語り手は、まず自分が話す内容に気を配るべきだし、またそこでいっぱいいっぱいになることもやむを得ないだろう。経験を増やして、次第に会衆の心の状態を知るように心がけ、そこへ投げかけ、入っていく言葉と語りが得られていくことだろうと思う。
 
児童心理学などを先生がそれまで学んで来たのは、実は日々刻々と生かすためであったのだ。一応学んだ、などと言う者ではない。牧会心理学というのもあるという。これを毎回の説教で生かすことのできるタイプの牧師もいる。実に安心して聞けるのである。それに対して、長くキャリアを積んでいても、聞く者の心理には関心を寄せないようなタイプの牧師も、確かにいる。そういう教会では、神の言葉が会衆の命になりにくく、説教内容も、そして多分に聖書の内容も、人々の心に入っていない可能性がある。まず引き出しを開けて、そこに神からのメッセージが整理されて収められていてほしいものであるが、そもそも引き出しを開けてもらえないという危険性もあるだろう。
 
語る、それは、聞いてもらってなんぼの世界である。語り方だけがすべてではない。それが、コミュニケーションというものである。神も、預言者がいなければ、また聖書としての書き手がいなければ、人とはコミュニケーションができなかったということになる。もちろん、聖書を見る限り、そんな心配は杞憂となるのであるけれども。



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