【メッセージ】自分の中にある違和感に気づく
2021年7月11日
(ヤコブ2:1-13)
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。(ヤコブ2:1)
「恵まれない人のために」という言葉が、昔はよく飛び交っていました。「おめぐみを」と求める「乞食」という立場の人もいました。そういう中で育った人には、「恵み」という言葉は、不幸なひとを憐れむような響きを覚えるものであるかもしれません。
しかし今もなお「恵まれない子どもたち」という言い回しは、広く聞くものです。そして「恵まれている」大人は、気の毒な子どもたちにただ金銭を与えるというだけでなく、気持ちの上でも「寄り添う」のだ、というような言い方をするようになってきました。自分たちが贈るのは金や物ではない、心だ、とでも言わんばかりに。
その気持ちが分からない訳ではありませんが、私はどうしても違和感を覚えます。寄り添うなんか、簡単にはできないと思うからです。むしろ、自分としては寄り添っているつもりだなどという厚かましさを押しつけられた側の迷惑を想像してしまいます。
ホームレス支援をする団体があります。キリスト教会でもしているところがあります。本当に頭が下がります。その教会の牧師の説教を直に聞いたことがありますが、その言葉は、長く時間を経てもいまなおその場にいるかのように思い起こされます。ホームレスの人に寒い冬、温かな食べ物の炊き出しをして帰る。すると自分はぬくぬくとした布団にくるまって寝る。眠れないというのだ。「いったい俺は、何をやっているのだろう」と。
だからと言って炊き出しを止めても、どうにもなりません。それでいて、炊き出しをしてまた家に帰ると、同じ疑問が全身を包むことになるのでしょう。こうした思いを抱えながら支援を続けていると思うから、私はこの方たちの中に「とうとさ」を感じてならないのです。
「あなたの気持ちは分かります」と、医師や看護師は、患者には言いません。それはもう、立場も情況も違います。かたや死に瀕している者、かたやそれのない者、気持ちが分かるなどと言えるはずがないのです。だから患者の側でも苛々した場合、あんたに私の気持ちが分かるのか、と怒ることが、あるかもしれません。そこにはどうしても、境界線があります。立場を区切る線があり、それぞれは間違いなく分断されているのです。
アメリカでもこの「分断」がひところ話題になっていました。日本ではどうでしょう。「一億総中流意識」などと言われた時代もありましたが、それがいつしか「格差社会」と呼ばれるようになりました。かつては、なんだかんだ言っても同じ中流で対等だという意識がありましたから、むしろ理解し合えない立場同士を「断絶」などと称して、互いの関係を絶って違いを強調する場合がありました。けれども昨今は「分断」というように、すでに切れて離れた状態になってしまったままになっていることが、絶望的に語られます。間をつなぐことがないというのは、辛いものです。
社会的情況や時代により、こうして互いの距離や関係が変わってきます。古くは身分の差が歴然としていたでしょうし、分断だらけの世の中や人生であったとしても、それが当たり前だったということもあったでしょう。ですから、ヤコブの手紙の中にあるこうした分断の様子について、いまの基準で安易に説明することは控えたいと思いますし、そこからいまこのように学びます、などと分かったような意見を言うのも控えます。あくまでもヤコブの見ていた情景を追い、しかしせっかくここを見たのですから、このテクストの解釈とは関係なく、いまの私たちの社会を見つめてみることはしてみたいと思います。
2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
ヤコブの描写は非常に具体的で分かりやすく。何の説明もいらないかと思います。私たちは、こうしたことを自分ではしていないつもりであろうと思います。けれども、そこが検討課題です。本当にしていないでしょうか。ひとに対する敬意は必要だと思いますが、地位のある人、そして教会関係者となれば、牧師や伝道者などへは、格別の対応をしているのが日常的でありましょう。そこに「分け隔て」を自覚するかどうか、それは私たち次第です。また、「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」をどのように読むかは定めないとして、「先生」と呼ばれているうちに、牧師なども、いい気になっていくことはありがちなことです。聖書には、「自分はこうではない」と言ってのけることのできる悪は、そう多くはないのです。
2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
2:6 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
2:7 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。
神が小さな者、弱い者を助けるというのはありがたいニュースです。キリスト教は、権力者や圧政に虐げられる存在であった庶民の中に、広がりました。そもそもイエス自身が、そうした人々を助け、癒し、救ったということからすれば当然かもしれません。それが後に、すっかり権力をもっていく歴史を、私たちはどう捉えるとよいのか、これは常に忘れてはならないことだと思います。
ところで今の箇所の後半は、立ち止まってよく考える必要があると考えます。ヤコブの目に映った当時の教会の様子のひとつに、立派な身なりの人にぺこぺこ媚びている様子が描かれていましたが、その金持ち層こそ、実は教会のメンバーを迫害しているのではないか、と言うのです。ここにはきつい皮肉が感じられます。教会に来た金持ち当人が迫害をしていたとは思えませんが、そのような富裕層こそ、実は教会を虐げている現実があるだろう、と反省を促すのです。信徒を裁判所に引っ張って行き、またイエス・キリストの御名を冒涜している者たちではないか、と気づかせようとしています。
そんなことにも気づかないのでしょうか。私たちはヤコブに指摘されて初めて、ああそうだ、などと気づくのでしょうか。
教義として意味があることは分かっています。しかし、聖餐式のときに、たとえ信じていると口では言っていても、まだ洗礼という儀式を迎えていないだけの仲間を参加させないということが、差別でないと言い切れるのでしょうか。私はこのヤコブの指摘の言葉を少し変えて、「洗礼を受けた人が入って来たときその人にはこちらに、と案内し、まだ儀式を終えていない日とにはそこに座っていなさい」と告げているのと、どのくらい違うのか、悩みます。差別という者は、している者は決してしていないと言い張ります。されている側の痛みを知らないからです。自分は差別などしていない、と言い切れる人は、していないのではなくて、自覚ができないのだと思います。だから、自分の正義をいくら自分で主張しても、百デナリの借金を返さない仲間を引きずっていくようなことをしている愚かさが、現にあるのだと考えます。もちろん、この私も、です。
世の中には、天皇制に異議を唱える人もいます。思想は自由ですから、一定の考えに基づいてならば、どういう意見をもっても構わないと思いますが、天皇制に反対と主張している人々が、たとえば「8月15日は終戦記念日ではなくて敗戦記念日だ」などと声を挙げているのを見るにつれ、それはただ「してやられているだけ」でしかないように私には見えてしまうのです。
そのことをここで論じる暇はありませんが、要するに8月15日というのは、天皇の声がラジオで流れた日であって、戦争の終結の日なのではありません。ポツダム宣言受諾ならば14日でよいし、降伏文書に調印したのは9月2日です。戦後もしばらくの間は、8月15日という日をとくに意識している記録はなく、1963年の閣議決定で「全国戦没者追悼式」を15日に定めたところから、いつしかこれを終戦の日と呼ぶようになった経緯があります。15日は、天皇がいわば祭司として宣言をした日でしかなく、国際的には戦争についての区切りとは全くなっていないにも拘わらず、天皇に反対するという声が、15日と思い込まされていることになります。掌の上で踊らされていることに、気づかないでいるのです。
もうひとつ、戦争について言えば、「沖縄慰霊の日」というものがあります。6月23日であることはようやく最近よく知られるようになってきました。これも1960年代の琉球政府が、遺族などの陳情を受けて制定したものです。何の日でしょう。牛島中将と長参謀長が摩文仁で自決した日です。その日付には異説もありますが、とにかくそうだとする日を記念して、「慰霊の日」としているのであって、それ以外の理由はありません。軍人のトップがいなくなったことで、組織的戦闘が終わった、とするのですが、アメリカ軍が戦闘の終結を発表したのは7月2日でした。それまでは、そして多分にそれ以後も、軍人の死など知らない場面で、戦闘と住民が殺し合う凄惨な情況はあったと思われます。
誤解されてはいけませんからここで言っておきますが、私はこうした記念の日に思いを寄せる「当事者」の方々を悪く言うつもりは全くありません。悲しんで然るべきだし、故人を偲び、また平和への誓いをすることには共感を寄せることを惜しみません。沖縄にはただならぬ関心がありますし、さらに沖縄を苦しめたヤマトの人間として自分の罪責を覚える一人でもあります。
問題は、「当事者」ではないのに、ヤマトの人間が、自分は沖縄の味方だ、平和主義だと叫びつつ、この23日を以てほぼ唯一の沖縄の日だと掲げているようなありさまなのです。たとえば沖縄市だと9月7日という、降伏文書調印の日を「沖縄市民平和の日」だと定めています。3月26日にアメリカ軍が最初に慶良間に上陸したときや、沖縄本島に上陸した4月1日のイースターなど、注目して然るべき日は多々あるにも拘わらず、軍人の自殺の日を唯一の「慰霊の日」だと叫んでいるのは、やはりすっかり踊らされていることにはならないでしょうか。気づいていないのではないでしょうか。
また、昨今のキリスト教の一部がさかんに声を挙げていることで、私が気になることがあります。いろいろな言い方がありますが、最近は「LGBTQ」という言い方が多くなっていますので、この表現をとります。キリスト教世界の一部が、このLGBTQの方々の権利を支えることに見方をし、同性婚も当然認めよと言うことを、私は気にしています。それをしてはいけない、というわけではないのです。そもそもLGBTQの方々を迫害し、殺してさえきたのは、キリスト教ではなかったのでしょうか。敢えてそれをいま追及は致しませんが、間違いなく、キリスト教は、聖書に基づいて、彼らを裁いてきたのです。同性愛はつい先般までは犯罪でした。それを定めたのは、聖書に基づくキリスト教でした。それを、世間が人権などという基準で支持してくると、さもこれまでもずっと味方であったかのように、LGBTQに寄り添うみたいな態度をとる、そんなことはないでしょうか。そうではなく、まずは悔い改めが必要なのではないかと思います。赦しを請うことから始めなければならないはずです。自分はそんなの関係ない、知らないことだ、と自己義認するのならば、その方々がしばしば政府に指摘する、「戦争責任」などの問題も、いまの政府には全く関係のない話になってしまうのではありませんか。
自分は関係がない。これこそが、聖書が最も悪質だとする態度ではないか、と私は捉えています。気づかないのも、人間の性です。ダビデがナタンに指摘されるまで、自分のことだとは気づきませんでした。傍から見ると、なんで、と思いたくもなりますが、人間そんなものだろうと思います。私たちは、ヤコブが指摘するようなことも、きっと気づいていないのです。私がいま、誰かを不当に傷つけているだろうことにも、きっと気づいていないのです。それを心を開いて聞いてくださる皆さまには、感謝するほかありません。
2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。
2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。
2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。
クリスチャンの中には尊敬すべき人が多々あります。聖書に真摯に向き合い、自分はどうかと絶えず問い直します。そしてできるだけ聖書の教えの通りに生活しようと努めている、素直でピュアな生き方をしている方には、本当に頭が下がります。「隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの命令を心から受け止めて、それを生きているとなると、もう尊敬するしかありません。
ヤコブは、もしかすると皮肉交じりであるかもしれませんが、そのように立派に生きているのは立派なことだ、と褒めた上で、それでも「人を分け隔てする」となると、すべてがアウトだと警告していました。一つの点で失格することをしてしまえば、他の徳もむなしいのだ、と注意を与えるのです。「人を分け隔てしない」ということは、「人に憐れみをかける」ということと同義だというのです。
お決まりの言い回しとして、「敬虔なクリスチャン」という形容があるのですが、どう思われますか。言われて恥ずかしい、という気持ちにならないでしょうか。とてもとても、私はそんな「敬虔」なんてものではありません、それよりも自分は「不信仰」でして……そんなふうに弁明したくなります。けれども、京都の牧師がよく言っていました。こう言う人に対して、「そうですね、不信仰ですね」と返答すると、怒り出すか、少なくとも不愉快な顔をするものだ、と。自分で自分のことを「不信仰」と称するのは構わないし、実はそのことで、「そんなことはないですよ」と言われることを期待している、あるいは求めているというのだ、という心理を指摘するのです。自分は「不信仰」であると謙遜することで、実はそうでないと認められたい訳で、こういうのは「謙遜傲慢」と呼んでよいのではないか、と時折話すのでした。
評価されても構わない言い方と、それを言われたらカチンとくる言い方とが、人にはあるようです。「敬虔ではありません」は言われても構いませんが、「不信仰」と指摘されるとグサリときます。「憐れみに欠ける」くらいなら、仕方がないと思われるレベルでもあり、構わないかもしれませんが、「あんたは人を分け隔てしますね」と言われたらどうですか。それは侮辱だ、という気持ちになりませんか。
しかしヤコブ書は、分け隔ては罪だといい、裁かれるというところを突きつけてきます。神にはこのような厳しさがあることを、私たちは忘れてはいけません。蔑ろにしてはいけません。神はなんでも赦す優しい方だ、というイメージだけでは偏ってしまいます。もちろん、神はなんでも罰する厳しい方だ、との思い込みもよろしくありません。自分の気分で決めつけるところから、人間はなかなか逃れられない難しさもあるのですが。
分け隔てをしてはならない。ヤコブ書は今日の箇所で、この点に徹していました。だから差別はいけない、というようなところを考えることも大切なのですが、敢えて差別という問題には触れませんでした。けれども、差別の構造については考えるきっかけを得られたのではないかと思います。差別は、自分がされることには敏感です。他人が誰かを差別しているのもすぐに分かります。けれども、自分が差別をしているということは、自分には分からないのです。分け隔てと呼ぶにしても、自分が誰かを分け隔てしている、というように自分を分析できる人は稀でしょう。私も全く自信がありません。私は男性として生きていますが、女性がどんなふうに差別されているか、そして私も差別しているか、差別する思いをもっているか、分かりません。なかなか面と向かって指摘されはしないことなので、そういう訴えをした文書や本に触れることで、気づかされることがあります。気づかされてほしいと願います。
もう一度、今日開いた聖書の最初の宣言に戻りましょう。ずばりと書かれていました。
2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません
やはりここが今日決定的な箇所として心に植え付けて帰らなければならないところだと思います。ところがここには、これまで全く着目しなかったフレーズがあります。「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」という部分です。
ひねくれた見方をすると、イエス・キリストを信じていない人は、分け隔てをするなと命じられているのではないことになります。信じていないと、分け隔てをしても仕方がないのだ、とでも理解すればよいでしょうか。もちろんこんな言い方をすると、いま自分はまだ信じられないんだよな、と思っている人は、お怒りになるかもしれません。もちろんそんな見下すようなことを言おうとしているつもりはないのです。押さえておくべきことは、この手紙が、あるいはもしかすると説教原稿かもしれませんが、これが、イエス・キリストを信じている人に向けて書かれている、言われている、という点です。信じていることを前提にしての忠告だ、ということです。
従って、このようにも見てみたいと思います。もしいま自分が信じているとは言えないと思っている方が、今日の箇所に触れて、なるほど、と思われたとします。良いことが書いてある、理解できる、と思われたとします。私はその方は、イエス・キリストのことが、信頼できたのだと考えるのです。「信じる」というのは、存在するかしないかを信じることではありません。そこに何らかの信頼を寄せることができるかどうかということです。もしこうした聖書の話に共感を覚えたとするならば、何らかの「信頼」をもてた、ということにならないでしょうか。
何も、キリスト教を信仰した、この宗教団体の一員になった、そんな大げさに考えなくて構いません。自分の宗教はキリスト教だと言わなければならない、そんなことではありません。聖書は良いことが書いてあるじゃないか、と思ったとしたら、聖書に信頼を寄せたという意味になるでしょう。自分の人生を賭けたとか、自分が聖書を全面的にその通りだと信じるとか、そういうことではありません。この分け隔てひとつの問題で構いません。この話に、あなたはひとつの納得をした、だったら、そこには信頼をもてた、としてよいと思うのです。
だから共にもう少し、また聖書を開いてみましょう。そこには自分の問題があるのだな、とそれで結構です。自分を見つめる眼差しを得られたならば素晴らしいことです。俺は断じて正しい、と言い張るのではなく、たとえば神のような方が自分を見たらどうなんだろう、と想像してみたとしたら、私と同じなのだという気がします。
自分の中の歪み、自分の中にある何らかの違和感、そんなものを感じたら、またそこから少しでも揺さぶられるような感じがしたら、それは魂がとても健康なことだと私は思います。そのような方を、教会員であるとかないとか、お寺に参るとかどうとか、たばこを吸うとか吸わないとか、そんなことで「分け隔て」をするようなことだけは、教会もキリスト者と名乗る者も、したくないものです。