【メッセージ】行う人に

2021年7月4日

(ヤコブ1:19-27)

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。(ヤコブ1:25)
 
「社会派」なる言葉は、文学や映画などの担い手にしばしば冠されることがありますが、キリスト教会にも載せられることがあります。対するものは「教会派」とか「福音派」とかいうものなのでしょうか。この場合、「社会派」というのは、教会が世の中の問題に対して積極的に発言したり運動したりするものをいい、「教会派」というのは、世の中の問題や政治的なことに直接関わらずに、ひたすら聖書の教えを広めようとするあり方をいうように見受けられます。後者は何も社会に関心がないのではなく、社会的な意見は人それぞれ違う場合があるから、教会としてそれら一つに与していくことで、教会の中で対立をつくることを避ける目的もあるようです。
 
一概にどちらがどうとは言わないことにします。社会に関わっていく教会も、もちろん政治団体ではありませんから、聖書を基準に物事を考えるはずです。但し、そこにはどうしても聖書の外の考え方も大きく影響します。時代や社会的環境はいま、聖書の記述とまたずいぶんと違うものになっているからです。社会の異端であり、迫害の対象だった時の信徒の姿が新約聖書には強く描かれているかと思いますが、そのときの記述をいまの世界に直接当てはめることは難しいと思われます。
 
かつては、キリストとその弟子たちの教えが伝えられていたら、それを生き方の指針として受け止め、守ろうとしたことでしょう。ローマ帝国の誤りを正す、というような社会運動をすることはありえません。隠れて教えを伝えつないでいただろうと思われます。一方、弱い立場の人を助けることは、きっとしていたでしょう。イエス自身、社会的に弱い人々に声をかけ、その差別の垣根を越え、病を癒やすことを続けていたのです。弟子たちも、できるだけそのように慰めの言葉をかけ、力づけていったように思われます。だからこそ、多くの人の共感を得て、信じる人を増やしていくことができたのではないでしょぅか。
 
今も、そうした人々、自ら声を出せないような人々に近づいて、守ろうとする教会があります。具体例を挙げることは控えますが、困っている人々を助けるためにずいぶんな負担と努力を重ね、社会に貢献している教会があり、また命を守るために尽力している教会があります。本当に頭が下がります。しかしまた、そうした運動をしなければ教会の存在意義がない、とまで言い放つとなると、これも問題となりかねません。社会運動こそ第一となっていくと、実際の運動の問題に揺さぶられることにもなりかねませんから、次第に聖書という原理から、別の原理に基づいて物事を考えたり、教会の基本的方針としたりすることになる可能性があります。福音の本筋を絶対に曲げてはならない、忘れてはならない、とすることから、社会運動に手を染めない教会の言い分も、理解できると思います。
 
プロテスタント教会としては、宗教改革者ルターが強調したこと、つまり人は行いによって救われるのではなく、信仰によって救われるのだという大原則があまりにビッグなものですから、どうであれまずは信仰なのだ、とする姿勢は、プロテスタントの原点に立つものと考えられることも確かです。けれども同じプロテスタントでも、カルヴァンの場合、この世での労働に意味を見いだす動きに大きな力となりました。後の産業革命や近代産業の発展に、その考え方が大きな影響を与えたことは確かです。
 
このように、教会のあり方としてどちらかが一方的に正しいなどという議論は、もはや現実的ではないものと考えられます。現実に働かねば意味がないとするのも、イエスの教えに従うものであるし、他方きよめのような精神世界での出来事も大切な原点であると言えるでしょう。
 
これらの考え方は、対立するものでしかないのでしょうか。両立は無理なのでしょうか。
 
しばしば日本では、教会は反体制的であるように見受けられます。政府に媚びないということは大切ですが、政治的判断には何でも反対するのが教会の姿勢であるべきだ、というような空気も感じないではいられません。まして天皇制となると、様々な側面から反対をするのが当然である、というようなグループもあり、むしろその方がキリスト教会としては当然の立場であるような雰囲気も漂わせています。
 
太平洋戦争末期から戦後にかけて、天皇制はひとつの危機にありました。その中で、日本人女性と結婚し、すでに日本国籍をとっていたウィリアム・メレル・ヴォーリズは、天皇制の存続に大きな力を注いだと言われています。天皇とマッカーサーとの会見のために尽力し、天皇制を守ることが日本国民のために良いことだと動いたのでした。ヴォーリズは、メンソレータムの近江兄弟社の設立や、多くの教会と大学などの建築家として有名ですが、元来宣教師的な教育者として日本にキリスト教を伝えた一人でした。
 
南原繁は、戦後の東大の総長に立って、戦時に壊れた大学教育を立て直した人です。講和条約では吉田首相と厳しい対立をしたものの、日本国憲法のあり方、皇室典範に関しても影響を与えたことが知られています。特に、天皇の自発的退位を主張したのは、いまにしてみればここへきて実現したひとつの道でしたが、当時は否定されました。しかし昭和の天皇の退位を頭に入れていたものの、その上で天皇制を以て日本の新しい時代を始めるべきことを画策したことになります。南原繁は、内村鑑三に師事し、無教会派の一人として信仰に生きた人でした。
 
時代的な状況もあったことでしょうが、キリスト者が、イデオロギーなどではなく、日本国民を愛しこの国の未来と現在とを考える中で、このような動きのために力を注いだことは、見過ごしてはならないことのように思います。
 
このようなことを長々と述べてきたのは、今日から読むヤコブ書の重要なテーゼ、「行いの必要」ということをどう私たちが捉えるか、についての一つの指標となりうるかもしれないと考えたからです。
 
ヤコブ書は、曰く付きの文書でした。そもそも最初から新約聖書に含めるかどうか、議論が多かったといいます。ユダヤ人向けの内容だというのがその大きな理由でしたが、これが千年以上を経て、宗教改革者ルターにより徹底的に嫌われたこともよく知られています。ルターは「わらの書」と呼び、聖書から外そうとすらしたといいます。ルターは「信仰のみ」という原則を立てたことで、宗教改革を行ったわけですが、ヤコブ書は明らかに、ルターの主張に反しています。
 
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
 
やはりこういう思想は、ルターには気に入らなかったわけです。今回からこのヤコブ書を開き、そこから神の言葉として受け止める時を共有したいと願っています。
 
1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
 
話したり、怒ったりするより先に、聞くことが優先される。怒るのを我慢せよというのなら分かりますが、話すよりも聞くほうが先、というそこに、私たちは心を向ける必要があろうかと思います。
 
何を聞くのでしょう。もちろん神の言葉です。実は今日開いた箇所の直前に、このような文があります。
 
1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
 
ここにある「真理の言葉」、それこそが神の言葉のことです。今日の箇所の中で「御言葉」と繰り返されるのは、まさにこの「真理の言葉」のことであり、神の言葉、聖書の言葉として受け止めてよいかと思います。
 
そうです。自分の言いたいことばかり喋りはするが、ちっともひとの話を聞かないというタイプの人がいます。聞こうとしない意志の問題の場合もありますが、どうしても聞けないというような、精神疾患の場合もあります。何も病気とまでは言わなくても、とにかく自分からばかり偉そうなことを言い、自己顕示欲が強い様子を示す人がいます。そのような人は、えてして自分から話し続けることで、自分のことが攻撃されるのを阻んでいるものです。つまり、自己愛が強いために、何かしら言われる暇を与えないためにも、自分の知っていることを次々と繰り出して、話題をキープするというわけです。
 
子どもたちの中にも、このようなタイプの子がいます。あるいはその場合、家で親から言われ続けていることの反動ということもありますから、よくよく注意が必要ですけれども。
 
私たちもまず聖書の言葉を聞く、そこから始めることは大切だと思います。自分の思いつきや考えを言いたいがために、聖書の言葉を利用するという罠があることは確かです。聖書のことを語っているように一見思われる姿が、実のところ自分の思いつきを権威づけるために、聖書の言葉を盾として利用している、という様子を、世の中でしばしば見ます。それはまた、礼拝説教においても、警戒しなければならないことです。語る本人もそうですが、聞く側も、これは神からの物なのか、語る人の意見を聖書の言葉でまとっているだけなのか、よくよく見つめていなければならないと思います。
 
しかし、ヤコブ書は、この「聞く」ことでよし、とはしません。聞くことは結構、だが、真理の言葉は聞いて満足するだけのものであってはならないというのです。
 
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
 
これは強烈な指摘です。礼拝でよいメッセージを聞き、「結構なお話でした」と喜ぶ信徒の姿は麗しいものですが、午後に食事を共にする中で、まあ次々と人の悪口が出てくるとなると、全く聞いたことが実現化することなく、踏みにじられているような気持ちがするのは、私だけではないでしょう。もちろん、それほど極端でなくても、私の中にも、礼拝後に起こる醜い思いに愕然とすることがあります。まことに情けない次第です。
 
ここでテクストには、私にとり分かりにくかった喩えが書かれています。少し寄り道してみましょう。
 
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
 
パウロが、有名な「愛の章」で、「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(コリント一13:12)と書いているのを思い起こす方もいらっしゃるでしょう。当時の鏡はいまほどの良い映りではなかったというように言われていますので、やがて天国でくっきりとすべてがクリアになる、というふうに知ってもらおうと思ってこのように記したのだとされています。ヤコブの時代も同じですから、ここでいう「鏡」は、決してクリアなものではないと思われるのですが、それよりもむしろここでは、そもそも人は自分の顔というものを日常見ていなかったであろうという前提で接してみましょう。
 
自分の顔を鏡に映しても、そもそも普段そういうことを意識する生活をしていませんので、鏡の前から離れたら、自分の顔をイメージできなくなる、というような情況を想像してみましょう。ヤコブが言いたいのはおそらく、鏡に自分の顔を見たことが、神の言葉を聞くことに相当し、聞いてなるほどとその時には思ったにしても、鏡から離れたらもうその顔をよく覚えていないのと同様に、実行に移すことがなければ、聞いたはずの言葉も忘れてしまい、無意味になってしまう、というようなことではないかと思われます。
 
私たちは、何か良いこと、大切なことを聞くことがあります。聞いたそのときには、素晴らしいとか、大変だとか、可哀想にとか、自分の中に感動を覚え、あるいは深い人間性に思いを巡らせたりします。また、他人への共感や同情などを強く覚えることもあります。世間で話題になる事件に、憤りを感じたり、正義感を奮い立たせられたりもします。けれども、喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言われるように、少し経つと、もはや誰もそのことを話題にもしないし、すっかり忘れてしまうものです。七十五日どころではありません。次々とセンセーショナルな話題が飛び込んでくるせいでもありますが、ああ気の毒に、と思うどころか、やがて、そういうこともあったなあ、それで終わってしまいます。
 
では、そうならないためには、何が必要なのでしょうか。ヤコブが「御言葉を行う人になりなさい」というのは、何を要求しているのでしょぅか。
 
1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
 
この辺りは訳語により印象が変わってくるかもしれません。「自由をもたらす完全な律法」でもよいのですが、「完全な法、自由の法」というように表されているところを確認しておきます。日本とは異なり、「法律」も「法則」も西欧の言葉は殆ど区別しません。両方の意味を兼ねて読み取る習慣が必要です。もちろんここでは神の言葉、真理の言葉のことをまとめてみた言っていますから、神の言葉は完全であり、それは人にとり自由の法則なのだ、という提言を受け止めてみたいと思うのです。
 
「一心に見つめる」とありますが、「覗き見る」のニュアンスで読むほうが原語に近いだろうと思われます。鏡を覗くことと連動しているのかもしれません。神の言葉を、その時だけの建前の言葉として掲げるばかりでなく、「守る」あるいはもう少し原語に迫れば、「とどまり続ける」というような感じがします。噂話のようなワイドショーの叫びのように、その場で感情を揺さぶりはするものの通り過ぎていくだけの情報ではなく、ずっとそのことを胸に納めて考え続ける、大切にし続けるということを、「行う」ことだと言っているようにも読めます。つまり、「行う」が即座に「行動する」と等しいようには必ずしも捉えていないのです。これは今日気にしてみたい、大きなポイントではないかと思います。
 
何かしらの行動を起こさなければ、意味がない。ヤコブは必ずしもそのように迫っているのではないように見受けられました。
 
また、その人は「幸せに」なるそうです。「祝福される」と捉えてもよいかと思います。聖書が約束する幸せ・祝福というものの一つの鍵がここにあります。行動はもちろん行動でよいはずですが、行動しかだめだと思い悩まず、忘れることなくその思いをずっと大切に懐き続けることです。鏡を離れても忘れないことなのです。
 
マリアが「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19)とか、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2:51)とかいうように、イエスを巡る出来事を見て、すぐにはその意味が分からなかったにもかかわらず、ずっと忘れないで心に懐いていたというのが、ひとつのモデルであるような気もします。
 
この後、ヤコブはこうしてひとつのまとめを提示します。
 
1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
 
「舌を制する」というのは、ヤコブ書で有名な箇所で、3章で、舌はすぐに大言壮語するなど、人間にとり実にスキャンダルな存在だというふうに戒めるようになります。口は災いの元だと私たちも言いますね。
 
その他、やたらと目立つ言葉があります。「信心」です。これらは、原文でもちゃんと三回繰り返されており、代名詞で軽く扱われたものはありません。しかしどうでしょう、私たちのいまの感覚で、「信心」という言葉がピンとくるでしょうか。「鰯の頭も信心から」という諺は知られていますが、若い人ならずとも、そう使わないようになってはいないでしょうか。
 
この「信心」という語は、英語の聖書だと、もう「religion」で十分となっています。つまり的確な表現だと「宗教」でよいと思うのです。
 
自分は宗教者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の宗教は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない宗教です。
 
どうでしょう。このほうが、言おうとしていることがストレートに伝わるような気がしませんか。
 
宗教団体としての教会、これを打ち出してもよいかと思います。「そのような教会は無意味です」という言葉は、なんとも強烈です。でも、これは冗談では済まされません。ただ、これについて触れ始めると、いくら時間があっても足りませんので、ここから先は、それぞれの方が、心に納めて思い巡らせるようにして戴ければ幸いです。
 
ここを見ると、現実に慈善活動をしなければならないようにも見えますが、舌を制することや、心を欺くこともわざわざ取り上げられていますので、もっと精神的な部分に関わっている様子を知ることもできます。世の汚れに染まらないように自分を守るというのも、決して慈善活動そのものを示すものではありません。
 
この「汚れ」という言葉も、実は少し気にしておくほうがよいかと思います。先に一度登場していました。
 
1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。
 
「汚れ」は、怒りに関わりながら忠告されるものでした。「世の汚れ」と称したときには、舌の問題や、欺瞞の問題に重ねて捉えてよいように見えます。この「汚れ」は「不潔」でもあり「汚染」をもイメージさせるものと考えましょうか。ヤコブが望むのは、「汚れのない宗教」でした。私たちも、注意深くこうした「汚れ」を避けることについて、いつも考慮しておくのでなければならない、と教えてくれているのだと思います。
 
今日はヤコブの手紙から、こうして、私たちの宗教のあり方が問われているような読み方をしてみました。宗教たるものはどうあるべきか、それは一言で片付けられるような問題ではありませんか、ひとつの可能性を指摘されたような気がします。
 
他方、ヤコブが信仰よりも行為、と単純に主張しているのではないことにも気づきました。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人」という表現がありましたが、それをより原語のニュアンスを受け止めるならば、「完全な法、自由の法を覗き見て、その中に留まり続ける人」が「行う人」なのだ、というふうに捉えられるのではないか、と提案しました。留まり続けるのです。忘れないのです。心に留めて置くと言うことは、また何かの出来事に遭遇したら、たちまち思い出して、心に納めていたその思いが溢れてくるということです。過去の感情として標本化してしまうことなく、二千年前の蓮の種が現代に発芽したように、いつでも何かの刺激があれば、いざ何かが起これば、死んでいないその思いが、命あるものとして、生き生きと現われてくるということです。
 
心の中に懐いていれば、いざ何かのときに、それが働き始めます。いま行動に移していなくても、チャンスが来れば、かつての時の思いそのものに、行動となって動き始めることでしょう。それで良いのです。時は神が与えてくださいます。自分が何がなんでもいまやりたい、と言い張るのではなく、この思いは、いつか相応しい時に神が現実に行わざるをえないように導いてくれることだろう、と神の業を信頼するのです。
 
旧約聖書の雅歌の中に、三度繰り返し現われるフレーズがあります。「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください」というような言葉に続いて、三度響くのは次の言葉です。
 
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。(雅歌2:7,3:5,8:44)
 
神がそれを望むとき、愛は呼び覚まされることでしょう。その意味で、いまこのときにそれは「行い」になっていなかったとしても、相応しい時、神の定めた時に、それは「行い」となることでしょう。いまは心がもしかすると挫けているかもしれないし、自分には力がないかもしれない。けれども、その思いを心に懐いていたならば、それは実現に導かれることでしょう。
 
神の言葉は、人の言葉とは違い、口先だけで終わることはありません。神の言葉は、そのま現実存在となるのです。真理の言葉は、必ず実現します。だから、神の言葉を受けて、真理の言葉を信じるとき、私たちはそれが現実化することを、もう知っていることになります。それは祈りの内に、この自分の手により実現されるということを、きっと知るでしょう。教えられることと思います。「いまが、その時だ」と感じるときがきっと来ることを。そのとき、遠慮なく、しかし願わくば自然に、それを「行う」とよいのです。
 
その時まで大切に温めておくものは、何ですか。それをいますぐに実行するのは難しくても、私は、必ず行う人になれるのだ。そう、胸を張って神の前に言おうではありませんか。



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