ヒュパティア

2021年6月28日

中国人が悪いなどというつもりはないのだが、どうしても私の中にひとつ抵抗があることは否めない。教え子が中国人に虐殺されたからだ。日本人を恨むアジアの人やアメリカ人がいるが、その気持ちに少し近いものがあるかもしれない。
 
真珠湾攻撃の総隊長であった淵田美津雄さんは、その後ルカ伝の十字架上のイエスの赦しの言葉に出会い、キリスト教を信じるようになった。一途な故か、今度はキリスト教を伝道する者となり、なんとアメリカにも講演に出かけた。当初は憎まれた。だが、キリストを介して、多くのアメリカ人に受け容れられ、和解したといわれている。
 
「幸せなら手をたたこう」は、前回の東京オリンピックの年に、坂本九の歌により有名になった。この歌詞は、戦後YMCAのボランティアでフィリピンに行った木村利人さんにより生まれた。当地には、日本人に虐殺された人々がたくさんいて、罵声を浴びた。木村さんは自分の罪としてそれを受け止めた。現地で聞いたメロディーにふと浮かんだのは、詩編の言葉だった。
 
もろもろの民よ、手をうち、 喜びの声をあげ、神にむかって叫べ。(詩編47:1)
 
現地の友人の優しさに助けられつつ、和解への希望を願いながら、ひとつの歌ができた。それが、「幸せなら手をたたこう」であった。木村利人さんは、その名前の通り、まさにLicht(ドイツ語で「光」、英語のlight)となったのだ。
 
映画「アレクサンドリア」については、以前触れたことがあるのでご記憶のある方もいらっしゃることだろう。四世紀から五世紀にかけて、エジプトのアレクサンドリアに、哲学者ヒュパティアがいた。記録にある限り最古の女性哲学者である。そもそも哲学者ということで女性が浮かんでこないということが異常なことなのだが、このヒュパティアは、数学者であり天文学者でもあった。新プラトン主義の学校の校長を務め、プラトンやアリストテレスの講義をしていたらしい。いまはわずかな書簡が遺されているのみだが、そのドラマチックな生涯は、後の世に語り継がれるようになり、いくつもの文学作品が生まれた。そしていまや映画にもなったのである。
 
細かな過程は、関心をもたれた方がお調べになったほうがよいかと思う。この映画を私はDVDで購入したが、比較的安価でもあり、映画のお好きな方はライブラリーにお薦めする。ただ結論的に言うと、彼女はキリスト教徒により惨殺された。哲学者は尊敬される存在であった中、キリスト教徒に憎まれたのだ。キリスト教徒となったローマ皇帝が、非キリスト教徒を迫害し始め、暴徒となったキリスト教徒たちは、アレクサンドリアの司教は貴重な資料の数々を収めた図書館を破壊した。その流れからか、そして本当にキリスト教徒によるものであったかどうかは定かではないかもしれないが、日頃キリスト教徒により冒涜者とにらまれていたヒュパティアは突然襲われ、皮と肉を剥がれ、体をばらばらにされて内蔵は燃やされたという。このアレクサンドリアは、キリスト教側の聖書資料の本拠地となったことでも知られる。
 
キリスト教はその後も、信じない者を容赦なく殺害し続けた。イスラム教が残酷だなどとまことしやかに言われるが、ジハードなるものが残酷なものにイメージされたのは、現実ではないことを振りまいたキリスト教側の仕掛けであるようだ。魔女を調べる奇妙な方法を用いて異端者を残酷に殺害し、動物まで裁判にかけ、理性的な見解を述べた者を火あぶりにしたのは、間違いなくキリスト教権力である。政治を支配し、この世での権威を恣にしたキリスト教勢力がしたことは、そうしたものであった。
 
さらに、経済的な理由が大きいとは思うが、世界進出をしたキリスト教徒は、古代から続く文明を破壊し尽くし、殺戮を繰り返した。宣教師たちは、世界宣教という建前を掲げ、それに加担したことになるだろう。
 
その他、カトリックとプロテスタントとの間にも、争いが絶えなかった。「虐殺」と呼ばれるような事件も多々あった。長い間にわたる戦争もあった。いまなおその歴史を引きずっているとも考えられる。
 
私はこうしたキリスト教が憎い。だからこそ、若いとき、このキリスト教を潰そうという野望を懐いて哲学を学び始めたのだ。
 
いま、私はそのキリスト教徒となった。キリスト教徒は弁明をするかもしれない。もう時代が違うのだ。キリスト教は人権を守る歴史をもつくった。弱い人を助け手来た。結構、どうぞ何でも仰るがいい。それで自己義認をしたところで、殺されたアベルは、本当に私とは関係がないのだろうか。私は清いのだろうか。それよりも、フィリピンの村で「帰れ」との叫びを受けて、日本軍のしてきたことを自分の罪として受け止めた、あの若者の感じ方のほうが、キリスト教徒としてあたりまえのものだと私は思うのだが、それは歪んだ考え方なのだろうか。
 
聖書を信じています。そう言えば、キリスト教徒がしでかしてきたすべての罪業から、自分は距離を置くことができるのだろうか。あの残虐なことを行った者たちも、聖書を知っていたのである。自分たちは聖書に基づいて正義を行っていると確信してやっていたに違いないのである。
 
人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。(ヨハネ16:2)
 
どうしてこれを、自分は被害者側にいるものとして前提してしか私たちは読めないのだろうか。加害者でなどありえない、と確信しているのだろうか。実はそれこそが、一番いけないことだと、お気づきになれないのだろうか。それが、かの歴史を作ってきたのである。
 
信じたから、クリスチャンになったから、教会に通っているから、だから私は善い者になったのか。何をしても赦されるのか。聖書を読んでいるから私は正しいのか。
 
とんでもない。私は信じる。聖書は正しい。それは、聖書を読む私が正しいということを意味するものではなく、聖書が描いているとおりに、人間は自分のしていることが分からない、愚かな者であるのだ、と言っているが故に、正しいという意味なのである。聖書の描く通りに、人間は間違うし、自分が正しいと思い込むし、そうして神に反することを平然とやり続けるのだ、としている点で、正しいのである。私も、私たちも、例外ではない。実際、キリスト教徒たちは歴史の中でそれを証明してきたではないか。
 
いま、私はそのキリスト教徒である。



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