華氏451度
2021年6月26日
放送が終了してからご紹介するというのは無粋だしルール違反となるだろうが、100分de名著は2021年6月、「華氏451度」だった。先日も少し触れた。
本というものを燃やす社会を描いた物語である。こうした作品は、何かを想定して批判をしたり警告を与えたりしているのが通例である。
ブラッドベリは、テレビが浸透し始めた頃に、この小説を書いている。まだテレビが人間にどのような影響を与えるかということは、分からなかったと思われる。だか、テレビが人をどのように変えていくのか、それを近未来の物語として、よくぞ描いてくれた。ある意味で、いまの私たちの姿がそこにあるような気がして、ぞっとする。テレビではなくて、インターネットに変わっても、そうである。むしろ、さらにここに描かれた方向に暴走しているのだとも言える。
何を言っているか分からないと思うが、本というものが存在してはならない世界である。主人公の男性モンターグは、本を見つけ次第燃やすことを職業としている。消防士の逆である。そういう世界に疑問をもつ、あるいは抵抗する人が現れては、いなくなる。本に殉じていく人を見てさすがにショックを隠せなかったが、そうした経験をきっかけに、モンターグは本の中に新たな世界を見ようとするようになる。
妻との関わりや出会った少女や老婦人などのことなど、物語は多くの要素があり、一言では言えないが、本を消すということは、記録や記憶を奪うとともに、思考そのものを認めなくなることを意味するものと思われる。
テレビは、国民の頭脳を悪くするという見解がかつてあったのだが、インターネットについてそれように強く言う人は殆どいない。しかし、テレビどころではなく、何でも一瞬のうちに検索し、そこから知識を引いてきてはさも知識があるように語るなど、実は自分では何も考えないようにますますなってきているのではないだろうか。
お手軽に情報を得ているつもりでありながら、それを自分が操っているかのように思いなし、実際は操られているという構造が世の中にはありありと見られるような気がしてならないのだが、そのような意味では、実はこの番組自体が検証されているのだった。というのは、名著そのものを読まずして、100分でダイジェストして説明をしましょう、ともちかけているのだから。かくいう私も、原著はまだ読んでいない。
単なる感情と思い込みだけで意見を言っているのに、自分の言うことは真理であり正義そのものであるように、人々は錯覚していく虞がある。否、現にそうなってしまってはいないだろうか。個人の自由や人権という思想が、このような世界をつくる危険性は十分懸念されていたのだが、それを安易に否むと、歴史が逆行することにもなる。かつての不自由で万人の人権を認めない社会はこれを防ぐ制度を営んでいたのかもしれないのだが、今となってはそれを持ち出すのは危険思想そのものである。だから、別の知恵を以てこれを乗り越えることが期待されるのだが、人間の善性を信頼するような呑気な態度をとるしかないような現実なのである。
思索が軽視されて久しい。と同時に、文化もまた軽視されがちな昨今である。ふと、戦争しか考えない宇宙人が文化により変えられようとした、最初の「超時空要塞マクロス」を思い出した。