取材と説教
2021年6月24日
取材の仕方、そのコンセプトのようなものをライターが明かした本があって、それを気長に読んでいる。なにせ分厚いのだ。
読んでいて、ふと気づいたことがある。ライターが取材して、それをまとめて記事にする。それを読者に届ける。この営み、教会での説教者のしていることに重なってくるのではないか、ということだ。
説教というと一般語としてはどうしても「お説教」にしか聞こえないだろうが、礼拝の中で神の言葉を語ること、あるいはひとつの「メッセージ」であるとしよう。これは、人間の考えをある意味で語ることにもなるが、根底から人間の考えであってはならないはずのものである。つまり、神の意志を知らせるものである。それは神の怒りであるかもしれないし、神の助け、恵みであるというのが普通である。信徒はそれを聞き、励まされてまた新しい一週間を過ごしていくことになる。生きる力、歩いていく希望を与えられることを期待している。もちろん、それはただの励ましや慰めというわけではない。私たちが神の前に、ある種の清算をしなければならない機会でもある。罪を自覚し、悔改め、そして神の愛を受けるということも含まれなければならないし、これのない、ただの「なんでもしていいんだよ」では、聖書の思想とはかけ離れてものになってしまうであろう。
とにかく語る者は、聖書からのメッセージを、いわば人々に語る前に、一足先に受けることになる。かといって、聖書に時折その記事が書かれてあるように、空中から神の声を聞くという神秘的体験をしなければならない、というものではない。
語る者は、聖書に「取材」する。それは神に「インタビュー」することでもある。ライターは、相手の話をただ機械的に文字にするのではない。相手の話を導くための「質問」が鍵であると共に、ただこちらが「誘導」するようなものであってはならない。「質問」をきっかけに、相手が次々と語ることを受け取ることが必要である。福音書でも、イエスがある種の質問を受けて、そこから発展した教えを語っていくという場面が多い。まるで「取材」されているかのようだ。
ライターは、こうして得られた情報を、読者に伝えるべく、伝わるように編集する。ここにそのライターの仕事の真骨頂がある。人気のライターは、取材内容をもちろん尊重しながらも、読者が一読して分かりやすいように、まとめるのである。説明の順序にも工夫を凝らす。強調点を考える。しかもそれが、取材者の考えを中心とするものであってはならない。それも混じるであろうが、あくまでも取材した相手のことを紹介しなければならない。その人が読んで、自分はこんなことは言っていない、と文句を言われるようなものであってはならないのである。
ライターは、その相手のファンになることが、取材の秘訣であるのだ、という。そうでなければ、こんな紹介記事などは書けるわけがないだろう。だから、読者に紹介するにあたり、自分が取材して得た喜びや気持ちの良さを、読者とシェアするべく、文章を仕立てていくのである。
こうした形でライターの仕事を振り返ると、私にはやはり、説教者の準備や姿勢と同じようなことのように思えてならないのである。神に取材する。神は聖書を通じて語る。ただ、「霊」という働きで、確かに一種の「声」で語るということは、あるはずだ。聖書に書かれたその文字だけがすべてではない。しかしまた、その文字を、取材者の思い込みで曲げて解釈し、嘘を伝えるようなことがあってはならない。それでもなお、取材者の編集というものはあって然るべきである。
読者、すなわち説教を聞く者は、その記事を愉しみ、神の語ったこととして受け止めることになる。そうして自分を戒められ、自分を変えられて、勇気を与えられ、希望を胸に、そこからまた歩き始めるとよいのである。