沖縄を思い、われを悔やみ、いまを憂う
2021年6月22日
沖縄にとり、この時期は特別な時となる。もちろん、4月28日のような屈辱の日も大きなものだが、1945年の4月から6月(ないし7月)にかけては、この世の地獄のようなものだっただろうと思わざるをえない。
その加害者の一人として、私はいまのほほんとヤマトにいる。
ちょっと歴史の教科書で記述される程度のものでしか頭に置かなかった私が、何かのきっかけでそれを知り詳しく調べることにより、のめりこんで行ったのだった。そのため、新婚旅行に戦跡を選ぶという、なかなか取らないであろう機会を得て、現地で資料を調達した。インターネットを使うことなど思いもよらない時代であった。
しかし、幾度も私が繰り返しているように、23日は軍人の死というほか、あまり大きな意味をもたない日でもある。戦闘がその日に終わったわけでもなんでもない。ただ、沖縄の人がこの日を選び取り、偲ぶ時としているのなら、その心を否むつもりは全くないというだけだ。
夏至の太陽は、沖縄ではほぼ真上から照らす。飛行場に降りたったときの、ちょっと違うタイプの熱気も独特だと感じたが、なにより空の青さと、照らしつける光の角度が印象的だった。
語り続ければ、終わりがないくらいにくどくどとしゃべりだしそうだ。琉球王国から日本の支配下に置かれるようになり、そのあげくが皇民化教育で人の心が操られ、捨て石として時間稼ぎに利用されたとなれば、それを操った側、利用した側というのが、間違いなくヤマトなのである。
アメリカ軍が上陸したのは、その年のイースターだった。アメリカ兵もどういう精神状態だったのだろうか。
ペストと見なされている黒死病により、ヨーロッパ人口の三分の一が死んだとも言われる14世紀の混乱。沖縄戦でも、沖縄の人口の三分の一とも言われる人々が、悲惨な――悲惨というくらいしか語彙がないことを申し訳なく思う――死を迎えたのだった。戦死は一般に、疫病などの病死と餓死が多いと見られるが、この沖縄の住人の場合は、恐らくそうではなかっただろう。互いに殺し合うことで辱めを受けまいなどとしたのは、教育と思想の故だったのかもしれない。
教育は大切である。思想は命である。
今月、Eテレの「100分de名著」は、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』を取り上げた。本を焼くというディストピアを背景に物語が展開するが、そこにはまさに教育という名の洗脳と、思想を生じさせまいとする社会の権威があった。
沖縄と重なるなどというつもりはないが、かの悲惨へと導いたもののひとつが何であったのかについては、私たちに「おまえがそうしているじゃないか」と突きつける鋭さをもっているように感じた。私たちが、自分が善人で常識だと思い込んでいる、それが一番危ないことなのだ。