会見拒否の報道から

2021年6月14日

もう半月も前になるが、大坂なおみ選手が全仏オープンを棄権したニュースが大きな話題になっていた。様子を見ていたが、概ね好意的に受け容れられたようである。テニスに限らず、スポーツ選手からの応援の声も世界的に報道されていた。とくに日本の報道機関の雰囲気はこれを支持する一辺倒で、出る杭を叩いていた従来の日本の報道が、いくらか変化してきたのを感じた。
 
大坂選手は今回の背景を、メンタルな面で訴えた。記者会見の場が強要されることについて、ノーを宣言したのだ。それは規則に反するということで罰金が科されるとされたが、チャリティに使ってくれたらいい、とその点での抵抗を本人は主張することはなかった。
 
この会見拒否について、一般の視聴者としての私たちは、複雑な立場に追い込まれた。私たちは、会見を当然と考えていたはずだからだ。つまり、記者や大会関係者からすれば、そのインタビューは、視聴者が求めているから、という建前があり、そのために選手に迫っていたことになるのだから、そもそも視聴者(とは限らないがこのように表現しておく)がこれまで反対をしていなかったのだとしたら、私たちも加害側にいることになる。これは弁えておかなければならない。大会は非情だ、けしからん、などと責める資格は、私たちにはないのである。
 
もうひとつ、この会見拒否問題について、様子を見ていたことがある。それは、キリスト教会の反応である。検索を重ねてみたが、どうにも出会わない。もし以下のような声が出されていたのであれば、お教えくだされば幸いである。
 
キリスト教会といっても、基本的にプロテスタントである。カトリックはこんなことをしないと聞いている。恐らくカトリック教会はすべてそうなのだろうと思う。プロテスタント教会でも、するところとしないところとがあるはずだ。ただ、多くの教会では標準的にやっている、あるいは少なくともやっていた、ということは間違いないだろうと思う。
 
何のことか。新しく教会に来た人の紹介である。そしてしばしば、インタビュー的な応対をしたり、一言挨拶をさせたりすることである。
 
これについてはかつて、 八木谷涼子氏が触れた稀有なケースがある。この人の名前をもしご存じない教会があったとしたら、教会の存続のために必ず覚えておいておくようにとだけお伝えしておきたい。キリスト者ではないが、数多くの教会を知っており、聖書やキリスト教会の歴史についての知識についても、キリスト者に劣ることはないだろうと思われる。
 
教会について書いた本の中で、プロテスタント教会の「名物」と言っているが、「あの礼拝後の報告タイムにおける新来者紹介」のことに触れている。「その教会にとっては定例プログラムのひとつにすぎないのでしょうけれど、その日はじめて訪れた人間にとっては緊張の瞬間です」と記している。この本は教会関係者に向けて書かれたものであるから、ずいぶんとソフトな書き方である。さらに、なかにはこれを喜ぶ人もいるから、紹介タイムを廃止せよと言うつもりはないとも衝撃をやわらげている。
 
だが、私は廃止すべきだとしか考えていない。
 
もうすでにお分かりだと思う。教会のこの新来者紹介は、大坂なおみ選手における記者会見と同じなのである。
 
だから私は期待していた。大坂なおみ選手の報道を受けて、教会から、新来者紹介をしていたことを悔改め、もうしない、という宣言があることを。あるいは、教会のこの慣習はいけない、という意見が飛び交うことを。
 
しかし、私の調べた限りでは、皆無である。
 
気づかないのだ。教会が加害行為をしていたという思考回路が、はたらかないのだ。
 
教会はしばしば、戦争責任を考えろとか、加害者だと自覚をしないのはおかしいとか、政治的な分野では、論敵に対して厳しい指摘をする。しかし、これほど明らかに比較可能な、そして思い当たって当然の、テニス界でのメンタル事件と、教会の日常とが、全く結びつかないらしいのである。私はこれを、滑稽で片付けるゆとりはない。深刻だと思う。もちろん、いまはそんなことはしていない、という声もありそうだが、以前行っていた、あるいはしばしば行われていることを知っているのであれば、その点に触れる声が、インターネットの世界にひとつくらいあってもよいはずである。それが、ないのである。
 
最後になって恐縮であるが、大坂選手自身の回復を望み、これからの何か配慮が働くことを期待したいと思う。同様に傷つくアスリートやアーチストなどのことを考えたいし、それを外野からはやし立てるような立場で傍観している自分ではないようでありたい、という願いを明らかにしたいと思うものである。



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