【メッセージ】知る
2021年6月13日
(ヨハネ一2:1-17)
子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。(ヨハネ一2:14)
分からないことがあると、辞書を引く。図書館に行って、こうした本に書いてあるかしら、などと考えてみる。図書カードをぱらぱら弾きながら、そこに記された内容と、自分の関心とを一瞬のうちに照合して、借りる本を選ぶ。カウンターで受け取ると、なんだこの重さは、と驚くこともあるし、完全に期待はずれであることにすぐに気づくこともある。後に、閉架式の部屋に入ることが許されたときには、古書店のような臭いさえ漂うような中で、開きながら確かめることができたから、失敗は少なくなりましたが、それにしても目指す情報を得るために何時間やら何日やら、時間を潰すことは常識でした。
若い人には信じられないかもしれませんが、かつての大学で何かを調べるというのは、そういうものでした。いま、検索欄に文字さえ打てば、1秒で何万という資料が並ぶというのは、脅威というよりは完全に別世界のようです。ジェット機で旅する土地へ、徒歩で行くような暮らしを、当たり前だと考えていたあの頃、いったい何を自分はしていたのか、もう恥ずかしいほどです。
けれども、のんびり歩きながら、足元の小石を拾っては、つくづくと眺めるかのように、そして顔に当たる風に天候の変化を予想するなどするかのように、無駄なことも含めて、ひたすら「考える」ことをよくしていたのは確かです。
いまは情報過多の時代、マジックのように情報が現れ消えるような中で、私たちはどれほど「考える」ことをしているのか、そうした反省点はあって然るべきだろうし、それを忘れることはよろしくないのではないか、とも思われます。
でも、それも強がり。あの歌の歌詞、どうだったっけ、と不思議に思ったら、ちょちょいと検索して数秒で判明する、この時代に慣れたら、すぐに「ドラえも〜ん」と頼るのび太になっている自分を見出して、ありがたいやら、情けないやら、なんとも説明できない笑みが浮かんでくるのを覚えます。
子どもたちも、知識は格段に増えます。授業中にタブレットを使うことが多くなりましたが、教師の側がど忘れをしても、「先生、○○です」と生徒が調べて教えてくれると、実のところ助かるし、正しい知識が共有できるし、充実した思いを懐くことができます。
でもその反面、生徒たちの語彙が少ないことも気になっています。もちろん大人ほどの語彙がないのは当たり前ですが、どうも年々減少しているように感じます。家のつくりや、体の部分の名前はもう壊滅的とも言えます。新語はよく知っていても、少し古い言葉や文化については、悲観的になります。それだけでなく、花や虫の名前を知っているかどうかという点については滅亡寸前です。いや、私たちも、親の世代と比べると知らないほうに傾いていますが、そこそこ田舎風景のある土地で、アブラナもレンゲソウも知らない子どもたちが大部分という反応を見るにつけ、今後どうなっていくのだろうかと不安になります。生き物は、共に生きる命たちですから、もっと知ってほしいと願うのです。
今日は、ヨハネの手紙の中に、「神を知っている」というような意味の言葉がたくさん出てくる箇所を開きました。私たち人間は、もしかするとレンゲソウのように、神を知らないという方向に走っているのかもしれません。いや、神を知っているぞ、と誇る人も、さてそれは何か違うものを神だと思い込んでいやしないか、ちょっと振り返る機会になれば、幸いだと思います。
2章の前半だけを切り取りましたが、次々と話題が飛び交い、目まぐるしく関心が変わっているかのように見えるかもしれません。ここにはおそらく5つに切り分けて読むと、理解しやすくなるのではないか、と思いました。
1節と2節では、私たちが罪を犯さないのが理想だが、罪を犯してもイエス・キリストがその罪を償ってくださることを伝えます。
3節から6節までは、神の掟を守るべきことが告げられています。それは、神を知ることであると言い、そうしてイエスを模範として歩むように促されます。
7節から11節までは、この神の掟は古いままの掟ではなく、それを新しい掟として捉えるように教えています。また、光と闇との対比から、人を憎む者とならないように言います。
12節から14節までは、こうしてもたらされる罪の赦しと悪への勝利について、それが神を知っていることに基づくことを強調します。
15節から17節までは、世に心を奪われることを戒めます。それが罪や悪に負けることになるからだと思われます。
こうしたまとまりがあると、ユダヤの文学ではしばしばその中央にクライマックスがあると考えられています。そのように記す伝統文化があるというのです。すると、旧約の律法が新しい掟と成り代わっていることを、この手紙は大きく取り上げたいのではないかという気がします。事実、ヨハネによる福音書もそうでしたし、それを受け継いでいると思われるこの手紙もまた、新しい掟を表に掲げます。それは、愛し合うことでした。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
しかし今日はここを詳しく訪ねることは致しません。また、同じこの第三の部分には、光と闇のことが書かれており、これもヨハネの名を冠する文書には目立つものです。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:5)
ですから、ここにあるのは、ヨハネ文書全般にある思想のひとつの力強い現れだとも見られますが、せっかくお開きした今日の箇所には、そのほかにここにこそ挙げられている、注目点があると思うので、そちらに関心を寄せてみることにします。
それが、最初に少し寄り道をしていた時に触れました、「神を知っている」ということです。これが、先ほど5つに分けた部分のうち、中央を取り囲むように、2つめと4つめのところに並んでいます。ヨハネの手紙のこの箇所は、「神を知っている」という捉え方によって、神の新しい掟や光と闇との思想を支えようとしているように見えるのです。そこで、この「神を知っている」と書かれているところを改めて取り上げてみましょう。
2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
2:4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
2:13 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
2:14 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
あまり論理的にのみ捉えることは相応しくないと思われますが、内容をすっきりとまとめるならば、これらは次のようなことを言っていることになります。
・わたしたちは神を知っているから、神の掟を守る。
・「神を知っている」と言うだけで守らないのは嘘つきである。
・神を知っていることと、悪に勝つこととは同じように考えてよい。
・神やイエスを知っていることと、神の言葉が家にあり、悪に勝つことと同じである。
前者2つは同じことの2つの側面でしょう。後者2つもまた、同じことの2つの側面でしょう。細かな言い換えがどれほど微妙な差異に基づいているかということよりも、しばしばこれもユダヤ文学にあるように、同じことを述べるために表現や単語を入れ換えるのだというように捉えてよいのだとすると、ここは2つのことが要するに言われていると考えられます。
・神を知っていることは、神の掟を守ることである。
・神を知っていることは、神の言葉で悪に勝つことである。
もちろん、私たちは自分で悪に勝つのだと勇ましく考える必要はありません。第一の部分にあったように、罪はイエスが解決していたのです。また、最後の部分にあったように、世を避けることがそのための知恵になると考えられます。
また、「神の掟」と「神の言葉」というものに大きな差異がないとするならば、これら2つは次のようにまとめることもできるでしょう。
・神を知っているならば、神の言葉で悪に勝利する。
さあ、私たちは聖書を読み、神の言葉をそれなりに知っている、とします。そしてもちろん、信仰している人は、神を知っていると言うでしょう。これから知りたいと思っている人は、どう思われたでしょうか。知ったらいいことがあるかな、と思えたでしょうか。それとも、ちょっと引いてしまったでしょうか。
いったい、「神を知る」というのはどういうことなのでしょうか。それを問うた人は、実に鋭い人です。私は知っていますよ、などと反射的に口にするようであっては、きっと永らく知ることなどないでしょう。そのように、この「知る」ということには、立ち止まって考える価値があるのです。
紀元前399年、アテナイの獄中で死刑判決に従い、脱走を備えようとする弟子たちを制し、自ら毒杯を仰いだという、ソクラテス。青年たちを騙しているという訴えを交えたものでしたが、自他共に認める知者たちに向けて、根本的な問いをぶつけ続けたことが恨みを買ったとも考えられます。「そもそも○○とは何か」について相手に答えさせては、その矛盾を突くというやり方は、確かにいやらしいものです。ソクラテスは、神託を受けて、ソクラテスほどの知者はいない、と言われたために、そんなはずはない、と知者を訪ね問いかけたというのがその発端でした。そうして問いを重ねた結果、ソクラテスは納得します。世間の知者は、自分が物事を知っていると豪語するが、実はとことん問い詰めると何も知らないことが判明した。そこへいくと自分は、自分が何も知らないということは自覚している。このことが、神託でいう、ソクラテス以上の知者はいない、ということだったのだ、と。
以前はよく「無知の知」と言われていましたが、いまは「不知の自覚」というように称される、哲学の重要なスタートとなるソクラテスの考えです。いかにもギリシア思想らしい「知」を指しているような気もしますが、ソクラテスの思想はプラトンが形成したキャラクターである部分が多いとしても、ほかにプラトンの弟子のような位置にいる巨人アリストテレスがいます。こちらもまた、「知」について論じていますが、それは「学問」に近い位置を占めるのかもしれません。つまり「知識」です。これに対するものが「技術」であることから、いまでいう「科学」を想定するとさらに理解しやすいのかもしれません。
急に近代になります。1600年前後に活躍したイギリスのフランシス・ベーコンは、哲学者であり政治家でもありましたが、有名な「知は力なり」と訳される言葉が有名でしょう。むしろこれも「知識は力である」と言ったほうが適切かもしれません。経験や実験により自然のしくみを理解する知識によって、生活に役立てることができることを主張しました。まず聖書の真理が先にあって、それを人々に落としていくようなそれまでの知のあり方から、経験を重視する方向へと大きく舵が切られたのでした。
ベーコンより若干遅く活躍したルネ・デカルトは、フランスの哲学者であり、自然科学者でした。近代哲学の祖とも言われ、私たちの考え方の基礎となる世界を切り拓いたとも言われています。中世の宗教支配の時代からルネサンスを経て、デカルトは、神や聖書を根拠としないで真理を確立しようとします。誤ることのない知識はどうすれば得られるか。これを原理から説明していくべきだとしますが、肝腎のその原理が問題です。思考を重ねた末、デカルトは「思考する自我」の存在を原理とするのが相応しいと考えました。「私」の存在が、何かを知ることを真理だとしていくための第一の原理となるのだ、と。
すべての哲学がカントに流れ入り、それ以後のすべての哲学がカントから流れる、とまで評される哲学者カントは、18世紀に、確実な知識が科学で成立し、科学が発展していることを認めつつも、自由や神の存在などを問うような形而上学については、一向に意見がまとまらず、戦争のような状態が続いていることから、それらは何故かを説明しようとしました。そして確実な知識と、従来の形而上学のように一見知識のようでありながら根拠のない、信用のならない知識とがあることを峻別します。こうして、ベーコンとデカルトの考えの違いが生じた理由を明らかにします。但し、自由や神のような問題は、科学的な知識とは別のタイプの知識として、道徳の領域で大切にされるべきとし、自身の手による道徳の形而上学なるものを打ち立てようとしました。
20世紀を生きたフランスの哲学者フーコーが「知」について有名な考察をしているので最後にご紹介します。文化や社会の構造により意味を読み取ろうとする立場をとりますが、フーコーはギリシア思想の「知」、つまりエピステーメーという語を用いて、社会や時代によって「知」の枠組みが異なることを指摘しました。同じ語を用いていたとしても、人々はその時代や環境によって、全く違うものを思い描き、思考するというのです。
この最後の指摘は、いまの私たちにとっても非常に重要です。聖書を読むとき、まずそれを現代の日本語に訳しますが、その訳語で私たちが考えるものと、その原語が福音書記者やパウロなどが想定したこととが、果たして一致するという保証があるのでしょうか。聖書を、私たちの文化の中で勝手に理解して、その私たちに引き寄せた意味での思い込みによって、いま私たちが考える信仰や道徳といったものにはめこんでしまっている可能性は十分に考えられるのです。
私たちが「知っている」と思っていることは、ずいぶんと独り善がりな「知」であるのかもしれません。しかし、それが独り善がりかもしれない、という危惧を常に胸に懐きつつ物事に対処するのと、全くそんなことは思いもよらずに、自分では自分が正しいと思い込んでしまうこととは、雲泥の差があると言わざるをえません。時代も文化も違う中で、「奴隷制に反対していない」とか「人権を配慮していない」とか言って聖書を論駁したつもりになっているような態度をとることについては、そういう捉え方は何の意味もないことを弁えなければなりません。
その意味では、「不知の自覚」という哲学の大きな原理について、誰もがよく考えてみる必要があると言いたいと思います。
しかしまた、こうした「知識」についての考え方は、「神を知っている」という今回の言葉を理解するには、殆ど役立ちはしないようにも思えます。神について、インターネットで検索すれば、神を知ることができるのでしょうか。そんなはずはありません。考えるヒントは得られるかもしれませんが、検索で知るというものでは明らかになさそうです。それどころか、有害な情報が飛び込んできて、とても「知る」どころではなくなるかもしれない虞もあります。
いまや知識や情報が多すぎて、それをどう受け止めるかという点が重要になっています。情報についての「リテラシー」の必要性が問われているのです。「リテラシー」とは、言語としての文字を読み書きし、理解できること、またその能力をいいます。同じ語でも私たちは無意識にちゃんと意味を使い分けています。先日小学生の授業で、「目」という言葉も私たちは様々な意味で用いており、しかも混乱しないで使えているのだということを考えました。「ひどい目」「台風の目」「見た目」「さいころの目」「落ち目」など、いろいろな「目」を、視覚に関わる「目」と混同することなく私たちは使い分けています。それなのに、聖書の言葉となると、同じ語はいつでも同じ意味でしか使わないのではないか、と考えて理解するような読み方がなされることがあります。そんなはずはないのです。
「神を知る」というのと同じ意味で、「アダムは妻エバを知った」(創世記4:1)と言っているのではないし、「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい」(士師19:22)とならず者が襲ったわけではないでしょう。これらは性的な交わりを指しているはずです。これは日本語でも、(刺激的な表現なのでお子様は無視してください)「女を知る」とか「男を知る」とかいう言い方をするので分かりやすいのではないかと思います。
しかしこの通俗的な「知る」という使い方については、こう捉える道がありうるかと思います。つまり、恋愛とは、他の環境で育った他人がひとつの家族となることの備えになる営みです。簡単にその相手のことを「知っている」とは言えないでしょう。夫婦を長年務めてきて、ようやく相手のことが分かるということを、多くの人は経験します。そのため人が人を「知る」というのは、よほど深い交わりが必要になる事柄なのではないでしょうか。肉体的にも精神的にも、深く交わり、関わることが、ようやく「知る」ということの、ある意味でスタートとなる。表面上の付き合いではなく、何かしら深いところでのぶつかりあいが、そこにあると思われます。
そうなると、「神を知る」ということも、「顔見知り」ではないし、「知り合い」というくらいのものでもないに違いありません。
よく見ると、「あなたがたが御父を知っている」という言い方と、「あなたがたが、初めから存在なさる方を知っている」という言い方があり、後者はイエス・キリストのことを指していると思われますが、いまは違いを拘らないことにします。私たちにとり、「神を知っている」というのはどういうことは、そこが一番の関心事だからです。それは、いまの人格的な交わりの例から推測すると、「神と深い人格的な交わりをもつこと」だと捉えることができようかと思います。あるいはまた、「神との関係ができていること」だと言ってもよいでしょう。これは、たとえ私たちが切ろうとしても切ることができない「絆」でもあるようにも感じます。
先ほど確認したように、「知る」、これはある意味で「体験」です。頭で考えること、うわべだけの「知識」ではありません。このことには少しだけ注釈が必要です。イスラエルの考え方では、「知識」と訳している語は、いま私たちが想定する「知識」とは違うはずです。私たちはいま「知識」というとき、自己ではないものを「対象」として観察し、あるいは思考して、それについて何らかの認識を得るときに、それが「知識」であると考えます。それが客観的な知識であり、その対象と認識が一致しているその知識こそが「真理」である、とするのです。けれども現代思想は、哲学にしろ物理学にしろ、そうした「知識」はまやかしだということに気がつきました。
どこに問題があるのでしょう。私たちは日常、ある意味で当たり前のようにそのように考えているのではないでしょうか。しかし、まやかしです。観察している自己は、どこにいるのでしょう。まるでテレビ画面で、戦争や災害の風景をただ眺めているかのように、自分は何の影響も受けないし、影響も与えない、そんなふうにして、対象を眺めているというのが、健全なのでしょうか。
通り道で立ち止まってしまう人がいます。ほかの人が通るときに邪魔になるという感性をもてないでいるのです。傘をさして庇の下で雨宿りしている人がいます。傘のない人がそれをよけて雨に濡れても、なんとも感じないでいます。そう広くない道で、左端にぴたっと車を寄せて留めている人がいます。歩行者が道の真ん中を避けて行かなければならないことに、何の良心の咎めも感じません。どれも、自分がその世界にいて、そういうところにいることが人を嫌な目に遭わせるということを、完全に忘れているのです。その世界に自分がいるということを覚ることがなく、世界の中で消失した自分の眼差しから、人々の動きをただ自分とは無関係なものとして眺めているだけなのです。
確かに、近代文明は、このような錯覚をして歩んできました。それがさすがにこのごろでは、人間が自然を破壊しているということに少し気づいてきました。流行語にもなっているかのような、SDGs(持続可能な開発目標)は、こうした反省に基づいているようでもありますが、なんとか生き延びたいという動機から騒いでいる人もいるようです。甚だしいのは、これをビジネスチャンスとして、儲かるために利用している輩ですが、いまはそのようなことを非難することを目的とはしていませんので、このくらいにしておきましょう。
神を知る知識というのが、このように自分を消失して、世界と関わりのない無責任なあり方に基づくものではない、これだけは確実でしょう。私は神と出会い、神と向き合っています。神と関わっています。神とつながり、神と交流があります。
キリスト教では、特にプロテスタントにおいては、このような神と自分との関係を想定します。しかし最近、ユダヤ人は異なるという説明を見て、唸らされました。ユダヤ人にとっては、神と自分と、そして他者、すなわち「あなた」と呼ぶ人が必ずそこにいる、というのです。人と人との関係を抜きにしては、神との関係はありえない、と捉えているのだそうです。これは素晴らしい世界観だと気づかされました。
けれども、彼らにとって神は当然そこにいるものであって、神あってこその、人との関係です。さすが元来神に選ばれた民族です。見事です。私たち異邦人ははその、神が当然そこにいるというところにも、案外届いていないかもしれません。ですから、やはりまずは神と自分との関係に目を向けましょう。聖書の言葉を神からのものとして受け取り、その言葉を通して神と出会うというところを押さえましょう。このスタート、この基盤を強くしておく必要が、きっとあります。岩の上に立つ思いで、神を知る、神を体験することを求めようではありませんか。
但し、注意すべきことはあります。自分のふとした弾みで気づいたことを、究極の真理であるかのような思い込んでしまう虞が、人間にはどうしてもあるのです。だいぶ毛色の変わった聖書の理解をしているグループがあります。概ね聖書を共に読み、話す立場のカトリックやプロテスタント、東方教会などとはあまりにも違った読み方をしています。どちらがどう正しいかについてとやかく言おうとは思いませんが、言えることは、この違う読み方をするグループは、自分たちの読み方が唯一の真理であり、ほかのすべての教会たちは間違っている、と強固に考えているということです。どうかするとその熱い一筋な姿勢には魅力があり、自信満々に話をすることから、そこに惹かれていくとすっかりその考えの虜になってしまうことがあります。気をつけなければなりません。「自分たち以外はすべて間違っている」というような言い方をし始めたら、そこからは離れることが賢明です。
それとはまた少し違いますが、聖書を、自分の気に入るような読み方で済ませてしまう、という誘惑もあります。自分に都合の悪いところは避けて、都合よく見えるところだけを取り上げる。しかも、文脈も関係なしに、また背景的な知識や文化と関係なしに、そして自分の気に入ったようにばかり読むということも、陥りやすい罠です。聖書を神からのものだと思うならば、それをたかが人間の、さらにつまらぬ自分が、全部分かるなどということがあるでしょうか。私たちは絶えず聖書から、聞くことを願いながら、祈りながら、今日も明日も、聖書を開くのです。
神を知るというのは、神を知り尽くすことにはなりません。ただ、確かに神と出会い、神との交わりとつながりを確信することではあるでしょう。そのようにして神を知る者のところに、ヨハネは手紙を書き送りました。つまり、神からのメッセージが、適切に伝わるようにもたらされたのです。神を知るとき、聖書の言葉は、必ず命となり伝わっていきます。聖書は、必ずその人を生かすのです。