【メッセージ】ある・する・なる

2021年6月6日

(ヨハネ一1:1-10)

わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ一1:4)
 
「れる・られる」の助動詞。用法が出てきますか。「受身・尊敬・自発・可能」、順番はどう覚えていてもよいと思いますが、昔はただ覚えさせられただけ、というところだろうと思います。けれどもこの四つの用法、いかにも無秩序というか、関連が分かりません。確かに私たちは言葉として、これらの意味で「れる・られる」を用いており、その点に異存はありませんが、なぜこんなばらばらの意味になるのか、については、不思議です。
 
教わって、覚えておられる方もいらっしゃるかと思いますが、これらの中で基本的な用法は「自発」だと言われています。「あの人のことが偲ばれる」のような例文で、「自然と」心に浮かんでくる、といった意味で使います。いまは国語の授業ではありませんから、暴走はしませんが、日本語の感覚では、たとえば「できる」というのも、「自然の成り行き」という捉え方をしていたと思われ、それでこの「自然に」の「自発」が「可能」へと用いられるようになった、と考えられます。
 
この「自然」という語を、「nature」の訳語として使われ始めたのは、幕末から明治の頃だと思われますが、この訳については様々な研究がなされています。私たちの文明や未来についても大きな影響を及ぼす、ものの見方の問題ですから、これだけを話しても何時間かかるか分からないほどです。もともとは「じねん」と読み、まさに「自ずから然らしむ」として、「あるがままの状態」を表す言葉だったはずですから、先ほどの「自発」の考え方と重なることは、ご理解戴けるだろうと思います。
 
「コップが割れた」と口にすることはないでしょうか。自動詞「割れる」を使うなら、コップが自分から割れたことを意味するはずです。普通そんなことはありません。「私が割った」という言い方をしないのは、責任の所在をうやむやにする、などとも言われますが、先ほどから申しております、「自然にそうなる」見方をする私たちの素朴な世界観を反映しているとも言えるでしょう。
 
自然とそう「なる」というのが心の底にあって、わざわざ誰かが「する」という考えを避けようとする。日本語の中に具わった、そして私たちの考え方の基盤となっている、確かな性質です。
 
だから、政治の世界でも、責任がうやむやにされもするし、気がつけばいつの間にか水に流されていたというような、「なるようになる」ことがしばしばあるわけですが、それは単に政治家だけの問題ではなく、この社会を構成する見えない力であるようにも感じます。
 
さて、長い前置きでしたが、ここでヨハネの手紙に入ります。パウロの手紙のように、人間らしい挨拶がすっ飛ばされて、驚くべき始まりをここに見ます。
 
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
 
ある意味で、これは一部の読者をドン引きさせてしまう冒頭です。「初めからあった」と言っているものは、この先を読めばキリストを指していると考えられますが、ざっくり捉えて「神」だと受け止めておいても、理解が遠ざかることはないものとしておきます。
 
キリストなり神なりが、「あった」とするのは、信じない人にとては受け容れがたいこととなるでしょう。信じる人にとり、それは「ある」ものですが、信じない人にとって神は「ある」と無条件にぶつけられても、戸惑います。いったい、神は存在するのでしょうか。
 
古来、哲学者や神学者は、神の存在の証明にはまりました。神学者にとり神の存在は当たり前のことでしたが、それでもこの証明に躍起になっていたのは、もしかすると、反論者がいたという事情からかもしれません。「いったい神は存在するのか」との疑問は、現代人のみならず、古代人でも当然あったでしょう。それに対する解答というものが求められたときに、その説明が必要になったわけです。
 
最も簡単なものは、「完全なものは存在を欠くはずがなく存在する・神は完全なものである・よって神は存在する」というものですが、これで「なるほど」と納得してしまう人が、果たしてどれくらいいたのでしょうか。いえ、たいていは「なるほど」だったと思います。その時代の常識というものは、ささやかな根拠を知ることで、いっそうそれを納得するものです。ひとは、自分の考えや自分の立場を、専ら正当化したいからです。初めに結論がありますから、理由を付けて一層安心したがるのです。
 
しかし哲学者は、自己満足のためではなく、論理的に正しいこと、真理と呼ぶに相応しいことを追究します。たとえばこんな説明もしてみました。「ここにある現象には原因がある。その原因にも、それを結果とするための原因がある。こうして遡っていくとき、無限に原因が定まらないのは矛盾する。よって第一の原因がなければならない。これが神である」などというのです。これは、何もキリスト教世界ではなく、古代ギリシアで掲げられたひとつです。後のキリスト教は、ギリシア哲学を知ったとき、それを活用することを考えました。よく見るとそこにキリストの入り込む余地はないのですが、神の存在ということで、使えると思ったものは何でも使おうとしたのだろうと思います。他にもたとえば、「自然のしくみの巧妙さを知るにつけ、これらが偶然できたとは思われない」というような形で神を説明する場合もありました。神を否定するという文化はなかったので、その神の栄誉のためとなれば、人類の知恵を懸けて、ありとあらゆる仕方で神の存在証明がなされていくのでした。
 
18世紀の哲学者カントは、わけあって、こうした証明は間違っている、少なくとも成立しない、ということを明らかにしたということになっています。そしてそれ以降、確かに従来の形で神を証明したつもりになる思想家はなくなりました。
 
ところが、です。そもそも聖書は神の存在証明をしているかどうか、気になりませんか。その答えははっきりしています。聖書は、神の存在証明をしていません。
 
初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)
 
聖書はこれから始まります。「神」が主語としてもう活動をしています。この神は果たして存在するのか、そんな発想そのものがありません。神はすべての大前提であって、その存在を問うような対象ではないのです。
 
神は端的に「ある」ものであって、さらにいえば「ある」方です。人と交わりをもちうる、表現は奇妙ですが、私たちの理解する「人格」をもっているのです。いえ、本当は順序が逆で、まず神に、私たちのいう「人格」というものが具わっていて、それを、創造した人間に与えたのかもしれません。たぶんそれが本当です。
 
少なくとも、聖書はそういう立場で書かれていますから、神の存在証明を期待しても、残念ながらそれは手に入れられません。それで、この不思議な手紙・ヨハネの手紙の最初の箇所ですが、「初めからあったもの」(1)、「御父と共にあった」(2)と、やはりただ「あった」ことから始まっていることも、聖書らしい始まりだと言うことができようかと思います。
 
いまの「初めからあったもの」と「御父と共にあった」ものは、ここでは「命の言」のことだと書かれていますが、流れを読むと、イエス・キリストのことを指しているであろうことはすぐに分かります。キリストは、最初からあった。これは由々しきことかもしれません。神が天地を創造したのに、御子キリストは、最初からいたというのです。
 
この「神は光であり、神には闇が全くない」(5)というところにも目が行きます。「光である」というふうにありますが、その「である」というのは、「がある」と強い関係があるものと考えられます。英語だと、これは唯一無二のタイプの動詞・be動詞の働きです。繋辞と呼ばれる、いわば「=」で結ぶ役割を果たす使われ方がすぐに頭に浮かびますが、「がある」「がいる」という使い方もあります。この辺り、日本語もちょうどパラレルになっていて、「である」と「がある」は別の語のように働きますが、どちらも「ある」です。
 
ここでは神は全き光で「ある」し、闇では「ない」と確認しています。神とはそういうものだろう、というくらいの理解でここは受け止めておきましょう。問題はその次です。手紙は、この神がどうで「ある」ということを、いわば無条件に宣言すると、次は「わたしたち」をもってきます。
 
1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
 
この対比に注目しましょう。わたしたちが闇の中を歩むか、光の中を歩むかによって、続く道がまるっきり変わってしまいそうです。簡潔に示すと、「闇の中を歩む」→「うそつき」→「真理を行っていない」の流れがひとつ言われています。「うそつき」というのは「真実」の反対ですから、「イエス・キリストとは違う」ということだとすると、ここで言っていることと同じ意味なのは、「真理を行う」→「闇の中を歩んでいない」ということになります。
 
ここに私たちは、「する」ことが求められているように感じます。ここはキリスト教の歴史の中でも大きな注目点となります。果たして救われるためには「する」あるいは「行う」ことが必要になるのか、という問題です。確かに意味は、「真理を行う」→「闇の中を歩んでいない」と理解してよいのですが、これは順序あるいは事の流れに沿ってはいない、ただの論理と見ることを勧めます。つまりヨハネの手紙は、確かに、「闇の中を歩む」→「真理を行っていない」の順番で教えていることが見て取れます。
 
よい方はどうでしょうか。「光の中を歩む」→「交わりをもつ」→「罪から清められる」の順です。これもそのままに受け取りましょう。「罪から清められる」のは結果であって、条件ではない、ということです。
 
しかし、それでもやはり、「闇の中を歩む」または「光の中を歩む」というのは、依然として私たちが「する」ことのようにも見えます。私たちは「する」ことにもっと神経を注ぐべきなのでしょうか。
 
そこで、ここでは「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら」とあるところに目を向けましょう。敬語が使ってありますが、要するに「神が光の中にある」ということが前提となっています。そうです。先ほどから見てきた、聖書における大前提、「神がある」からスタートしているということです。私たちは、「神がある」それも「光の中にある」という大きな基盤の上に、このような手紙や福音書を読んでいるという点を、もっと信頼したいと思うのです。
 
けれどもここで問題が起こります。手紙は、これに続いて、「自分の罪」という問題を出してくるのです。「神がある」それは分かったけれど、そこに「自分の罪」が見えてきたら、どうなるのか。神は「罪から清める」といま言ってくれたではないか。だのに、自分を見つめると、どうなのか。私はこんなにも小さい。私は嘘つきだ。でたらめだ。何もできない。口先ばかりだ。つまりない奴であり、願ったことは何も起こらない。
 
このとき、分かれ道が現れます。「自分に罪がないと言う」(8)のか、それとも「自分の罪を公に言い表す」(9)のか、という分かれ道です。
 
私たちがもし「自分に罪がないと言うなら」(8)、それは悪いことだと突き放ちます。それは「自らを欺」(8)いていることです。このとき、「真理はわたしたちの内にありません」(8)といい、「あるのではない」ことを強調します。しかし「自分の罪を公に言い表すなら」(9)、罪は赦される、そこにほんとうに清めがあるのだ、と手紙は告げています。この赦しがしかも、神の真実に基づいているのだ、と言います。
 
「神は真実で」(9)というこの「真実な」は、「信仰」と訳す語の形容詞です。人から神への「信仰」と呼ぶものは、一般には「信頼」を意味し、神が人を「信頼」することをも含みます。私たちと神との間にあるものは、互いにこのような「信頼」であることを、忘れないようにしたいものです。私の思いは、行いは、神との信頼関係の中に成り立っているでしょうか。もしかすると、信頼関係を破壊するようなものとなっていないでしょうか。
 
でもその「信頼」は、私が立派なことを「する」ことに基づいてはいないのではないか、というのが今日の箇所から受けたい恵みだと考えています。私の信頼している世界には、確かにもう常にすでに「神がある」のであり、「神の光がある」のです。そのことを信じているのならば、それでよいのだ、と聖書は迫ってくるように感じてはいけないでしょうか。そこから、私たちはスタートしていきたいと思うのです。
 
手紙が繰り返す警告だけは聞きましょう。「自分に罪がないと言うなら」(8)、「罪を犯したことがないと言うなら」(10)、真理も神の言葉も、「わたしたちの内にありません」(8,10)と繰り返すのです。それほどに私たちは、自分の罪が見えなくなります。罪にばかり目を奪われるのは神を見失うことになりますが、神を見ているつもりで、いつの間にか自分の罪が見えなくなるのも事実です。手紙は、きつくこれを戒めています。
 
このことにさえ気をつけているならば、「神がある」ことから、私たちは安心して「する」ことができるのだ、というように、私たちはよいニュースをここから受け取りたいと思います。
 
これでメッセージを閉じることもできますが、さらにこの箇所から、もっとよい知らせを受け取ることができることに、私は気づかされました。
 
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
 
ここには、明らかに「目的」が書かれています。ヨハネがこうして伝えている。こうして手紙を書いている。それには目的があるといいます。その目的とは「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるため」(3)であり、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」(4)です。目的は、ただの目標に留まらず、この条件でこの過程で事が進んでいけば、きっとそのように「なる」ことを意味すると言えるでしょう。そう、この2つの文には、それぞれ「なるため」、つまり「なる」という訳語が使われていました。目的を表すために適切な表現だろうと思います。
 
信仰は、それを信じるならば、信じたように「なる」、そのことを信じることです。ややこしくなりましたが、どこまでも「信頼」がつきまといます。もう一度この重層構造を繰り返しますが、信頼するならば、信頼したとおりに「なる」、このことをもさらにまた信頼する、そういうことです。
 
信頼したとおりに「なる」、それは希望でもあります。私たちは希望してよいのです。希望が与えられています。そのように「なる」ことを希望できるのです。
 
最初に、日本語における考え方のベースを押さえてみました。「れる・られる」の助動詞を通じて、それが「自発」の考えに基づいていることを捉えました。日本語には、人が何かをすることなくとも、「自然になる」思想が隠れているのではないかと指摘しました。だから、「なるようになる」とか「仕方がない」とか言って、自分の思想や行動などを抑制し、あるいはそのことから責任の所在を明らかにしないままに、「自然になる」世界観を宿しているのかもしれない点を意識しました。
 
聖書もまた、「なる」ことを言っていました。けれどもそれは「自然になる」のではありませんでした。かといって、人が「する」から「なる」のだ、という勢いもそこには感じられませんでした。近代思想ではどうしても、人が「する」から「なる」という経緯を大切にしていく傾向が出てきましたが、古代は、たとえばギリシア思想でも、そういった考えは薄いと思われます。ギリシア思想には、近代的な「意志」という考え方が見られないのです。だからやはり責任思想も近代人とは違います。
 
聖書の世界もそれに近いものがあります。ただ聖書の世界では、今日見てきたように、「神がある」ことから始まり、そこから人が「する」ことが導かれるという経路を辿ってくるものを見つめました。そしていま、そこからさらに、「なる」こと、特に私たちが喜びの内にいるように「なる」という希望へ導かれることを知りました。
 
「ある・する・なる」、この順序で、聖書がひとつのストーリーを私たちに見せてくれているように感じます。そう、この順序です。神が「ある」ことに安心し、その神が私たちに信頼を置いてくださっていること、つまりはイエス・キリストを下さったことを通じて、私たちが闇ではなく、神の光の中を歩むように「する」道が備えられました。私たちはそのとき、罪を知らないなどと嘘をつくのでなければ、その結果、喜びが満ちあふれるように「なる」のだということを告げられました。
 
「ある・する・なる」、実に覚えやすいフレーズです。今日からこれをひとつの合言葉として、事ある毎に、神と自分との関係を確認し続けるようにすることができると思うのです。私は「ある」ことに信頼を置いているか。私はその信頼関係を裏切らないように「する」ようにしているか。そうしたら目的として、神が結果を「なる」ようにもたらしてくださるということ、このことをさらに信頼しているかどうか、私たちは、あらゆる言葉に、あらゆる行いに、そして見るもの聞くもの、心に感じるものについて、確かめることができるのです。
 
お勧めします。「ある・する・なる」です。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります