「愛する妻に、ありがとう」

2021年6月6日

「愛する妻に、ありがとう」
 
妻がいる男として、こんなことが言えるというのは、ひとつのカッコよさであるとも言えるだろう。どうにも私は言えない気がする。
 
これは感じる方が不純だからだと言われても仕方がないけれど、男の自分がそこそこ威張れることをしてきて、その上でそんな自分を助けてくれた妻に感謝する、という図式がどうしても頭に浮かんできてしまうのだ。
 
朝ドラ「おちょやん」には、史上最低の父親テルヲが登場していた。あのテルヲが、妻に対して「ありがとう」と言っている様子を想像してみる。もちろん「おおきに」でもいいんだが、「ようそんなことが言えたなあ」と非難囂々ではないだろうか。
 
言ってみれば、私もそんなふうな感じなのだ。
 
「ありがとうございます」なら、まだ分かるのだが、「ありがとう」は違う。言葉としては同じ意味かもしれないけれども、語感は明らかに違う。「ありがとう」は、感謝の言葉であり、謙虚な響きをもつ言葉なのであるが、私にとっては、どこか自分について誇らしげであるような気がしてならない。
 
「ありがとう」という感謝を、本来しなくてもよいかもしれないのに、敢えて言うのだから、優しいでしょ、謙虚でしょ、とアピールしているような魂胆が感じられるのだ。もちろん、誰それがそれを言ったときのことではなくて、この私がそう言ったときの、自己分析である。
 
そもそも、「愛する妻」などと、いったい誰をターゲットに言っているのだろうか。妻に対してではない。その人を「妻」などと面と向かって呼ぶ人などいないからだ。つまりこれは、「私はこの妻を愛していますよ」と、第三者に向けて紹介している言葉なのである。愛している自分のこと、偉いでしょ、のような感覚が、私の場合はどうしても伴ってしまう。最初から私は、誰かにそのような内容を伝える必要を感じないし、そんな言い方などとてもじゃないができないだろうと思うばかりなのである。
 
生活というものが、生きて活動することであるのなら、私が生きていられるのは妻の故である。妻がいなければ生活が成り立たない。そしてそんな妻に対して、私は何も貢献できていないし、足を引っ張ってばかりだ。どうして以前あんなに怒るようなことができたのか、自分が信じられない。申し訳ないことだらけで、泣きたい気持ちで一杯だ。
 
テルヲを見て痛々しかったのは、自分を見るような思いがしていたのかもしれない。ドラマを見ていない人には分かりにくい例ですみません。



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