大切なひとのために
2021年6月4日
LGBTQという表現でよいのかどうか分からないが、国会議員のひとりが、生物学的な視点を持ちだして、一方的に非難する見解を公表したことが、物議を醸した。もとよりひとが思想をもつことについて考えるなと圧することはできないが、議員という立場で人権を愚弄することは、法的な問題にはなって然るべきだろう。しかし、この人が悲しい人間だという見解を私は持たざるをえないし、何よりもそれは誤った見解・感情であるというふうには指摘することができると考えている。
いろいろ議論を長くすると、それだけ不快を覚える人も多くなろうし、当事者を傷つける機会も増えるかもしれない。そこでできるだけ簡潔に示す。議論が深まっていないところや、根拠にあまり触れないところは、今回はご容赦戴きたい。
国会議員のひとりとは言ったが、このタイプの考えに呪縛されている人は少なくない。世間にも少なくない。それでこの党は、世間にLGBTQに反発を覚える人がいるから、ここで法案を通すと「選挙に勝てない」から廃案にしたのだという。人権や人の生き死ににさえ関わる問題が、党の選挙の結果に影響が出るからと取りやめる。いったい何のための選挙であり、議会であるのか、情けない。これは他の問題についても、「選挙のため」に実施したり延期したりする。選挙は結果ではないのか。民主主義を愚弄する姿勢に、そもそも憤る。
さて、人権についての問題や、人を数字としてしか見ていない問題なども触れるべきだろうが、このいわゆる保守派が、「種の保存に反している」という指摘が、そもそも間違っているという点を、どうして識者が指摘しないのかを私は不思議にしている。これを言われたら、「それも尤もだ」とでも考えているのだろうか。
ミツバチは巣に、繁殖力をもつメスは女王バチ一匹であるという。彼らの見解でいうと、これは種の保存に反していることになるのだ。地下に住むハダカデバネズミも、群れをつくるが、ミツバチ同様に、繁殖力をもつ雌は集団で一匹である。その雌が出すフェロモンにより他の雌の繁殖力が抑制されているのだという。当の雌が死ぬなどすると、他の雌の中から一頭が自然とその地位に収まるのだという。
生物は、多様性を獲得することで、子孫を残す可能性が拓いてきた。このことは、中学の理科でも皆学習する。無性生殖と有性生殖についてである。もちろん、それだけの単純なことでは済まされない。実のところ単細胞生物である故に生存に有利な側面があるとも考えられるが、いずれにしても、生物はそれぞれ多様性を以て、生存を図ってきたと見なされうる。「種の保存」に必要なのは、この多様性であったという見解が、受け容れられて然るべきであるだろう。
聖書では、「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません」(コリント一12:21)などとパウロがユニークな言い方で説明しているところがある。これに続いて「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(コリント一12:22)とも言っている。
尤も、このパウロが、同性愛はけしからんのような言い方をしている文面も他にあるのだが、それは論文ではなく、書簡である。何かそういうシチュエーションがあって、言わざるをえなかったのかもしれない。パウロを弁護するつもりはないし、聖書の文化では、やはり男女をかなり明確に分けている点は否めない。男か女かという議論のために聖書を用いるのではなくて、ひとを大切にすること、ひとを愛するということ、そういう側面であれば、聖書には学ぶべきことがたくさんある。
LGBTQの人々を迫害し、虐待してきたのがまさにキリスト教だったという点を悔い改めるならば、きっとこれからも、そうした大切な一人ひとりを生かすために、聖書を用いることも許されるのではないかと期待したい。当事者の許しを乞うばかりなのだが。
人間が簡単には説明できないことも多いだろう。ただ、こうして命が続いてきたことはやはりワンダーである。これをキリスト者は、おめでたくも、神の計らいだと考えている。それでいいのではないか。神が、様々な形で命を創り、配置してきた。一人ひとりが、意味あって生まれてきた。とすれば、それを互いに尊重し、大切に扱うことを、この世界での原理としていきたいものである。
自分が思い込んだ「種の保存」は、自然の実情とは違う。ミツバチの、数の上では殆どを占めるメスたちは、存在価値がないなどと言うことを、少しでも恥ずかしいと感じたならば、まして同じ時代に同じ地域で共に生まれ育ち、出会ったすべての人々のことを、大切に扱うのは当然ではないか、ということに、どうか気づいて戴きたい。
少子化の問題は、また別の問題であるのに、特定の人のせいに押し付けるのは不当であると思われる。少子化問題対策を考えるのが、政治家のお仕事というものであろう。自分たちがそれをできないことを、特定の人のせいにするというさもしい精神を暴露するようなことからは、足を洗って戴きたい。