作文は、たのしくかこう

2021年6月2日

国語の授業の一部で、時折「作文」のカリキュラムがある。いろいろ工夫を凝らした教材があって、それに沿って教えていけばよいシステムにはなっているのだが、通り一遍に教えてそれで終わりなどというふうに考えることは私はしない。
 
相手は小学校中学年以下。学校に入ったばかりの一年生はこれまた特別な技術を必要とするが、ここでは三年生と四年生のときのことを取り上げてみよう。
 
まず大きく板書する。「たのしくかこう。」
 
今日の目標はこれだけだ、と宣言する。恐らく、作文の経験は何かしらあるはずである。もし苦手な子がいたら、これでリラックスしてもらおうと思う。稀に、いくらでも書きたがる子もいるし、得意だと自負する子がいてもいい。しかし、そうした子にも、この言葉は響くことができるはずである。学校と違う、塾での作文というので、ちょっと構えていた子も、これで少し落ち着くのではないかと思われる。
 
但し、ひとつだけ了承してもらう。ここは塾であり、国語の授業だから、漢字や言葉遣いについては訂正をしてもらうように教えるから、従ってください、と。
 
もちろん、何をどう書いてもらうか、その課題についての説明はする。短い物語を読み聞かせて、その感想文を書いてもらうときには、あらすじではなく、自分の心の中に思い浮かんだことを書くのだという、大切な点は予め理解させておく。人間なのだから、みんな同じことしか考えないはずがなく、そんなことがあったらみんなロボットだよ、というふうに話すと大抵の子は笑う。つまりこれは、他の人と同じように書かないといけないとか、こう書かなければならない決まった模範というものがないのだ、ということを周知徹底するためである。
 
自分が考えたことを、そのまま書いてよいのだ、という安心感を、くどいくらい与えておく。そして、こうした説明をしながら、事ある毎に「たのしくかこう」と呼びかける。半ば洗脳である。それくらい、先生もこの点については本気なのだと感じてもらうのだ。
 
戦後、作文(綴り方)は、定型のものを踏襲することから、自由作文に大きく舵を切った。しかし、「自由に書け」がどれほど難しいものかは、少し考えてみれば分かる。何でもいいから書きなさい、では、子どもたちはどうしてよいか分からないのである。そこで一定の課題は与えるのだが、それであっても、子どもたちは評価を気にして縮こまる。こんなことを書いたらいけないのではないか。こんなふうに言ったら嫌がられるのではないか。この引き気味の構え方をとにかく最初に崩すのが、こちらの仕事だと考えているわけである。
 
おうちのひとに、こんなことがあったよ、こんなお話を聞いたよ、とお話しする様子を想像して、それを文字に書いてみるだけだ。子どもたちには、様々な形で、事前に幾度でもどのようにでも、背中を押す言葉を投げかける。そしてその都度「たのしくかこう」と繰り返す。
 
そして一旦書き始めれば、子どもたちは、堰を切ったようにどんどん書き始める。
 
誓った以上、こちらも作品の出来には良し悪しを言わないことにする。「たくさんかいたね」が最高の誉め言葉だ。その他、字のきれいな子や、ほんとうに内容の優れた子については、それ相応の誉め言葉はあってもよいが、基本的に「よくかいたね」でよしとすることにしている。「たのしくかこう」という目的が達成されたら、それでよいのである。
 
漢字や言葉については、朱入れをするのでなく、その子を呼んで、ここだけ書き直して、と正しい字を教える。直したら、それで「よし」とにこにこしておく。作文の終わりに、本人に対しての「たのしくかけました」式の言葉と、保護者に対して、楽しそうに書けて立派だったという高評価だけを伝える文を朱で記しておくことで、持ち帰らせる。これで授業終了。
 
子どもたちも、すっかりその気にさせられたのか、「あー、たのしかった」と口にする子が必ずいる。ほかの子もたいてい肯く。この気持ちが一番大切である。これだったら、また書いてみよう、という気持ちになるだろうと思う。もしも、ここはもっとこうしろ、とか、こんなふうに書いちゃだめだね、とか言われたならば、子どもは、書くことが怖くなってしまうだろう。どうせ殆どの子については、まずいところばかりなのである。それを指摘して、先生の側が正しいことを教えたつもりになったとしたら、この世界から文章嫌いを生産するだけてなるだろう。「書くことは楽しい」ことを実感すれば、それでよいのである。
 
そして、保護者には、子どもがこんなにたくさん短い授業時間に書くことができた、というところをお見せするのが、ビジネス的な目的である。塾に行かせてよかった、と思って戴くことが、小学生の保護者からの最大の評価なのだ。子どもが、今日作文を書いたよ、と持ち帰って見せ、「たのしかった」と口で言う。見せた作文には、先生から誉め言葉が並んでいる。特別朱で修正された「まちがい」がある様子もない。そして、これまで書き渋るようなタイプの子の場合、なんとたくさん書いていることか、と、子どもの成長を喜んで戴きたいと思っている。実際、子どもはこの作文の時間に、成長したのである。
 
もちろん、これは画一的にするべきことではない。一人ひとりの子どもをよく観察し、理解した上で取り組むことである。悩みの中にあったり、辛い気持ちになっていたりする子がいる場合もある。その子には、単純に「たのしくかこう」というのは空々しくしか響かない場合がある。コロナ禍でストレスを抱えている子どもたちのことを思いやることができないままでは、教育などやってはいけない。しかし、同じ沈んだ心であっても、書くことでそれが発散されるということもありうるから、その辺りのバランスを感じることが、教師の務めである。その心を察しながら、共感しながら、それでいて、「たのしくかこう」と呼びかけるのは、表向きほど、簡単なことではないのである。
 
小学生の作文のことについて、その秘訣をご紹介した。だが、このようなプロセスは、決して狭い教室の中だけで、子どもを対象になされるべきことではないのではないか、とお感じになってくだされば、私の「たのしさ」はさらに大きく拡がることだろうと期待している。



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