「ユニクロを買いません」
2021年5月31日
「ユニクロを買いません」
そう口にする人が現れ始めた。ユニクロから買わなくても、ほかでも服はふんだんに買えるのだから、それはそれで構わないことなのだが、どうやら背景があるらしい。
どうやら、ユニクロが中国で人をこき使って不当に働かせて製造しているというような声が聞こえたせいであると理解して差し支えないだろうと思う。
政治の裏の裏などは私には分からない。その噂の真偽や、是非について話したいのではない。どうして「ユニクロを買いません」などと言うのか、という点を考えようというのである。
当たり前じゃないか、とその人は言うかもしれない。労働が搾取されてつくられたものを喜んで着ることができるはずがないではないか、という辺りであろうか。
そうであれば、私たちは多くの製品を買うことができなくなるだろう。とくに、安く提供されているものは、それなりの理由があって安くできるのであるから、背後に、言うなれば不当に、あるいは不条理に、安い賃金や収入しか得られない人がいると考えてよいだろう。
このような実情が明らかになっている企業はほかにもいろいろ言われている。スポーツ品メーカーには間違いなくそうだとされているところもある。恐らく、「ユニクロは買いません」という人は、いち早くスポーツブランドからは足を洗っていることだろう。こちらは、安くするどころか、ブランドの価値で価格もそれ相応なのだから、たいそう利益を出しているものと思われる。
コーヒー豆などでよく知られているが、フェアトレードという言葉は、学校の社会科でも学習必須の語である。こちらは安すぎるものを買うのをやめて、それなりの賃金が末端の人たちに出るようにしていこうという運動である。
私たちは、格安で物を買うことを望んでいる。それは、その価値に見合うだけの支払いをしていないのだから、当然それをすれば、不当に労働させたことになるはずである。だから、結構なお値段で、素朴な製品を買う生活をしていく必要がある。ユニクロだけの問題ではない。
今回ユニクロが吊し上げられたのは、極めて政治的な意図によるものと思われる。米中の経済問題に加えて、日本の大企業だということで、責められているという可能性がある。
だが、労働者が搾取されているという報道を聞いただけで、「ユニクロは買いません」と言いはじめる人が、少なくない。これは何故か。自分は悪いことには加担しないのです、という宣言なのか。自分が買えばその労働者を苦しめることになるのだから、というのは恐らく取って付けた理由であろう。なぜなら、買わなければ、ユニクロが工場を閉鎖して、その労働者の仕事が失われてしまうことになるからである。不買という感情的行為が、実はその労働者の仕事すらなくしてしまうことで、本当によいのか、そんなことは考えていないだろうと思われる。
必要なのは、別のことだろう。それが何かは、私たちが皆で考えていくことだ。少なくとも、「買いません」という正義感が必要なのではない。自分は悪に手を貸さないのです、という清潔感をアピールしたい故のポーズであるとしたら、さらにその魂胆が醜い。
さらに、その宣言を、いくらかの報道や噂によりやってしまうということに、実は最大の問題がある。ちょっとした世の動きや、世が「これが正義よ」と示したものに、いとも簡単に乗っかかっていくその精神が、実は一番恐ろしい。自分でよく考えてみるのではなく、そして自分がそのように宣言することでどのような影響が出るのかを気にすることもなく、乗せられただけの正義感によって、自分は正義だ、君もこの正義に賛同せよ、と声を張り上げる。
それこそが、あの戦争を起こし、また支えた、ということすら、私たちは学んでいないのだろうか。
残念ながら、キリスト者がまた純朴に正義を愛するものだから、この手の流れに棹さしてしまいがちなのだ。新型コロナウイルスの時にも、簡単にデマをばらまいたのは、キリスト教世界でも名高い人であった。だからまた、素直な羊たちは、それをせっせと拡散した。
くれぐれも誤解なさらないように。ユニクロがどうだと言っているのではないのである。ユニクロがどうであれ、私たち自身が実は危険な爆弾なのだということに、気づいて戴きたいのである。