【メッセージ】運命を信じますか

2021年5月23日

(使徒16:6-15)

パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。(使徒16:10)
 
「ロマンスの神さま この人でしょうか」(広瀬香美)って、1993年の歌なんですね。でもそこそこ今も流れていて、冬にはよくラジオでもかかります。男女の出会いのシーンを鮮やかに彩るポップなメロディに、刺し貫くような声、魅力があるものです。
 
結婚に「適齢期」などというものが言われた時期は、遥か昔。女性の「活躍」などという表現とっていること自体、政治の世界がそんな遥か昔の時代で営まれていることを表しているような気がするのですが、「この人でしょうか」と問う相手が神さまでなくなると、専ら自分の心に問うことになるようです。マリッジブルーも、この心理と関係があるかもしれません。
 
結局、結婚に進んだというのは、のっぴきならない事情でなかったとすると、「勢い」のようなものであるようにも見受けられます。「若気の至り」というのは本来別の意味ですが、若さ故に、突っ走るというのはありうることでしょう。この辺り、あまり決めつけた観で話をするのは、もうそろそろ止めます。
 
人生で何か決断しなければならないことは、たくさんあります。その都度、「もしもあのとき別の道を選んでいたらどうなったか」という「もしもの世界」を後から考えてしまうことはありませんか。思い返せば、過去の道に「分岐点」があって、その時に選んだ方、あるいは選ばされた方が、いまの自分をつくったのだ、というふうにも思えるでしょう。非常によいドラマであったと思いますが、先頃終了したNHKの「おちょやん」でも、家族に恵まれず不幸な生涯を送ってきた彼女の舞台上での結論が「今ある人生、それがすべてですな」とあったのが、この感覚にぴったりくるかもしれません。
 
自分の選んだ道を行く。世の中でよくモデルとされるのが、成功者の体験談。「わたしはこうして成功した」類の、商売目的の言葉には用心したほうがよいでしょう。千人の中の一人がAをして成功した、それは事実かもしれませんが、誰でもAをすれば成功する、という論理は決して成り立つものではないからです。簡単な論理学は、ぜひ使えるようになってください。
 
どちらを採るか。私も、一度留学の可能性が囁かれたことがありました。でも結局留学はしませんでした。もしもそちらを選んでいたら、全く別の人生になっていたかもしれません。分かれ道が目の前にあるとき、もしもその先の自分がどうなるか分かっていたら、選択は容易だったでしょうか。架空の条件で悩んでも仕方がないけれど、その時には、こちらがいい、としか思えないことがあっても、人間、まさにその渦中の時に、先のことを知りたいと思うことがあります。ああがよかった、こうがよかった、と言うのは、後から振り返ったときにのみ、なんとでも言える程度のことに過ぎません。
 
けれども、いざ選んでみたら、殆どの人は、後悔の気持ちに襲われます。自分の夢をそのまま実現できるわけではないわけです。近頃のように、小学生のなりたい職業第1位が「会社員」となってしまうと、いくらか実現の可能性が高まるかもしれませんが、「大きな夢をもとう」と子どもたちに言いたくなる大人は、きっと多いことでしょう。でもそれはどこか無責任です。大人が軽々しく言う言葉を、子どもたちは重く受けとめます。夢を希望してやっていったものの、うまくいかないケースの多いわけですから、そうしたときその子が、自分を責めるようになるかもしれないからです。
 
多くの場合、ひとは、望んでも努力しても、その道を閉ざされるものです。望んだ学校に入れない、好きな人に思いが届かない、世の中の事情が希望を阻む、様々です。2020年からのコロナ禍の中で、大学生たちの置かれた情況は、ほんとうに想像を絶するものがあります。学ぶ意欲がたとえ壊れなくても、実践の学びができない若手が、近い将来社会に出て来ることを思うと、大学生本人の問題であるばかりではないのです。
 
パウロも志あって、ユダヤ地方から外の世界へ、イエス・キリストの福音を伝えようと夢を見ていました。尤もそれは、ユダヤ人に伝えようとしたら憎まれ、命を狙われるなどの目に遭い、たいがい嫌になって外国へ福音をもたらそうというふうに追い込まれたということなのかもしれません。
 
16:6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。
 
これはパウロの第二回宣教旅行とされるものの記録なのですが、アジア地方というのは、ヨハネの黙示録で最初に手紙を宛てられた七つの教会のある地域をいいます。アンティオキアから西へ向かう道で、ガラテヤなど内陸部を進んで行った様子を表しています。アジアとなると、早く海岸地方に近づいていくことになりますが、そちらで活動することを「聖霊から禁じられた」といいます。
 
16:7 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
 
ビティニアというのは、黒海に近づく経路です。パウロがこの旅の経路をどのように計画していたか、定かではありませんが、今度は「イエスの霊がそれを許さなかった」として、西でも北でもなく、その間の西北西の内陸コースを進むことになりました。「イエスの霊」というのは珍しい表現で、聖書の中にはほかには見られません。理屈で説明しようとすると、なんだか難しくなってしまいます。あまりこれを論理の中で解釈しすぎないようにしたほうが無難でしょう。
 
トロアス、それはいまのトルコのあるアナトリア半島のほぼ西端にあたります。西には海が広がり、内海の先には、ギリシア地方の港湾都市が見えたかもしれません。ここでパウロに決定的な体験が襲いました。
 
16:9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
 
結局、アジアを回ろうとしたパウロたちは、進路を阻まれ、突き抜けた先に見えるマケドニア、そこに足を進めるしかもうなくなったことになります。それを、やれ西に行くな、北に向かうなと止められて、挙げ句は、マケドニア人が「助けてくれ」というメッセージを幻で送ってきた、として正当化するかのようです。
 
平安貴族は、夢に恋しい人が出てきたら、その人から自分が思われているのだ、というおめでたい考え方をしていました。本当はこちらが思っているから夢を見たのだとは思うのですが、その逆の証拠だとするのです。人間の夢には意味があるとして、フロイトは深層心理あるいは潜在意識というようなものに目を向けさせることになりましたが、聖書ではそもそも、夢というものは、神の意志を伝える手段と考えられていましたから、旧約にも新約にも、ふんだんに夢のお告げというものが出てきます。
 
16:10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
 
海を渡る勇気が与えられました。アジアの今でいうトルコから、ヨーロッパのギリシアへと飛び出していくことになります。これは神の召しである。神の御心により、自分たちはこの道を与えられた、そのように「確信」したのだと記者は刻んでいます。
 
なるほど、西へ行くのは「聖霊から禁じられた」のであり、北に進むことについては、「イエスの霊がそれを許さなかった」のでしたが、それには神の目的があったと解釈しているわけで、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」というのです。
 
神が自分たちの運命を決定していた。これは神への信頼の現れでもあるでしょう。神が自分の行く末について、良きものをもたらすように定めている、と考えているわけです。
 
キリスト教の中で、このような考え方を強く勧めた考え方が表に立った時がありました。
 
教科書でもおなじみ、ジャン・カルヴァンによる神学として、「予定説」というものを聞いたことがおありでしょう。人が神に救われる結末になるかどうか、それは予め決まっている、という点を強調することになるため、その思想は受け容れがたいとする人も少なくなかったと思われます。
 
同じ予定説にもいくつかのタイプがあるそうですが、人間の側の生き方や信仰などが救いを決めることがないという、ある意味で意外な捉え方は、それだけ神の側に決定的なイニシアチブがあるとすることを当然のものとして前提に置いている点で、神を人間の操り人形のように考えることから守っているのかもしれません。
 
こうした考え方は、カルヴァンを千年以上も遡る、アウグスティヌスも述べているとも言われますが、様々な異説との対話や議論を重ねてきた学者ならば、どこかでこのような一面を強調することがあるのも分かるような気がします。
 
ただ、それは安直に構えると、運命論のようにも受け取る人が現れるかもしれませんし、そうなると、この人生で努力したり願ったりすることが空しくなるという意見も、当然起こっていくことになるでしょう。
 
ところが、カルヴァンの宗教改革は非常に多くの支持を受け、いわゆる「改革派」という名前で、いまも大いに力をもつ派となっていますし、その名前を冠さずしても、この思想を受け継いでいる立場の教派がいくつもあります。その流れにある人々は、この世で労働に励むことへと促されていきました。
 
何故か。ここで、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を1904年に発表した、ドイツの思想家・マックス・ヴェーバーを思い起こすのには意味があります。ヴェーバーは、この事態について考察しました。そこには論理があるのではないか。運命論のように取られてもおかしくない予定説は、ともすれば人々を虚無へと陥れるかもしれない危険をもっていたけのだけれども、神に救われることになっている者は、神の呼びかけに応え誠実に励む生き方をしているはずだ、だからそのような生き方をしていれば、救われていると確信することができたのだ、と捉えたのです。
 
なんだか、良心の呵責を突いて満足させるかのような構造ではありますが、論理を逆手にとった解釈があってこそ、どうしてカルヴァン派の人々が熱心に労働し、また禁欲的に生きていったのかが理解できるということで、ヴェーバーは一躍脚光を浴びることとなりました。このことが、資本主義経済を発展させる原動力となったのだ、という社会理論へと展開していったのです。
 
単純にうわべだけで捉えて判断を急がないようにしましょう。これは救済を確信するものの、救済を決定づけたということはもちろんありませんでした。神の論理は人の論理とは異なることがあるために、目に見えて神の考えがずんずん分かるということを期待することはよいことではないと思います。
 
しかし実際のところ、「これは神のみこころだ」と思わないと前へ進めないときもありますし、それが神を信頼することになるのも確かです。自分の中で、そう信じて勇気を出してやってみるということは、良い効果をもたらすことも少なくないでしょう。けれども、やはり抑えたいのは、ほかの人に対して、「これが神のみこころです」と告げることです。それは信仰上の強制のように働きもしますし、いま風に言うならば、ハラスメントになりかねません。カルト宗教と呼ばれるところが、この方法を巧みに利用していることは周知の通りです。上層部や権威のある立場の人が、信徒に信仰を理由に強要する、それはいまもなおなされています。結婚相手すら、この人としなさい、とくることも珍しくありません。そして本人も、自分で選んだような気持ちになっていますから、それは自由意志でしたこと、自己責任ということになるわけです。まことに「洗脳」とは恐ろしいものです。
 
予定説にしても、深い意図があるのだろうと思います。それを安易な理解の中で用いると、支持するにしても反対するにしても、厄介な議論を生み出すことにもなるのでしょう。それが正しいかどうかなどを問題にするよりも、あなたには、自分と神との関係について見つめる眼差しを確かなものにしてもらえたらと願っています。自分では分からない、どうにも選べない、でも選ばねばならない、そしていつまでもくよくよしていたいとも思わない、こうした否定続きのネガティヴな連鎖の中で、心が楽になることをと願っているのです。
 
主よ、あなたの道をわたしに示し
あなたに従う道を教えてください。(詩編25:4)
 
詩編の言葉を、自分の祈りとして神の前に投げ出しては如何でしょうか。するとまた、助ける声もまた聞こえてきます。
 
あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え
とこしえに動揺しないように計らってくださる。(詩編55:23)
 
人間の心は自分の道を計画する。
主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言16:9)
 
しかし、不幸なことが続くと嘆く人もいるかと思います。自分の気の持ちようで改善できる場合もあるかもしれませんが、それが簡単にできたら苦労はありません。また、気持ちの問題ではなく、現実に生きていくのが辛いほどに、人の言葉に傷つき、苛まれている方もあるでしょう。経済的に進み行かない中に置かれて、途方に暮れているという中の方、教会が魔法のようにお金を出せたらとは思いますが、それも期待できません。祈るだけで飯が食えるか、と言われたら、まことに無力さが押し寄せてきて、悲しくなります。実際に苦難の中にある方々、ひとのために尽くしながらも世間からさらに圧迫されて窮地に追い込まれるなどということも、当たり前のように起こっている昨今です。
 
いったい教会に、何ができるのでしょう。そんな痛みに対して、何も思っていないような教会も、世には多々あります。悩み相談ができたらいいのに。ワクチン接種会場や人員の提供ができないか検討してもいいのに。ワクチンの予約を高齢者のために試みるような手続きを手伝えないか考えてみてもいいのに。でも、教会のメンバーと教会組織の存立だけが気になって、一向にこの世界で苦しんでいる人々のニーズになど気持ちが向かうことすらない。こっそり祈っていますよ、などと個人的に行ったところで、さて、教会は高いところから光を投げかける世の光であることなど、全く忘れてしまっているかのような状態です。
 
もちろん、私自身にも何もできません。何もできないから、もう神に祈ることはやめようか。そんなふうに思うようになる人がいるかもしれません。いったいこの災禍の世界で、神は何をしているのか、怒りをぶつける人がいるかもしれません。けれども、神は人の奴隷ではなく、人の思うとおりに言うことをきく、魔法のランプの巨人とはきっと違うでしょう。
 
神はこの先、どんな道を備えていてくださるのか。
 
マケドニアへ行かざるをえなくなったパウロたち――このあたりから「わたしたち」という言い方がなされ、ルカが記者だとすると、そのルカが一行に加わったのだと見抜いた研究者の意見も、大いに参考にさせて頂きましょう――、この一行は、幻で見たことが嘘ではなかった現実をその目で見ます。
 
大都市フィリピに着いて、どうやらユダヤ人たちの集まる場所があったようですが、そこでメシアを知っていますよと、へたをすると詐欺と受け取られるかもしれないような話をしたところ、信じる人が現れまた。紫布を商う人とあるので、裕福な生活のできた人ではないかとも思われますが、リディアという名前まで記録されています。この後投獄されるがそれをきっかけに救われる家族を導くなどして、後に信徒グループができたようで、おそらくこの時から十年くらい後に、「フィリピの信徒への手紙」をパウロは書いたと見られています。神は、かの幻の先に、確かに救われる人々をもたらした、そういう道を用意したというふうに受け取ることができるようです。
 
私たちにとり、そのようなうれしい道が、あるのかどうか。それを、自分が思い描く姿に設定するというのは、少し我慢しておきましょうか。それでも、神を信頼しようと私は思っています。そしてその神は、あなたにも、信頼する可能性を投げかけているのだと思っています。神は、幻の中からかもしれませんが、おそらく聖書の中からあなたに語りかけるでしょう。聖書の言葉が、あなたに今日も明日も、あなたに生きるための言葉を与えてくださることを信じています。その言葉には力があって、立ち上がることができ、歩き進むことができるようになるだろうと信じます。
 
そのような私の信頼に、コミットして戴けませんか。傷ついている人々に気づく心を与えられるように、と祈り願いつつ、先に傷ついたキリストの姿を慕いながら、共に天を見上げませんか。心に聖書の言葉が響いてくるのを待ちながら、今日も聖書を開いてみませんか。
 
あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。(詩編55:23)
 
ところで、余分な付け加えですが、思い出したので触れてみます。NHKの連続テレビ小説「おちょやん」が先頃終了しました。恵まれない家庭の中から、喜劇女優としての道を進む希望を描いていたように思います。初めにも挙げましたが、「今ある人生、それがすべてですな」と最終話の劇中で自分が提案して決めたセリフを感慨深く語ったおちょやんに、ぐっときた人も多かったと聞いています。そのドラマの本当の最後の言葉はこうでした。
 
「生きるっちゅうのはほんまにしんどうて、おもしろいなあ!」
 
本ドラマは、長く人物を描くことで、このことだけを言い切ったのであり、それが心に響くものとなったのだと思いました。この言葉に救われた人もきっといたことでしょう。辛い生活の中、辛い人生を歩んだドラマの主人公の負けない姿に支えられた人が。それが、最後のこの言葉で、全部を納得できるのだとしたら、言葉が人を生かすというのは、やっぱり本当なのだろうと思います。そして、だったらなおさら、聖書の言葉は、人を救わないはずがないと信じます。聖書から、生きるための言葉が聞こえてくるのだと私は確信しています。苦難を強いられている方々に、聖書の言葉が届き、命をもたらすことを、心から願っています。神はいま、聖霊という姿で、それを伝えてくださっています。



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