たとえ知り尽くせなくても
2021年5月17日
ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読書中である。まだこの本全体をどうなどと言うことはできない。ただ、前半のほうで、「私的」と「公的」の概念について詳しく紹介されているところで、教えられるものがあった。
と言っても、たんに私が無知だっただけなのだろうとは思うが、はっとしたのだ。その議論を全部ご紹介するつもりはないことをご了承願うが、いわゆる「プライバシー」なる語の原義が「うばわれたもの」から来ているということを強調しているのである。私たちの今の感覚からすると、それ何だよ、ということになるのだが、「公的」ないわば社会的な仕事こそ人間の華であり、見られてなんぼの人間の価値なのだ。人の目に触れない家の中での生活というのは、社会的意味の喪われたものであり、それしかないような者は人間ではないというような見方が一般的であったのだという。だから奴隷には公的な役割がなく、そういう人間的な価値が奪われた存在でしかないのだそうだ。
当時の文化や価値観により、同じ言葉であっても、意味合いがまるで違うということがある。それを気にせずして、今に伝わるその言葉を今の視点や価値観で解釈して、当時のことを説明することが、時に無知に基づくとんでもない勘違いになりうることを教えられるような思いがした。言葉を訳しても、全く違う意味に勝手に理解してしまっているのかもしれないのである。
つまり、聖書のことを言いたいのである。聖書のこの箇所はこういう意味である、こういうことを言おうとしている、そのように私たちは説き明かす。研究者も様々な証拠を集め、推論し、自説を展開する。そして聖書解釈を提示する。礼拝説教というのは、中には中身のない講演会もあるが、良質のものであれば、このような何らかの解釈をして、さらに聞く者に力を与えるメッセージを届けるであろう。
だが、聖書の文化はあまりにも時代が離れているし、そもそも生活文化や習慣が異なり過ぎる。今の時代のものの考え方があてはまるとは思えない。精一杯当時の環境や文化を研究したとしても、それで十分かどうかは分からない。イエスの声色が伝えられるわけではないから、それをまともに言っているのか、皮肉で言っているのかすら、断定できないと言えるだろう。ともかく、私たちが今の私たちの常識によって、聖書のこの言葉はこういう意味ですよ、と断言することは、到底できそうにないと思われる。
私も思い当たる。クリスマスの出来事である。いつ私たちは、家畜小屋で動物たちに囲まれた赤ん坊を決めつけたのだろう。ルカによる福音書にはこう書いてある。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
宿屋に泊まる場所がなく、飼い葉桶に寝かせたことが、動物たちの小屋のど真ん中だと、どうして言えるのだろう。当時の家の構造や家畜を飼っている情景などは、現代のかの地方にも近いものがある場合があるという。家畜がいたのは家の一部であったのだし、書かれてあるのはたんに客間が宛われなかったとしているだけである。あとは私が決めることではない。
この家の構造から、旧約聖書の士師記でエフタがとんでもない誓いをした結果の悲劇にも、謎は謎でありつつも、想像が少し及ぶことになる。
11:30 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、
11:31 わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
戦勝の後、エフタを迎え出たのは、一人娘であった。後は悲しくて書けない。エフタは、まさか娘が迎え出るということは、想像だにしていなかったのだ。こういう場面では、戸口から出て来るものは家畜と相場が決まっていたのであろう。その「まさか」がどういう訳か起こってしまったが故の、悲劇なのであった。
先ほどのクリスマスの場面に戻る。再びルカによる福音書だ。
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
有名な羊飼いの礼拝であるが、私たちはどこか牧歌的な想像をしていないだろうか。羊飼いは、エジプト人から忌み嫌われていたことが創世記の終わりのところで窺える。また、あのダビデは、まだ若い段階で、ゴリアトに戦いを挑むとき、やめろと言われたが、自分は羊飼いとして肉体で闘うのには自信があるのだと主張していた。羊飼いの仕事を考えるとき、それは相当な力仕事であり、それを日々為すには、筋肉質の力強い男たちでなければならなかったのではないだろうか。しかも、都市圏外に暮らす者たちであり、いわばならず者の類であったのではないだろうか。都市に羊を供給することで城壁都市を支える資源ではあったが、動物を始末する仕事が差別されていたことはほぼ確実である。彼らは律法を守れず見下されていたのであって、知的教育を受けることもなく、教養があったようにも思えない。マッチョで野蛮な男たちが押し寄せる情景は、私たちがこれまであまり想像していなかった姿ではなかろうか。
いろいろな想像をしてみるのもいい。だが、その想像を、いつしか真実だと思い込み、やがてそれに決まっているのだと考えるのは、危険である。あのファリサイ派の人々がイエスに激しく非難されたのも、要するにそういうところではなかっただろうか。エリートの自分たちが理解した聖書こそ真理であると思い込み、それに反する態度を示したイエスを、ついにはなぶり殺しにするのである。
聖書に限らないとすると、いまの時代の「子ども」という概念は、古くはなかったのではないか、という考えがある。子どもも労働力とされていたころは、いまの日本の子どもたちとは違う扱いを受けていたことは、考えてみれば当たり前であろう。そのように時代の文献に「子ども」とあったときに、いまの日本の子どもたちのイメージを当てはめると、全く違ったことになるだろう。もちろん、いまの時代でも労働的に搾取されている子どもはたくさんいることは問題である。
また、古代ギリシアは哲学や芸術など文化が発達しまたが、その哲学の中に、「意志」という考え方が見当たらないことを知ると、驚くものである。世界観が異なるので、近代人が自由意志などと呼ぶような概念が、どうやらないようなのだ。そうすると、私たちがいま常識のように考えていることとは、全く違う世界がそこにある、と言ってもよいのではないだろうか。
聖書に戻るが、礼拝説教を語る者は、常にこうしたリスクを背負いつつ、語らなければならない。だが、自分が聖書文化や文献読解能力を完全にもつ者でないことは重々分かっている。それでいて、臆病になる必要はないと私は考える。よいではないか。当時の聖書文化を知り尽くしたわけでないために、聖書の「説明」には結果的に嘘が混じるかもしれないとしても。それよりも、いま私たちはこのように読むことができる、いま私たちはこのように捉えてもよいのではないか、そういう姿勢で、聖書に一定の解釈をすることは、悪いことではないと思う。
いまここで、私たちはこのように今日の聖書の箇所を聞いてみよう。そこから神のこのような心を知るようにしよう。その神がくださった力によって、また一週間、希望を懐いて生きていこう。それは、与えられた「聖書」の謎を解き、その学問的正当性をもぎとるために語るのではない。どうせ隅々まで真理であるような意味理解は、無理なのである。それでも、いまここで私たちは、このように聖書から声を聞いた、と言い、神はこのように言葉と力を与えてくれた、と信頼すれば、まずはそれでよいのではないか。
その都度の無知と無理解を重ねながらも、私たちは、神を信頼して生きる生き方を果たすことができる。喜びを受け、明日へつながる元気をもらう。神の言葉の意味を研究するのでなく、神の言葉に生きて幸せになりたいなら、こんな読み方・聞き方であっても、うれしいではないか。
たとえ知り尽くせなくても、その言葉が自分を通して現実になるようなことでもあったのなら、神の言葉が自分を通じて出来事となった、つまり神の業がなされたのであるから、ここを神の支配する国であるというように実感できるのではないだろうか。