【メッセージ】クリスチャンとは何者か

2021年5月9日

(使徒11:19-30)

また弟子たちがクリスチャンと称するのもアンティオキアで最初に生じたことである。(使徒11:26,田川訳)
 
中学の頃、ルノワールの絵に惹かれました。温かな女性の姿が、ある意味で乱雑な色の羅列によって描かれている。デッサンもラフで自由な中で、置かれた色が私の目の中で混交することで生まれる色がありました。ルノワールが印象派の中に数えられると聞いて、印象派なる存在を知ります。
 
1874年、クロード・モネの「印象・日の出」なる作品がこっぴどい批評(ルイ・ルロワ)に遭いました。しかし長い時間を経て、このタイプの作品が認められるようになり、かの酷い批評家の言葉が名付け親になるかのようにして、「印象派」という呼び方が定着するようになったといいます。「印象派」は最初、酷評であり、悪口であったわけです。
 
その後、音楽ではバロック音楽に関心をもちました。信仰をもつのではありませんでしたが、バッハの音楽は特に凄いと感動していました。「バロック」というのは音楽に限らず、ルネサンスの次の大きな芸術運動であり、美術・文学・建築などにも大きく拡がる動きでした。諸説ありますが、この「バロック」という呼称も、いびつさや気味の悪さを表す語が語源ではないかと言われており、後の時代になってそのように呼ぶようになりました。
 
美術・音楽と絡んできたら、もうひとつあって然るべきでしょうが、これが私の場合、宗教となりました。結局プロテスタント教会に行くようになったのですが、この「プロテスタント」という語もまた、最初はよくない響きであったことがよく知られています。普遍的なものとして君臨していたカトリック教会に対して抗議したことから生まれた言葉なのだそうです。1529年に神聖ローマ皇帝に対して「抗議書」を送ったことから、「抗議する者」と呼ばれたのがプロテスタントだったわけです。抵抗者、反抗者などと呼んでもよいでしょう。決して誉められた呼び方ではなかったことは確かです。キリスト教世界にはこうした例がいくつもあり、「メソジスト」や「クェーカー」など、よほど他人を非難する精神に溢れていたということなのかと疑いたくなるほどです。
 
言うなればこうたグループはどれも、カウンターカルチャーでした。カウンターカルチャーとは、「対抗文化」という意味ですが、主流のものに対する反対者として生まれ、当初は当然無視されるか否定されるかという運命にあるべきものでしょう。
 
大きな権力者に悪口を言われ、軽蔑的な呼び方をなされようが、それを「上等じゃねぇか」と受けて立ち、抵抗するエネルギーは負けまいと自分の力を表していく。突きつけられたその悪口を旗に掲げて、こちらの力として起き上がっていこうではないか。そんなパワーを感じさせるものとしての、カウンターカルチャー。弱者として虐げられていた人々、あるいは抑えつけられた新たな考え方をもつ人々は、案外こうした形で立ち上がる歴史を繰り返してきたと言えるような気がします。
 
イエスの弟子たちも、弱者として虐げられていました。あの死刑となったイエスの弟子たちは、もう力がない一派として、逮捕や迫害からはどうやら免れていたようですが、その中で少しずつ周囲から信頼を取り戻してきたように見えました。イエスの弟子として新たに加わる人々も現れ、弟子たちも組織立った活動を始めることができるようになってきました。
 
教会の世話役として、ステファノという優秀なギリシア系の人が尊敬されていましたが、難癖をつけられてリンチに遭い、殺されました。それをひとつの契機としてか、大迫害が起こったと記録されています。エルサレムから追い出され、散らされたというのです。記者がルカだとすると、ルカはその後エルサレム自体がローマ軍の占領下に陥り、ユダヤ人がすべて追い散らされていったことを知っています。キリストの弟子たちは、それに先立って、ユダヤ人たちからの迫害に遭っていたという訳のようです。
 
その迫害は、サウロという若いエリートが先頭に立って行っていたようなのですが、そのサウロが主の声を聞き、選びの器としてキリストのグループに入ったという奇蹟を、前回辿りました。サウロを迎えアナニアはサウロを受け容れましたが、すぐさまキリストの教会がサウロを迎えたわけではありませんでした。教会のリーダーはペトロのようでした。そのペトロにも主の声が聞こえ、ユダヤ人以外の世界の人々、つまり異邦人へこの救いの知らせを知らせることが適切であると教えられます。このことは、エルサレムから追い散らされたキリストの弟子たちの動きと並行しています。その迫害にも意味があったということを伝えてくれているのかもしれません。
 
いずれにしても、キリストの教えは、エルサレムから外へ、拡がって伝えられていくということが起こったのでした。その頃の、今度はアンティオキアの教会での動きが、ここに記録されていると言うことができます。
 
今日お開きした箇所は、きれいに三つに分けて捉えることができます。
1 アンティオキアで外国人に福音が開放されていくこと
2 バルナバの活躍
3 支援活動
 
1 まず、ステファノの殉教をきっかけにして散り散りに追い出されることとなった仲間たちは、北方に逃れて行ったと書かれています。これは、同じ北のアンティオキアにキリストの教会ができたことを背景にしているために登場した地域だと思われます。キリスト者が皆ここに逃れたということを意味するものではありません。
 
アンティオキアは、エルサレムから北へ500kmほどのところにあり、ずっとフェニキアの地域を辿りながらそこまで着くことになります。キプロスはそこから西の海上に見える大きな島。アンティオキアは海陸の要地で、シリアの首都でした。しかし当初は、「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」のでした。当然と思われます。
 
しかし、そこには、海上のキプロス島から、あるいはエジプト北部の港町のキレネから、舟でやってきた人たちがいました。ギリシア語しか知らない人々にもイエスの福音を話して聞かせたのだそうです。エルサレム教会のあり方に囚われない、自由な立場を感じます。すると、その外国人たちの中には、信じる者が起こされたというのでした。
 
2 外国人も救われた。このことがエルサレムの教会にも伝わり、バルナバをそのアンティオキアに派遣します。そもそもエルサレムにもまだ教会があったのであり、それは恐らくユダヤ人が追い出されるまでは大丈夫だったのだろうと思われます。そしてバルナバというのは、教会の初期から目立った働きをしていた重要人物であったのでしょう。ここでも「立派な人物」であり、「聖霊と信仰とに満ちていた」と絶賛されています。
 
4:34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
4:36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
4:37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
 
バルナバならば、現地の出身として役立つだろう、と考えられたのでしょう。本当に外国人が救われたことを確認すると、信仰を保つように励ましたようです。このバルナバはサウロを導くために、アンティオキアから80kmほど離れていたでしょうか、西のタルソスに行きます。タルソスはパウロの出身地ですから、パウロはそこにいたというのは不思議ではありませんが、何か準備をしていたのか、学びの内にあったのか、詳しいことはよく分かりません。バルナバはサウロを「見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」とあるくらいですから、サウロと約束をしていたようには思えません。しかしアンティオキアを拠点として、そこで一年間も宣教の働きをしていたといいますから、この働きはそれなりの成果があったものと思われます。
 
3 それから突如、アガボという人物が紹介され、神の預言として、飢饉を告げたと記録されます。ここではその預言がその通りに起こったということを強調しているのではなく、その飢饉がユダヤ地方に隠れていた仲間たちの困窮を引き起こしたために、支援物質を送ることを計画し、実際に運んだということをよく伝えています。今でも、地震や洪水などの災害地域に、教会が足を向けるというのはよくあることですが、この時代から、そうした支援活動を行い、助け合っていたということが分かります。具体的にどのようなネットワークかは分かりませんが、パウロも後にそうした支援金運びのために走らされていたようですし、仲間意識というものは張り巡らされていたのかもしれません。
 
こうして見てくると、なにもかもできすぎのようです。英雄譚は世界のどこにもありますし、権力者はとくにその祖先の活躍の伝説を組み立てて自分の支配を正当化することに躍起になりますから、宗教団体がその興りと過程について美しくまとめあげるということは、珍しいことはありません。これを一つひとつ受け売りの形でまた拡声器で叫ぶようなことが、果たしていまここにおける神の言葉の用いられ方のすべてなのかどうか、それは考える必要があるでしょう。この記述の隅々をその文字通りに解説することが最善かどうかは疑問の部分もあります。この辺りで一旦引き上げることにしましょう。
 
キリスト教もやはり、カウンターカルチャーであった訳です。それ故にまた、何事にもひねくれて天の邪鬼になるべしだと言うわけではありませんが、心中でどうだかと思うことがあっても、建前に合わせて動くのが私たち人間の性。周りがどうであれ、我が道を進むことができるのかどうか、もう一度その「カウンターカルチャー」の精神を見つめることも大切だと思われます。「カルチャー」というからそれは「文化」と訳せるものですが、それは人間の活動一般にもっと広く取ってもよいのではないか。そう思うと、キリストの弟子が属しつつも、それに流されたくない「文化」とは、ヨハネによる福音書が「世」と呼んでいるもののことと見てもよいかもしれません。私たちは「世」の中に生きていますが、「世」に従っていくことを良しとはしません。私たちの従うものは、ほかにあります。もちろん、「自分を信じて従う」のでもありません。
 
さて、こうして今日開いた聖書箇所を眺めてきたものの、すでにお気づきの方もいらっしゃるだろうと思います。ある箇所を故意に抜いていたのです。それは、次の箇所の後半部分です。
 
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
 
先に私たちは、バロック、印象派、プロテスタント、と取り上げてきました。そのいずれも、好ましからざる名称として、批判者や敵対者からそう呼ばれたものでした。いまここで、このアンティオキアという場所で、「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」と記者が書いているのを見たのです。するとこれは、一種の蔑称だったというわけでしょうか。
 
「キリスト者」、それは「Christianos」に相当するギリシア文字で書かれています。びっくりするほどに、現代の英語「Christian」そのものです。というのは語尾の「os」は変化する場所として、現代人は通例それを落として呼ぶからです。たとえば「Christos」がギリシア語であるのを「Christ」とするのと同様です。
 
カタカナで書くなら日本人はこれを「クリスチャン」と読む、それだけのことでしょう。しかし、この語の響きは、「キリストの者」「キリスト的な者」、酷い言い方をすると「キリスト狂い」のような意味さえこめることができそうな具合のものであったと見ることも可能です。現に使われているので敢えて例示しますが、熱烈な阪神ファンを「トラキチ」と呼ぶようなものかもしれません。尤も、これはタイガースファンが自称するくらい、愛すべき呼び方となっているのですが。
 
現代日本語において、ステレオタイプの呼び方として、「敬虔なクリスチャン」という語があります。そう言われると私は虫酸が走るのですが、決まり文句として人口に膾炙しているのは確かです。それをまともに受けて、誇らしげに構えるなどすると、京都人から見たらアホかと蔑まれることでしょう。あ、その意味がお解りでなければ、スルーしてくださいませ。説明することほど無粋なものはありまへんえ。
 
おまえはあのキリスト派なのか。それは、危険な呼ばれ方であったかもしれません。たとえもう危険は去っていたとしても、悪口であった可能性は否めません。博多に「のぼせもん」という言葉がありますが、あまりに一途に熱中する者は、ちょっと困った存在として煙たがられるのです。もっと冷静になれ、との戒めがそこに含まれています。だから博多風に言うならば、これは「キリストのぼせ」ということになります。
 
17世紀、江戸幕府の始まりのころ、キリシタンは微妙な立場にありました。信仰をもつ者が多かった島原・天草において、経済的背景が加わって、農民が一揆を起こします。昔は「島原の乱」と学校で習ったことでしょうが、いまは「島原・天草一揆」です。日本史の過去の常識は現在非常識となっていることが多いので、それを集めただけで一冊の本になるくらいです。大人の方々はお気をつけください。
 
この島原・天草一揆の後、キリシタンと農民らが悉く殺されてその地の下に埋められたままでありましたが、人口が減少したために、他地域から移住者を来させ、天草は幕府の直轄地になるなど、過去の信仰共同体は見る影もなくなりました。キリシタンは少数ながらその地にも残っていたという研究もあるようですが、この地には、キリシタンとなったらあのようになる、という脅しが心理的に重くのしかかっていたことでしょう。
 
ユダヤの地を追い出されて、ユダヤ人がバビロン捕囚の憂き目に遭ったり、あるいはユダヤ戦争でイスラエルの地から追放されディアスポラとなったりした、ユダヤ民族のことと、どこか重なって見えてくるような気もします。あるいは捕囚のときに、サマリアでは他地域からの入植者を呼び、現地に残るイスラエル人との混血を図る計画により原住民の文化や信仰の力を衰えさせたという作戦も、思い起こします。だからまた逆に、捕囚から帰還したときに、特にエズラ記において、純潔を目指して異国人の妻子を追い出した政策というものがありえたのです。民族の血を保つというのは、強力な結束に欠かせない方策だったというわけです。
 
こうして、「キリスト者」というのが、敵対者からの悪口であったということでこのメッセージを終わるのであれば、ある意味で円満に終わったかもしれません。
 
ですが、ふと気になって原文を見たら、様子が変なのです。もう一度該当箇所だけを振り返ります。
 
11:26 このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
 
「呼ばれる」と訳されています。しかしギリシア語は、「呼ぶ」なのです。どう見ても、受動態ではなく、能動態です。ここは不定詞ですので、その呼んだ主語は「弟子たち」です。すると「呼ぶ」という語を日本語として相応しく直すと「称する」となるでしょうから、つまり、「弟子たちが初めてキリスト者と称した」(アオリスト)としか書いていないのです。弟子たちが、他から言われたというのでなく、初めて「キリスト者」という言葉を使ったというふうにしか読めないのです。
 
すると、これが悪口を言われた、と決めつけることは全くできなくなります。たとえ、それが悪口であったとしても、プロテスタントなどのように、それをバネで跳ね返して、肯定的な意味に作りかえたのだ、と理解したにしても、この文脈で、ここに迫害されたとか見下されたとかいうようなムードはありません。文の流れは、イケイケなのです。ノリノリの気分の中で、「弟子たちは初めてキリスト者と称した」のです。
 
そうであれば、キリストを表に名のることを堂々と始めた、ということになります。イエス・キリストを信じている、というばかりでなく、イエス・キリストの名をこの身に帯びて生きていくという決意が感じられます。
 
キリストの弟子たちは、ユダヤ教の一派だとしばらく考えられていた様子が窺えます。あるいは「ナザレ派」として活動していたのではないか、と考える研究者もいます。新約聖書には確かに「ナザレ」という冠がイエスについていることが多いですね。
 
こうした中で、アンティオキアの教会では、まさに「キリスト」こそ自分が掲げる名であり、自分のすべてだ、としたのだ、としたらどうでしょうか。キリストとは、人間に酷い仕打ちを受けた方です。生まれから排除され、追われ、故郷でも嫌われ、虐げられ裏切られ殺された方です。たとえばフィリピ書では、いわゆる「賛歌」と思しき言い回しで、このようにキリストを描いています。
 
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
 
またヘブライ書でも似た表現があります。
 
5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
 
キリストは「従順」であったことが見事に一致しています。これは、耐え忍んだという歩みを含んでいると理解できます。キリストはぼろぼろになりながら、罵声を浴び、唾を吐きかけられて侮辱され、ずたずたの精神状態である中で、最も残酷とも言われる十字架刑を受けたのです。このキリストが模範であるという意味を含んでいるであろう、「キリスト者」という名を、自分たちに相応しいものとして掲げた、それがアンティオキアの教会の人々でした。この世で不遇な生き方を強いられている信徒のために、あのキリストもあんなに酷い中で私たちを愛してくれたではないか、との思いは、ひとつの「生きる力」になったものと思われます。
 
世界には今でも、「おまえがクリスチャンならば首を刎ねる」というように迫るような国もあります。そのときにも、「私はクリスチャンです」と答える、そういう時にでも、「私はクリスチャンです」と自ら言える者でありたい。あの、惨殺されたキリストの名を以てしか生きることができない、そういう生き方をしたい。なぜなら、たとえばパウロはこう言うからです。
 
わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。(コリント二4:11)
 
私はあのキリストの言葉を命だと思って生きています。他人から「キリストのぼせ」と言われることが問題なのではなく、私自身から「キリスト命です」と言っていくことを大切に考えたい。アンティオキアで弟子たちは、自分からキリスト者だと言うようになった、ともしあの箇所を読むならば、そのように積極的に、キリストに従う者だと示していく勇気が与えられると思うのです。
 
ただ私たちは、実際多くの場合、先に挙げたような危険な信仰的情況にあるとは言えません。もちろん、人や地域により様々な事情はあるでしょう。仲間はずれにされたり、冷たい態度を取られたりする、そんな環境にある人もいようかと思います。だからこそまた、何か必要なときに言えるように、祈っていましょう。
 
他方、いまの時代は特に、「クリスチャン」という呼び方が、自分を高めることのように思い違いをしてしまうという危険があります。これは私だけかもしれませんが、とても「敬虔なクリスチャン」だなどと自分を誇るような余裕はありません。「クリスチャン」が美辞麗句の意味だと理解していると、そこに自己陶酔がどこか忍び込んでくる可能性があります。私はクリスチャンだなどと、本来とても言えないような背景があるはずなのに、それを美しいものであるかのように扱うものではありません。これも、心得ておきたいことだと思います。
 
こうして、実際上課題はあるものの、私たちは、自分が「キリスト者です」と称することの大切さを捉えてきました。危険性や勘違いを避けて、ただキリストにある我が身を喜んだとして、「キリスト者です」と言えるようになったとしたら、それはなんとおめでたいことでしょうか。そこには恐れるものもなければ、遠慮することもない。妙なプライドがそこに混じるものでもありません。十字架に死んだあのキリスト以上に立派であるかのような態度をとることなどできません。
 
キリストに従って歩むことが赦されている、そうした自分を喜びつつ、そのキリストの名を自分に付せるようにして生きたいではありませんか。十字架のアクセサリーをつけることを厭わないような私たちであるならば、十字架刑を受けた方の名を自分のすべてだとして掲げて、この世を生きていくことは、十分にできることであるはずです。人がどう自分を見るか、思うかというような問題ももう超越して、私は、あなたは、共にいるキリストを感じていくことができるはずです。
 
あなたは、他人ばかり見てはいませんでしたか。あるいはまた、自分ばかり見てはいませんでしたか。今日、誰を見ましょうか。十字架のキリストを、見上げましょう。この方の名が、自分の誇る唯一の名である。それが、「クリスチャン」ではないか、と問いかけることで、お伝えしたいことを結ぶことに致します。



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