【メッセージ】視覚と聴覚を超えて

2021年5月2日

(使徒9:1-19)

すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(使徒9:18-19)
 
たとえばあなたがキリストを信じている人であれば、いつどのように信じたか、お話しする機会があろうかと思います。これを「証詞」と言います。ある教会では、月に一度、礼拝の中でそれを話すという機会がありました。それは、初めて教会に来る人に見合う体験談を聞いてもらいたいというのと、語るほうも、何かのときにその話ができるように訓練するというのと、なかなかよい目的があったような気がします。
 
と、どきりとした方もいるかと思います。そんなものがあったら、何を話してよいか分からないぞ、と。確かに洗礼は受けたけれど、キリストを信じたドラマチックな体験などないし、人に話して聞かせることができるようなエピソードなどと言われても、どうすればいいんだ、などと。特にこれは、両親がキリスト者で、生まれたときから、いや生まれる前から教会に来ていて、教会に毎週来るのが当たり前だった、というような人の場合、いつ信じたかと聞かせても困るということがあるようです。
 
このような事態の背景に、今日の聖書の箇所があります。パウロ。キリスト教にとり、決定的な影響をもつこの人物は、高校の教科書にも必ず載っています。
 
その死後、イエスが復活したという信仰が広まり、ペテロらの使徒やパウロらの伝道者は、イエスを神の子と信じ、十字架上の死は全人類を救済するための贖罪の死であったと宣教した。こうして、イエスこそがキリスト(メシアのギリシア語訳)であるとするキリスト教が誕生した。
 
この後、帝国各地に教会がつくられたのは使徒たちの伝道によるとしていますが、パウロが伝道者であって使徒ではないような書き方に続いているあたり、さて、微妙なニュアンスの教科書かもしれませんね。各地につくられた教会のためにパウロは大きな力を及ぼしたこと、少なくとも各地にキリスト教を広めたという点では、パウロの貢献は計り知れないものがあります。この人がもしもいなかったら、キリスト教はいま世に残っていないかもしれません。また、新約聖書の中の相当数の「手紙」を書いた本人だと見られていますから、そもそも聖書というものも今あるような形で存在はしなかったことになりかねません。それくらいの威力のある人ですが、だからというか、この救いの出来事はあまりにも劇的です。ちょっと引いてしまった人もいるかもしれません。
 
このときはまだ、パウロというギリシア語的な名乗り方ではなく、サウロという名で通っていたようです。ユダヤ教の若きエリートとして、将来を嘱望されていたサウロは、威勢がよかったのか、キリストを信じる異端者たちを取り締まる先鋒を任されていました。
 
ユダヤ教からすれば、先祖代々の正しい教えを曲げる異端であり、邪魔で仕方がありません。ほうっておいたら消滅するかと思っていたら、なんだか様子がおかしい。教祖のイエスとやらは十字架で死刑になったが、なんでも復活したという噂でした。それでまた信者が増えている模様です。ユダヤ教のお偉方は、若いサウロにこの取り締まりを命じます。サウロも、神の敵を征伐するこの正義の仕事を遂行すれば、自らの出世も間違いないと二重の目的に燃えていました。
 
大祭司というユダヤ教のトップから、その取り締まりの礼状をもらい、いまからこの異端者たちがいたという、北方のダマスコを目指して意気揚々と恐らく馬にて駆けつけている時のことでした。「突然、天からの光が彼の周りを照らした」(9:3)のでした。その後のことは聖書箇所をお読みくださった通りなのですが、ここでサウロは倒れ、自分を呼ぶ声を聞きます。そのときは完全にヘブライ語読みの「サウル」でした。細かい指摘ですが。
 
サウロはその声の主は誰かと尋ねます。声は、イエスであると答え、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(9:6)とサウロに告げます。サウロのお供たちもこの声を聞いていましたが、話す者の姿は見えません。サウロにも見えませんでした。それは、サウロはこのとき目が見えなくなってしまっていたからでした。とりあえずお供たちはダマスコまでサウロを導きます。ただし目が見えなくなったことがショックだったのか、飲み食いもできない状態でした。こうあっては、キリスト者の摘発どころではなかったと思われます。
 
他方、ダマスコでこれを待ち受けていたのが、アナニアという信者でした。この人も主の声を聞きます。サウロという者を迎えに行くように、との命令です。アナニアが手を置いて祈ることで、目が見えるようになることを信じているからだという。
 
アナニアは知っていました。サウロというのは、いまキリスト者たちを吊し上げ回っている若くて生きのいいユダヤ教幹部であるはずです。アナニアは、いまダマスコはそのサウロが来るとの情報があって、大騒ぎしているところなのだと主に答えました。しかし主は一歩も引きません。
 
9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
 
アナニアはもう主に従うしかありませんでした。そこでサウロと会い、手を置いて祈ります。すると、サウロの「目からうろこのようなものが落ち」(9:18)て、見えるようになりました。サウロはもう主を信じるようになっていました。洗礼を受け、食事をして、元気を取り戻したのだそうです。
 
これは「パウロの回心」として有名なシーンです。「回心」は、漢字のテストによく出ますね。「改心」とどう違うか、書き分けさせる問題です。「改心」は、悪い行いを改めて良い人間になることですね。「回心」は、宗教的な方向転換で、信仰をもつようになることですが、元々仏教用語の「回心(えしん)」というのがあったのを、明治期のキリスト教が、読み方を変えてすっかりキリスト教用語として昔からあったかのようにしてしまったようなところがある語です。同じようなものとして「礼拝」も、仏教の「礼拝(らいはい)」をキリスト教が奪った感じがします。
 
それにしてもたいへん劇的な場面であり、しかもキリスト教徒を殺すために先頭に立っていた若者が、一瞬にしてキリスト教徒になってしまったというのは、あまりにも激しい経験です。キリストを信仰するようになった時のことを語る「証詞」としては、これ以上のものはないでしょう。しかし、それはよけいにきっと、これを聞いた人に複雑な反応を起こしたに違いありません。
 
神はすばらしい、ハレルヤ、と称える人もいたでしょう。しかし、パウロの話に比べると、なんと自分の体験はチンケなものだとがっくりきた人もいたのではないでしょうか。あるいはま、まだ信仰に入っていない人がこれを聞くと、ちょっと引いてしまうか、あるいは、そんな体験がないと信仰には入れないのだろうか、と絶望するかもしれません。
 
しかし、まず少しだけリラックスしておきましょう。パウロはパウロでよいのですが、イエスの他の弟子たちはどうだったでしょうか。今一人ひとり追いかけはしませんが、教会のリーダーとして、ローマ教皇の初代ともなったペトロにしても、どんな回心をしたか、思い出してみてください。まずイエスに声をかけられてついて行っただけであり、その後ちゃきちゃきと早合点ばかりして、度々叱責され、時に偶然かどうかしゃれたことを言ったりしたものの、イエスをある意味で裏切って逃げてしまいました。信仰するにあたり回心したという体験はどこにあるでしょう。もしかすると、鶏が三度鳴いて、自分がイエスを裏切ったことを痛感したときでしょうか。でもパウロとは比較するまでもありません。
 
ほかの弟子たちにしても、回心というものは全く感じられませんから、新約聖書に出て来る信仰物語においては、劇的なターニングポイントなどというものがあるほうが、マイナーであるような気がします。使徒言行録あたりになると、ある出来事で急に信じるようになった、というケースもないわけではないのですが、自分はこのような点でこうして信じた、というようなことは全く見えてきません。ただパウロなどがイエスの死と復活の話をしたら、信じた、というのならありますが、これだと、聞いていわば理性で信じるようになったというふうに受け止められても仕方がないようにも見えます。
 
パウロの回心を特異なケースとして理解すると、神がこのパウロに大事件を体験させて変えたというのは、ひとつのパフォーマンスめいたものであると言うことも許されるかもしれません。
 
9:15 行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
 
パウロは特別に選んだ器である、と神は説明しています。「器」というのは、教会でもよく使う言葉の一つです。同じパウロが、神のすばらしい栄光が私たちから出たものでなく、人間という「土の器」(コリント二4:7)の中にそれが容れられているのだ、というふうに書いています。日本語でも、「あの人は器が大きい」などと言いますね。
 
このパウロ、先ほども申しましたように、イエスをキリストと呼ぶけしからん奴らを死刑台に送ろうと情熱的に職務を果たしていました。奴らはユダヤ教を冒涜している、とんでもないデマを流して、人々をたぶらかしている、と怒りに燃えていたことでしょう。俺は奴らをこの世から消すことで、神のために善い働きができるのだ。豊かな立場と才能で、申し分のないエリートコースを歩むパウロが、与えられた権力によって何でもできる情況になっていたのです。
 
それがすっかり変えられてしまった。いわばミイラ取りがミイラになってしまいました。この物語を今日私たちはじっくり読もうとしたのですが、ここを少しでも生々しく感じられたらいいと思い、今からはうんと官能を働かせてみませんか。この場面を、リアルに感覚してみるつもりで体験するようにしましょう。
 
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
 
声は聞こえた。目には見えない。周りの人たちは、声を聞いているんですね。けれども同じ著者がこの使徒言行録の先で、この時のことをパウロ自身が話して聞かせる場面を描いているのですが、そこでは様子が変わってしまっています。エルサレムで四面楚歌になったパウロが弁明をしていますが、その中で、こう話していると記者は書いています。
 
22:9 一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。
 
声を聞いていない、というのです。同じ筆者と思われるのに、この歴然とした違いは何なのでしょう。後者では、パウロ自身の証詞の言葉ですから、パウロ自身が話す内容を変えた、ということなのでしょうか。前者はルカの記述であり、後者はパウロの発言だから食い違ってもよいのだ、と。
 
自分の救いについての体験談、それを「証詞」と言うのですが、パウロが自分の体験を語るとき、その場で神の声を聞いたのは自分だけだった、と証言しているところに注意してみます。パウロは「聞くこと」が特殊な経験であったのだ、と言っていることになります。もしかすると、それは物理的な音ではなかったのかもしれません。パウロの心にのみ聞こえる声であれば、一緒にいた人々にそれが聞こえるということはなさそうです。
 
私たちは、「良心の声」というような考え方をします。音声ではなくても、心の中に、「そんなことをしていいのか」とか「さあ、やれ」とかいう声が響くということは、多くの人が賛成してくださると思います。これを、自分の頭がそう言っているのだ、と説明することは、ある意味で簡単です。「良心の呵責」という言葉もあります。私たちの頭のどこかに、一定の道徳律のようなものがあると、それが引っかかって、行動を止める、そんなことがあろうかと思います。また、明治の頃によくあった、日本での新興宗教の勃興のときには、狐憑きなどという文化を背景に、何とかの神なるものが腹の内に宿り、そこから声を聞かせるということも度々あったように見受けられます。サウロの場合も、それに類することだったのでしょうか。
 
私は何もここでそれをひねくり回して説明しようとは思いません。逆に「光は見た」と言っていることも、尤もらしく説明することなどできないように思います。ただ、「だれの姿も見えない」という点は、ふたつのケースで共通しています。確かに、ここで人が見えたら少しばかり滑稽かもしれません。ところがまた「天からの(強い)光」も同じです。私たちは、そんなに修行を積まなくても、光を見ることがあるような気がします。活躍したスポーツ選手、輝いて見えないでしょうか。大きな賞を受けた歌手や俳優、まさにスターとして光っていないでしょうか。かつてマザー・テレサの姿が眩しく見えたことはなかったでしょうか。
 
いずれにしても、聴覚や視覚が、物理的に測定できる次元のものに限らないのではないか、という辺りだけは、感じておいてよいのではないか、と私は受け止めたいと思います。
 
この光を受けて、サウロだけが、視覚を一時失います。目が見えなくなりました同時に、飲食もできなくなったように書かれています。見えないというのは、大切なことが分からないことの比喩としても私たちは使う表現です。見えないことで知識や知恵が閉ざされて、また飲食のないことで、サウロの生命活動に問題が起こったことを理解してみてもよいでしょうか。つまり、サウロがこれまで知っていたこと、ある意味で思い込んでいたことが一旦リセットされてしまい、また体においても、ある意味でこれまでの人生に死んでしまった、というように捉えてみたいわけです。これは、キリストに出会って救われるときに、多くの人が体験することだと思われます。後で触れますが、洗礼を受けるという言葉そのものは、「溺死させられた」というような意味をもっています。信仰生活を始めることを「新生」と言うからには、それまでの自分に死ぬという区切りをもつものだと考えられています。ここでパウロが見えなくなったことと、飲食を断ったことに、そのモチーフを私は見てみたいと考えたのです。
 
ここへ登場したのが、アナニアでした。すでにキリストを信じていた弟子として、サウロの恐ろしさを熟知していた、ある種のリーダーであったと思われますが、このアナニアもまた、主の声を聞いています。「アナニア」と名を呼ばれ、応えるという、旧約聖書から延々と続くお決まりの段階を踏み、主の命令を受けています。神はここでも、声として現れたことになります。
 
キリストの弟子たちの最大の敵サウロが、祈っている。アナニアが来て手を置くと、再び目が見えるようになることを知っているというのです。アナニアは主の指示に従います。大した信仰だと思います。自分たちを迫害してきた者のところに行けと言われて、行けるものではないでしょう。アナニアはサウロが、主から聞いた通りの状態であることを知ると、「手を置いて」、イエスがこのように導いたのだと告げます。目的は、サウロの目が再び見えるようになることと、聖霊で満たされることでした。
 
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。
 
ここで必ずあの諺に触れるというのが、一応お約束になっています。そう、「目から鱗が落ちる」という言葉。最近は短く「目から鱗」で通用しているようですが、さて、この言葉の意味は何でしょうか。今まで知らなかったことを知ったときに使いますか。それまで分からなかったことが急に分かったときに使うかもしれません。でも、サウロの体験とは、そのようなものでしょうか。いえ、その程度のものなのでしょうか。神により一時的に見えなくされ、それがアナニアの勇気ある信仰によりサウロに手を置いて祈ったことで、新しく生まれ変わったサウロが、目を塞いでいた何か鱗のようなものが落ちて、元のように見えるようになった、それがサウロの体験でした。「知った」「分かった」というのも確かにそうかもしれませんが、そこで体験したことは、そんなものではなかったような気がしてならないのです。
 
ここで、このような形で目が見えるようになったという、別の例に寄り道してみます。それは、旧約聖書続編と呼ばれる部分にある、有名な物語です。トビト書といいます。旧約聖書続編の付いた聖書と付かない聖書とが、新共同訳聖書と聖書協会共同訳聖書とで出ていますが、プロテスタント信仰ではこの続編は本当の聖書とは認めないために、読まれていないのが通常ですが、私はもったいないことだと思います。特に今新しい聖書協会共同訳聖書においては、この続編の引照箇所まで載っていますから、ありがたいものです。イエスの言動の中には、この続編の内容を引いていると思しきものが多々あることがよく分かります。引照なしで読んでいてもそれを感じるほどです。
 
トビトは真面目ですが信仰に非常に厳しく、捕囚の身となりニネベに連れて来られても、固く信仰を守っていました。ある日、家の中庭で暑い最中うっかり眠ってしまったところ、雀が何羽か来て、温かな糞をトビトの両眼に落とします。それがもとで、トビトの目に白い膜ができてしまいます。トビトは失明してしまいました。その後妻に厳しくハラスメントをしたために夫婦喧嘩が起こり、トビトは死にたいと神に祈ります。
 
この物語について説明を始めるともうたいへんな旅に出るようなことになるのですが、端折って言うと、トビトは息子トビアを使者として、ひとに預けておいた金をもらってくるように旅に出します。トビアには、一人の若者が同行を買って出ました。これが実は天使ラファエルなのでした。ラファエルはトビアの旅を守り、また別に悪霊に取り憑かれていたサラという娘との結婚まで導きます。旅の途中で捕まえた巨大な魚の内臓から薬をつくり、それで悪魔を追い払うのです。なかなか帰らないトビアの身を案じて絶望しかけたトビトと妻の前に、トビアがサラを伴って現れます。そこで引用しましょう。トビト書です。
 
11:10 トビアは父のところに行き、
11:11 魚の胆のうを手に取り、父の目に息を吹きかけ、抱き締めて言った。「お父さん、心配には及びません。」そして胆のうを父の目に塗り、手当てをした。
11:12‐13 更に両手を使って父の目の縁から白い膜をはがした。トビトはトビアの首に抱きつき、
11:14 声をあげて泣いて言った。「お前が見える。わたしの目の光であるわが子が見える。」
 
やっと肝腎のところに来ました。トビアは、「父の目の縁から白い膜をはがした」のであり、これで父は「見える」と喜んだのでした。トビトはこの後、ありったけの賛美の言葉を以て神を称えます。
 
サウロの視力回復の背景を描くにあたり、この物語のシーンが参考になったのではないか、と私は密かに考えています。息子はもう死んだのではないかと悲しんでいたトビト、そして目が見えなくなっていたトビトの目が見えるようになりました。その後はトビトにはもう祝福の嵐という具合でした。
 
何かしら目を塞いでいたようなものが取れる、それはただ知らなかったことを知ったなどという程度のものではないことがお分かりでしょう。見えないでいたときには暗かった人生が、明るい希望と祝福の光を受けるのです。喜びに変わるのです。それが「見える」ということにほかなりません。視力の問題ではなく、また、知識を得たという程度の問題ではないのです。人生が変わるのです。新しい人生が始まるのです。
 
物語としては、トビトにしてもサウロにしても、視力そのもののことを描いていました。けれども、聖書は視力があっても見えないということをしばしば告げています。ロトたちを守るために目つぶしをかけて、攻撃してくる奴らを見えなくした天使の場面(創世記19:11)を思い起こす人もいるでしょうが、預言の書からいまは、この「見えない」有様の指摘を感じておきます。何を言っているのかを説明するのは無粋だと思われますが、主を知ろうとしないイスラエルの民に業を煮やして、神がイザヤやエレミヤに言わせるのです。
 
引き出せ、目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民を。(イザヤ43:8)
 
愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず/耳があっても、聞こえない民。(エレミヤ5:21)
 
主を知らないならば、目があっても見えていることにはならないと言います。そればかりではありません。「見える」と思い込んでいても、実は何も見えていないということがあるわけです。この方が、質が悪いということになります。自分のことが分かっていないままに、自分は正しい、と言い張るようなものだからです。
 
それは、ヨハネによる福音書の9章の、よく知られた長いエピソードのところにはっきりと記されていました。生まれつき目の見えない人の目を見えるようにしたイエスに対して、ファリサイ派の人々が迫った場面です。最初の「彼」というのは、目が見えるようになった男のことです。
 
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
 
そう言えば、あの「星の王子さま」も、「いちばんたいせつなことは、目に見えない」と言っていましたね。その言葉の直前には、「とても簡単なことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない」とあって、これに続いて「いちばんたいせつなことは、目に見えない」と言ったのです。心で見るようにすると、私たちはイエスの姿を見ることができると勇気づけられます。イエスが見えるようになるまでは、実は自分はものが見えていなかったのだ、と私は思っています。それはまた、イエスの十字架の姿に自分が重なって見えたときです。見えてなどいないくせに、見えていると思い込んで強がっていた自分は、あのように無惨な死を迎えるしかなかった。しかしそんな自分はこうやってもう死んでしまっているのだよ、とイエスが限りない傷みと犠牲を以て突きつけた。生きながらにして死ぬことなど、人間は本来できないにも拘わらず、それを実現してくれた。
 
それは、聖書の中から聞こえる声によって伝えられました。サウロもアナニアも、その声を聞いています。そしてその声の導くままに行動しました。サウロは目が見えなくなりましたが、おまえは物事が見えていないということを思い知らされました。それをアナニアが手を当てることで、本当のものが見えるようにしてもらえました。まるでアナニアが、キリストの仕事を代わりにしてくれたようなものにも見えます。
 
9:9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
 
イエスが十字架に死んで復活させられるのは、三日目のことでした。サウロの見えなかった「三日間」の数え方がどうであるかは分かりませんが、サウロもこのとき、かつての自分については死んだのでしょう。そして、見えるようになったのは、よみがえったというふうに捉えてもよいでしょう。全く新しい人生が待ち受けていました。
 
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。
 
見えなかった自分を痛感したサウロが、見えるようになりました。すぐさま洗礼を受けました。洗礼とは、ある種の「溺死」を表す言葉です。ほんとうに自分は過去の自分に死んだのだと自覚し、また周りの人々にも示したのです。すると、「力づけられた」のでした。この語は、イエスがゲッセマネの園で血のような汗を流して祈ったときに、「天使が天から現れて、イエスを力づけた」(ルカ22:43)というときに使われたことがあります。パウロもこれから様々な苦難を背負うことになりますが、自分の外から何か力づけられたということなのでしょう。
 
見えなかったことから見えることへと移った点に注目してきました。とはいえ、私のような者では、いまも朧気にしか見えないとしか言えません。パウロもまた、まだ「今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(コリント一13:23)のように言うことがありました。
 
では、聴覚のほうはどうでしょうか。それは物理的な音である必要はありません。手話が静けさの中から心を伝えるように、音声でなくても、心に響くものとして、聖書の中から神が語りかけてくると思うのです。確かに聞こえてくるものがあると思うのです。使徒言行録ではここで、神の姿は見えないけれども周りの人たちにも聞こえていた、というように記していました。神の声を聞くことができたのは、特別な選ばれた器としてのパウロだけではないのです。誰にでも、聞こえうることなのです。そしてまた、私に神が声をかけたということが、私の周りにいる人々にもまた、聞こえることがあるかもしれないというふうにも思わされます。私に対して起こった神の出来事が、周囲の人々にも影響を及ぼす可能性を考えることが許されるのではないでしょうか。死んでいた自分を知り、キリストの復活のように新たな人生を与えられたことを知ったなら、きっと十分に力づけられて、過去に引きずられない新たなスタートを切ることができるのだと、ここから受け止めたいと思います。ここから、力づけられましょう。



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