医療従事者のための祈り
2021年4月19日
殆ど私の記事は読まれていない、という前提で書く。もちろん、確実にお読みくださっている幾人かの方々のことは存じ上げている。しかし、目に止まらないか、目に止まっても読むことのないほどお忙しいか、それともうざい文章になど興味がないのか、そもそもSNSならばブロックをかけているのか、理由はひとそれぞれだろうが、読まれていないのをいいことに、ひとつ悪口でも書いてみようかと思った、としておくことにする。もしも目に留まり読んでしまった純朴なキリスト者は、これで傷つくことが予想される。しかし、誰かが言わなければならないことであることは確信している。決して最初の者ではないだろうけれど、ファーストペンギンの心境で臨むつもりである。
医療従事者のために祈っているという声を、とんと聞かなくなった。一時、世間が医療従事者に感謝しようなどというキャンペーンめいたもので賑わったことがあった。一年前あたりが多かった手だろうか、教会や牧師などから、医療従事者のために、という祈りや呼びかけもあった。しかし、ここのところ、全くと言っていいほど見聞しない。実際、最近一カ月において「医療従事者 祈 教会」と検索してみたが、殆どヒットしないのである。教会の祈りのリストにも、全くと言っていいほど入ってこない。それでも、信徒の中には、ずっと心からの祈りを日々続けてくださる方もいらっしゃるはずである。だからその方々は少しばかり目を瞑って戴きたい。マスコミのほうでも最近話題になったのは、ワクチン接種を医療従事者が先に打つ、ということくらいのようにも感じる。これを受けて、医療従事者は狡い、というような意見を正々堂々と展開する論者も実際に見た。もちろんそれは無知と偏見と自己中心にまみれた愚説でしかないのだが、そのように思い込んでいる人はその人一人ではないだろう。しかし今でもその医療従事者でさえ、ワクチン接種は絶望的に少ない割合でしかなされていないのが現実である。
いや、元に戻ろう。キリスト者と教会に問う。医療従事者のために、祈っておいでだろうか。何を、どう祈っておいでだろうか。
人間は、世界平和のために祈るのは簡単である。そう祈ればよい。だが、自分にとり目の上のたんこぶなる隣人を愛することができるように祈るのは難しい。医療従事者のために口で祈るのは簡単である。だが、不要不急の外出をすべてやめるというのは難しいだろう。ワクチン接種について相談を医療機関に電話してくる人もいるだろう。病院側では優しく対応してくれているようだが、ただでさえ忙しくて緊張の中にある病院の業務を増加させることが、医療崩壊に立派に加担してしまうことになるという判断すら、私たちにはできなくなっていく。自分ひとりくらい、ちょっと相談してもいいじゃないか、と。
牧師や教会の要人などが、我慢できないから仕方ない、などと言って会食に出かけたりしながら、あるいはマスクを外して談笑する姿をSNSで拡散したりしながら、(もちろんそんなことがあったら、という言い方をしておくが)私たちは医療従事者のために祈っています、などと言ったとしたら、さて、欺瞞でないと言い切れるかどうか、お考え戴きたい。公務員や政府の役人でさえ、多人数の送別会などをわんさかやっている。ほんの一部だけが報道に乗ったが、たまたま感染者を出さなかった、あるいは口止めが利いた、無数のグループが、そうした会をやっているに違いない。報道というのはそういう性質のものである。まさか教会関係でそういうことをしている人がいるというのは考えたくないが、たぶん皆無ではないだろう。それが医療従事者を苦しめること、医療崩壊に直結するということは、恐らく分からない方々ではあるまい。人間はそのようにどうしようもない者であることも私は分かっている。そして私とて、買い物は必要に応じてではあるとはいえ、そこそこ楽しませてもらっている。だが、その程度ではない形で、いわば禁を犯しておきながら、医療従事者のために祈っています、という顔をすることがあるとすれば、神を信じるという以上は神から何か示されていることだろうと信じたい。
何も禁を犯してはいなかったとしても、たとえば、手洗いの丁寧さをずっと保っているだろうか。うがいをしているだろうか。店などに入るときに、消毒を決して省略せずしているだろうか。というのは、最近とくに、消毒をせずに店に入る人が多くなっているのを実際に目撃しているからだ。これらは、医療崩壊になってもいい、という証しをしているようなものである。違うだろうか。
医療崩壊という言葉があまりに抽象的過ぎて、実感がないと思われているふしがあるので、少しだけ具体的にご紹介しよう。医療崩壊とは、たとえばあなたが交通事故に遭遇して重傷を負い動けなくても、何時間か、病院には運ばれない、ということである。これは実際偶々私が、この第四波の前のことだが、事故後の現場を窓から目撃した事実である。やがて救急車が来て怪我人が運び込まれたが、一時間以上救急車がその場から動かなかった様子を実際に見たのである。また、医療崩壊とは、あなたの大切な家族が、食中毒や脳卒中か何かで急に目を剥いて倒れても、やはり何時間か、運び込まれる病院が存在しない、ということである。必要な手術も、またそのうちに、と見送られてしまうことである。それは、いまなら手術で治るとされた癌の手術を受けることができない、ということでもある。素人の私が煽っているのではない。いま医療の代表者が、現実にこれは声を大にして警告していることなのである。
現在第四波がきているという見解はもう否定できなくなっている。変異株の感染力の強さからいって、情況は悲観的である。この中で、医療従事者は、ワクチン接種を、もしや自分が受けることがなくしても、高齢者などを対象に、打つことに入っていることになる。それを簡単なことだとお思いではあるまい。彼らは休日返上で、それをするのである。無数の対象者を相手に、日常の感染予防の緊張を一瞬も緩められない勤務に加えて、休日にワクチン接種をするのである。心身共に限界にきている医療従事者が、休日を潰して動員されている事態に、報道機関も世間も、殆ど気づいていないようだ。この情況の中で、感染者が増大しているのだ。ますます医療崩壊へ向けて加速がかかっていることが、ご理解戴けるだろうか。
さらに、政府もまずい。ワクチン接種の予約を、医療機関への電話などというふうに紹介しているものがある。これが現場の業務をさらに増大させることで、いかに酷いことか、想像して戴けるだろうか。自治体が窓口になるところも多いだろうし、ネットを利用しているところも少なくないようだ。行政サイドでぜひ医療機関を助けてほしい。これについて、イスラエルの接種のスピードがよく話題になるが、個人管理をコンピュータでほぼ完全にしている社会だからだと言えようが、一括管理をして現場では実にスムーズに事が運んでいるようだ。だからこそ早いのだ。近くの医院に一人ひとりが電話して日時を相談して予約をして……なとどいう原始的な方法では、イスラエルの百倍くらいは遅くなることは火を見るより明らかであろう。こんなふうにして医療機関の仕事を増やしますます崩壊へなだれこんでいくことを、なんとか止めねばなるまい。
読まれないとはいえ、これ以上恐怖を煽るようなことを長くしていくことは、いまはやめておいたほうがよいだろう。だから次の点、つまりキリスト教界のほうに重点を移した話題に移ろう。コロナ禍において教会が何をしているか、私はかなり絶望している。ただでさえ閉塞感が漂うキリスト教界で、この疫病の現実があるとき、いったい教会は社会のために、人々のために、何をしているのだろうか。この一年間、何を祈ってきたのだろうか。肩寄せ合って、もできないからリモートで、「疫病退散」と唱えているだけではないだろうか。中には、こういうときによく出てくる声だが、教会は人数ではない、と開き直ったり、あまつさえ、いままで会堂にいた人も本当の信徒ではなかったことが分かった、などという意見を漏らしている向きもある。信仰が試されているかもしれない事態であるとはいえ、信仰ではなく仲良し倶楽部でしかなかった集団であることが発覚したのだ、とでも言いたいのかどうか分からないが、あまりに悲しい声である。
この深刻な状況から目を逸らしたいのかどうか分からないが、新型コロナウイルスの問題や医療従事者の話題を避けて情報を発信しているような教会や教会関係者があまりにも多い。困っているのは教会ではない。教会の財政に問題がある、などと言いながら、牧師給与は維持することのできる教会があったら、人の痛みが分かっているのかどうか、疑問を呈する。仕事を失い、収入が途絶え、子どものメンタルが危うくなり、あるいは生活苦から死を考えるような、とくに女性に目立つというが、そういう人々が多いという現実に、教会は、聖書の言葉は、何ができるのだろうか。何かができると働こうとしているだろうか。連日、感染者の死者が「数字」となって発表されている。それに慣れていないだろうか。いつか教会は、人の命や魂を「数字」でしか見られなくなったのだろうか。そこにいる一人ひとり、その家族や周囲の方々、医療従事者、その会社で検査を受けなければならなくなった人、その家族、子どもも出校停止となってしまう、そこに、どんな「愛」や「救い」をもたらすことができるか、考えてもよいのではないだろうか。平和な時に「平和」と口に出すのは簡単だ。それを自ら動揺しているとき、あるいは周囲が争いの中にあるときに「平和」と言えるかどうか、そこに信仰があるというような説教を、これまでしなかっただろうか。のほほんとしているときに「愛」だの「平和」だの説教していた方々、いまここでこそ、この窮地に陥った人々の事態に「気づく」ならば、そこに福音の力を伝えることを、ほんとうの仕事とする時なのではないだろうか。パウロが異邦人社会に伝えたとき、書かれざる様々な事情や情況があるのだろうが、やはりあのイエスがそうであったように、生きていてどうしようもない苦しさの中にあるところに近づいて、希望をもたらしたのではなかったのだろうか。
私もまた、こうしたことができていない一人である。その私を非難して戴いて、一向に構わない。口先だけだと言われても反論などしない。私はただ、医療従事者の一人を毎日支えて生活しているだけでしかない。だが、私が非難されて叩かれたとしても、それ故に、ここに挙げた問題が消えるわけではないだろう。不愉快なものを目にしたくない、とブロックしたとしても、防げる感染を防ぐということに対して背を向けることを避けねばならないことには違いはないのである。v
医療はいま危機的状態にある。一年前から言われていたことではあるが、その中でも相当に危機的な分岐点にある。最近の急激な感染拡大の中で、私がこのように準備してきた内容と同様のことを、医療専門家がまことに危機的な懸念として発言するようになってきている。医療崩壊は、トリアージを現実にするというのである。これまでもそういう懸念は確かにあったのだが、世を騒がせることになるために遠慮していたのではないか。しかし、ついにそれをもう言わなければならない事態にさしかかっているのである。
私たちの無知や無関心が、そして軽率な言動が、実はその医療崩壊に加担しているのだということを、考えて戴けないだろうか。現実の教会にはあまり期待していない私ではあるが(おまえは何をしているのだ、と非難される視点を忘却しているわけではないことは先回りしておく)、それでもキリストの体であるならば愛する思いはある。教会に対して何かチャレンジが与えられるというような機会に、して戴けないだろうか。万一、ここまでお読みになった方が、いるとすれば。