【メッセージ】幸せになる秘訣
2021年4月18日
(マタイ5:1-12)
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。(マタイ5:3,10,12)
聖書を読んでもらおうと思って、新約聖書をプレゼントする。若く貧しい私たちの結婚式での引き出物でした。読んでくださった親族がどれほどいたか分かりませんが、もし、聖書とは何が書いてあるのかな、と開いたら、まず最初のカタカナの人名の羅列に、思わず引いてしまうのではないでしょうか。信仰に基づいて昔の教会が決めたこの順番ですが、これはなかなか厳しいものがあります。
よし、ではそこを飛ばして頁をめくってみよう、となると、クリスマスに聞いたような記事があります。お伽噺のようですが、これはちょっと読んでもらえるかもしれません。それから、洗礼者ヨハネ、誰だろう。何の役割を果たしているのか、分からないなぁ。悪魔の誘惑、というお話、ますますお伽噺めいてしまう。こうして聖書は架空の物語だという印象を、予備知識のない読者にすっかり与えてしまうことになるでしょう。悪魔の誘惑というのは、仏陀の話にも似たようなのがあったぞ、などと思う人もいるでしょうか。それから、聖書のほうでは、弟子を集めたとか、病気を治したとか、物語としてのスタートは悪くないかもしれません。
と、ここからストーリー展開が止まり、「教え」が始まります。すると、倫理の教科書で習ったようなこと、あるいは何かの本で見たような言葉が登場します。ちょっと親しみが沸いてくるかもしれません。かくいう私も、この「教え」に触れて、その言葉が心を刺したというのが出会いのきっかけでした。
この5章から7章まで、三つの章にわたり、延々と「教え」が続きます。山に登り、そこから弟子たちに話して聞かせたという設定があるため、「山上の説教」、あるいは古くは「山上の垂訓」などとも言われました。このときにイエスが忙しく一気にこれだけのことを言ったり立て続けに話して、それから伝道旅行に出かけた、という、書いてある通りの出来事を想像するのは、ちょっと記述に忠実すぎる気がします。どう考えても、いろいろな機会にイエスが話したものを、ここに一覧できるように掲げた、としか思えません。読者はキリストの「教え」を概観できます。ここにはその「教え」の「まとめ」があると見てよいと思われます。ここなら、聖書に触れてみたいと思う方にも、とりあえず安心してお薦めできそうです。
さあ、今日はその「まとめ」の冒頭を開きました。まずは山に登ったという場面設定。イエスは高いところに座り、弟子たちもそのそばに寄ってきたといいます。聖書では時折、高い山は神と出会う場所とされ、また神は山から人に語るという設定が見られます。モーセの十戒も、そのように山を舞台としました。イスラエル民族に神から渡される掟や教えは、山で告げられました。旧約聖書の伝統を重んじるマタイのことですから、たぶんここでも、イエスが新しい教えを人間に与えるという形を見せているのだろうと思います。
そして3節から具体的な教えが始まりますが、リズムのよい最初の8節がなんといっても特徴的です。日本語だとその特徴が少し見えにくいのですが、原文では、節の始まりがすべて「幸い」という言葉になっています。つまり最初は「幸いなり、心の貧しい人々」というように始まるのです。まるで詩のように、テンポ良く心に入ってきます。
これは「八福の教え」などとも呼ばれて有名です。「福」とは幸福のことですから、「幸い」が8つ並んでいる、という意味です。しかし、ひとつの説教のためにこの8つが全部読まれるとなると、語るほうとしては少し困ります。これらはなんとも奥が深く、また瞑想をしようとしても、1つの「幸い」だけで十分多くの時間を費やすことができるわけで、一つの説教を費やしても、その1つを語りきれないほどに感じるからです。この調子で8つに触れてお話ししようとすると、朝から晩までかかってしまうでしょう。夏目漱石の小説すべてについて30分で話せと要求されているようなものだと言えば、少しイメージして戴けるでしょうか。
そこで今回、この「幸い」を8つお話しするということはあっさりと諦めました。これらについては、すばらしい黙想のようにして綴った本もたくさんありますし、良い解説や説教なども、インターネットからいくらでも拾うことができますから、ぜひ味わって戴きたいと思います。さらに、神学的議論がお好きであれば、似たような記事を置いたルカとは異なりマタイが「心の」を挿入していることについてとか、「義」とはどういうふうに捉えるべきものなのかとか、聖書の「平和」とは何だろうかとか、いろいろ深く考えるべきことが多々あります。でもそれはいまできませんから、ここではざっくりと、「幸いなり」の全体を、イエスがどのようにまとめているのか、またそこから私たちが今日何を聞き取り受け取ればよいか、そうした点に注目してみようと思います。
「幸い」で始まる8つの教え。もちろん鍵はこの語でしょう。原語のニュアンスはたぶん、「幸せ」でもよいのですが、羨望の対象となるくらいに祝福されている様子をイメージできるようなものではないかと思われます。イエスが持ち出した8つの角度から宛てられた、望ましい人間の姿は、それぞれが「幸いなり。なんとなれば……」の形式を貫いています。
この「幸いなり」は、詩編1編を踏襲しているとよく言われます。
1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
旧約聖書の詩編というところを開いたら最初に目に飛び込むのが、これらの言葉。これはただの詩ではなく、ここから続く150の詩編のオープニングであり、これらの詩のすべてを象徴するものであると識者は感じています。詩編の全部を代表して、これらは皆何をモットーとしているのか、示しているというのです。
主の教えを愛してひねもす唱えるような人の幸いであり、それは神に逆らう者の仲間にならない人です。神に祝福されることにこそ幸せがあるのだというわけです。旧約聖書にはこうした「幸福」並びに「祝福」が人生最大の目的のように扱われていることがあります。特に、申命記は、祝福のオンパレードです。
11:26 見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。
30:15 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
30:16 わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
主の言葉に従いその戒めを守るならば祝福を受け、幸せになる、というのが一貫した姿勢です。申命記というのは、モーセが、荒野を旅するイスラエルの民に、主なる神に従うか否かを迫る総まとめの書ですが、この書が書かれた時代は、ざっと千年後のことだと考えられています。長きにわたり同様の信仰が保たれたことも驚異的ですが、こうして時の流れを超えてつながるものがあることにも感動を覚えます。
イエスはそこからまた五六百年後に、このような幸せへの途を、人々に提示したのです。ローマ帝国に支配され、栄光のイスラエルの歴史はぎすぎすした暗いものとなり、神はどこにいるのかと言われるような有様の中、さらにそのイスラエルの宗教を司る人々に多くの民が圧迫され見下されて同胞の中でも肩身の狭い思いをしていた人々に、イエスは幸せへの途を見せたのです。
それをマタイが一箇所にまとめて置きました。マタイは旧約聖書を重んじます。神がユダヤ民族に与えた聖なる書物に、イスラエルと全人類の救いをもたらすメシアが現れるということが書かれてあった、と示したいと考えていました。また、書かれてあったからこそ、このイエスは本物であると叫びたかったはずでもありました。ですから、こうした詩編や申命記を意識していないはずはありません。現に、多くの個所をそこから引用しています。
幸せというのが、神の言葉に従うこと、神の意に適うものである、ということはひとつここで押さえておくことにしましょう。
次に、その幸せの内容に目を向けてみましょう。どうやら、人間が普通に思い描くようなものとは食い違っているようなものになってはいないでしょうか。8つの幸いをさらりと流れてみると、まず、ルカのように端的に恐らく経済的に「貧しい」者であれ、マタイのように「心の貧しい」と言うことにより何か精神的な要素を招き入れたような者であれ、いずれにしても「貧しい」というのは不幸なことのように思えます。「悲しむ」ことも幸せだと思う人はいないでしょう。但し、その後は、最後の「迫害される人々」のほかは、確かにそれは幸せかもしれないと思わせるものが並んでいるように見受けられます。マタイは何もここに、逆説めいた、意表を突いたものを並べようとしたわけではないものと思われます。
それにしても、最も遭いたくない不幸は、迫害ではないかと私なら思います。とくにここにあるような、身に覚えのないことで迫害されるというのは、辛いに違いありません。悲しむのは仏教の教えを出すまでもなく、人生の常でもあります。貧しさも、よほどの王侯貴族でなければ当然かもしれません。心の貧しさというのは解釈が難しい面もありますが、たとえさもしい心であっても、迫害を受けるほどの危険性はないと考えることが可能です。イエスを信じている、ただそれだけのために命を狙われる。命を奪われる。それは、かつて旧約の預言者たちも散々な目に遭ってきたことがあるのと同様に、決して望ましいものではなく、どうあっても避けたかった事態であろうと思います。
預言者の中でもその心理が巧みに描かれているものとして、エレミヤ書を思い起こします。私の最も好きな預言者です。
紀元前7世紀に神に呼ばれ、際どい時代に預言者として活動しました。それは、バビロン捕囚という大事件を直接経験したという意味でも壮絶でしたが、王や楽観的な預言者たちに対して大胆にエルサレムの危険を叫んだために、牢獄に閉じこめられ、命の危機に晒され続けたのでした。そしておとなしく捕囚としてバビロンに行けば生きながらえると自ら預言しながら、当時のイスラエルの勢力によりエジプトに連れて行かれる羽目になりました。その後の生涯は記録が途絶えています。
いやいや、ここでエレミヤにのめり込んでいる暇はありません。山上の説教に、そして8つの幸いの教えに戻ってきましょう。いえ、8つの幸いそのものについては先ほど駆け足で駆け抜けました。これに付け加えられる部分を含め、最後の「幸い」からもう一度振り返ってみましょう。この8つ目からは、ずっとその「迫害」について書かれているのでした。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
「幸い」の8つ目から先は、最後まで「迫害」の話が続きます。恐らく、マタイの執筆した当時の教会の情況を押さえているのではないかと想像します。つまり、当時もまた厳しい環境にありました。キリストの弟子としてイエスの教えに従う人々は、自分たふちとしてはユダヤ教の本当の姿として信仰していたに違いないのですが、当のユダヤ教の人々からはひどく虐げられました。まさにユダヤ人から迫害されていたのです。そのユダヤ人たちときたら、マサダ砦での反乱軍の絶滅を経験し、もはやエルサレムに足を踏み入れることができなくなる羽目に陥っていましたから、民族の縁としていた神殿での礼拝が不可能になっていました。それがキリスト者のせいだとされていたわけではなかったものの、異端分子としてのキリスト者たちは、どこでユダヤ教の勢力と顔を合わせても、命の危機があるような状態ではなかったかと思われます。パウロが迫害されていた、あの流れです。そればかりか、ローマ側からも狙われていた可能性があります。後の時代ほどの酷い迫害ではなかったかもしれませんが、ネロ帝がそうであったように、自らの不始末や政局の不安定を、キリスト者たちのせいだと不条理に担わされていたこともあったでしょう。迫害は現実のものであり、命を落とすことも度々あったことでしょう。迫害というものは、マタイが福音書を記した当時、その執筆のためにも、また信仰の励ましのためにも、きっと大きな要因であったに違いないのです。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
これはちょっと見ると、「幸いである」とあることから、9つ目の「幸い」であるかのように思い違われることがあろうかと思います。事実、冒頭に「幸い」という語があるのは同じなのですが、その後のリズムが少し違ってきているので、原文を見るとそれまでの8つとは違うということは分かります。また、これはその8番目の「迫害」のテーマを深めていることは、そのまま読めば一応分かるはずです。
この迫害の話題の延長において、最後には「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われていますが、これは、「喜べ、そして躍り上がるほどに喜べ」というような雰囲気を伝えています。また、「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された」と告げ、かつての預言者たちと同じ迫害に遭うことも伝えています。だから「天には大きな報いがある」ことを大いなる慰めにしています。
いったい、ここでマタイがまとめたイエスの「幸せ」にまつわる「教え」は、迫害にこそターゲットがあると言いたいかのようにさえ見えます。迫害されることを喜べ、それこそが最高の喜びだ、とでも言わんばかりに、説明を加えています。
ところで注意深く8つの「幸い」を見ていると、その後半の部分において、動詞の時制に特徴があることが分かります。最初と最後のを除いた中間の6つは、「慰められるであろう」「地を受け継ぐであろう」「満たされるであろう」「憐れみを受けるであろう」「神を見るであろう」「神の子と呼ばれるであろう」と、未来のことを表す言い方になっています。だから幸いなのだ、と。ところが最初と最後は未来形ではなく、現在形です。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
するとこれら二つは、後半が全く同じであることに改めて気がつきます。「天の国」というのはマタイが、「神」という語を畏れ多くて言いたくないがために「天」と言い換えている故であり、私たちはシンプルに「神の国」と呼んで差し支えないものとします。すると「神の国はその人たちのものである」と、最初と最後で締めていることになります。まさに「いま」神の国はその人たちのものなのです。「神の国」とは、「神が支配する」という事柄をも表すことができる語です。その人たちはまさに神が支配している中にあるのだ、と理解できます。それが現在形で述べられているというのは、過去や未来は違うが今だけだよ、という意味ではなく、これは真理としていついかなる時でも成り立つことなのだよ、と言うこともできるわけですから、その人たちはもうずっと神の手に握られているのですよ、だから幸いなのですよ、と言っているようなものです
この「あなたは神の手の中にいてもうずっと幸せなのです」という宣言は、「心の貧しい人々」と「義のために迫害される人々」も同じことなのでした。するとまた、「天には大きな報いがある」というその報いとは何かということになりますが、そこには「あるだろう」という未来形はなく、実際動詞がない文ではあるものの、先ほどの挟まれた未来形のところに関係があるものと思われます。そこに目を戻しましょう。より具体的な報いというものが並んでいたように見えませんか。
5:4 その人たちは慰められる。
5:5 その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 その人たちは満たされる。
5:7 その人たちは憐れみを受ける。
5:8 その人たちは神を見る。
5:9 その人たちは神の子と呼ばれる。
こうなると益々、最初の「心の貧しい人々」が気になってきます。繰り返しますが、ルカはこの箇所で「貧しい人々」と書いています。研究者たちは、こちらが原型に近いのではないかという意見が多いのですが、だとするとマタイはどうして「心の」を加えたのでしょうか。
聖書で「心」と訳されている言葉には、注意が必要です。原語ではいくつか違う語であるのに、日本語では便利な「心」で片付けられていることがあります。「心」は何でも表せるのです。マタイが使ったのは「霊」という語です。これを「心」とするのはやや勇気が必要です。「霊」は「息」または自然の「風」とも訳せる、というのが一般的な理解であり、聖書世界ではこの三つが同じ語であるというのが常識となっています。また、前置詞がなくて与格ですから「霊に貧しい人々」というようなニュアンスで書かれています。「霊」という語にはどうしても神との関係がにおわされています。「霊に貧しい人々」というのは、イメージとしては、「神との関係に貧しい人々」のように捉えてみては如何でしょうか。この人々は、幸いだというのです。
物事は、逆の場合を考えてみると、理解が進む場合があります。マタイは、神との関係の豊かな人々は幸いではない、と考えている模様です。これは意外に思えます。神との関係は豊かであったほうが、よいのではないでしょうか。問題は、誰が豊かだと考えているか、ということです。
6:1 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:5 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:16 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
いずれも、この後同じ山上の説教の中に集められた教えの、それぞれのテーマでの初めの部分です。見事にマタイの意図が明示されています。人に見せるために善行をし、祈り、断食をする者たちの悪例です。自分は神との関係をちゃんともっていますよ、と人に見せているのです。そしてこれらは見事なくらいに、「報い」にも触れています。もう報いは神にはもらえない、すでに自分で益を得ているだけだ、と強烈に非難するのです。
「神との関係に貧しい人々」とは、自分には神の前に力が乏しく、何の値打ちもない者だと自覚しているような人々のことではないかというように思えてきました。神との関係など自分にはもてないと嘆くような人々です。
自分は神の前に何の誇れるものをもたない。自分は神の前に出るには何の相応しさも持ち合わせてはいない。偉い大祭司様やファリサイ派の学者先生に比べると何の知恵もないし、律法を守っているわけでもない。そしてこうしたお偉い方々からは、いつも「おまえたちはダメだ」「神の前でいつも土下座でもしておけ」と言われてばかりいる。そんな人々です。さらにマタイの時代までには、迫害されて小さく隠れ、怯えている、そんな生活を強いられているような人々、それこそがイエスは「幸い」だと言っていると宣言するのです。
もし、神の前で霊が元気溌剌であるような人というのは、どんなふうにしている人でしょうか。きっと、神なしでも強い人です。自分を信じ、自分が可愛くて仕方なく、何事も自分で済ますことができ、自分の考えこそ正義そのものだと自負しているような人です。自分は強いと誇る者、神との関係において自分を立派だと自認している者です。つまりは、傲慢な者なのです。これはいけません。聖書は、このような人間になることを求めてはいないのです。神にとりそのような者は、救いの対象ではないということです。神は、こういう人に対して「幸い」だなどと祝福するつもりはないのです。
幸いなり。神との関係に自分の無力さを痛感しているような人。この人は迫害をも受けます。ますますこの世で惨めな存在であり、なんら良いことを知らないような人に見えるかもしれません。けれども、神のもとに呼び集められ、祝福されるのは、このような人々なのです。
どうぞ喜びなさい。躍り上がるほどに喜びなさい。大喜びしてよいのだ。……ほんとうに、そう言えますか。喜びのメッセージが溢れてくるでしょうか。山上の説教のスタートは、そのようなメッセージであったはずだというのに、いやあ、そんなおめでたい気分にはなかなかなれません、そう言いたい人はいませんか。
でも、神はこの言葉を今日、あなたに届けたいのです。あなたの胸にすんなり入ってこないとしても、神は無理やりそこにこの言葉を押し込もうとするのです。あなたが拒もうとしても、神は祝福したがって仕方がないのです。ルカによる福音書の中の強烈な言葉がそれを証拠立てます。
6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
ルカはここで、人を裁かず、赦すところに祝福がある、と説いています。そしてさらに、与えよ、と命じます。与えることによって自分は空になります。そうなったら、今度は神が「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに」懐に祝福をぶちこんでくる、と言うのです。「与える」とは何を与えるとよいのでしょうか。財産ですか。教会にたくさん献金をしますか。慈善団体に募金をしますか。それもひとつかもしれません。しかし、この祝福は「霊に貧しい人々」にもたらされたのでした。神の前で徹底的に無力で価値のない自分を痛感した人は、もはや自分自身を誇るような思いは残っていません。自慢する心は全部外へ棄ててしまいました。自分可愛さを放棄し、投げ出した人、つまり与えてしまったのではないでしょうか。自分がもっていたもの、自分が頼りにしていたもの、自分の誇りたいもの、それらを皆与えてしまいました。もう私は空っぽです。そんなふうにして、自分が自分がという思いを捧げてしまったところに、神が恵みを無理やりにでも与える、と言っているのです。何を神が与えますか。そう、神の国です。神の支配する領域に、あなたを呼び招き、そこに立たせてくださるのです。神が支配するとはどういうことか、たっぷりと思い知らせてくれるはずです。
幸せになる秘訣。それがここにあった。私の見つけた秘訣ですが、さらに具体的にどうするのか、この秘訣の実践はどこにあるのか。それは一つひとつが恵みとして、これから皆さまお一人おひとりが、体験していかれることになっています。このイエスの「教え」を、信頼できる言葉だとして受け容れて、その言葉を画餅にしておかないために、ご自分がその言葉を生きるならば、そのところに、この言葉は確かに実現していくことになると私は確信しています。幸いに「なる」のではなく、もうすでに神の国がやってきて、幸いで「ある」のだ、と。